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「糧」4年•土井 源也



平素より大変お世話になっております。
今シーズン副主将を務めました、土井源也です。


予め記しておくと、このブログで私から後輩に新たなメッセージを伝える気は微塵もありません。
私の経験値や感情、信念といった伝えたいことはピッチに全て置いてきたつもりです。

このブログを書く目的は、この4年間での学びや当時の感情を色褪せないものにするためです。

等身大の自分を文字に起こしたこのブログを数年後にでも読み、またいつかの糧に出来ればと思います。



それではどうぞ。
(文体変わります)


引退してから2ヵ月が経過した。
研究室や入社前課題など残されたタスクはあるものの、今の生活は本当に楽だ。
引退に伴い多くの自由を手にし、今までサッカーに費やしてきた時間の長さには大変驚かされる。
反動で「何もしなくて大丈夫なのか」と不安になり、マラソンやウエイト、英会話を始めてしまうくらい。
引退してからは1度もボールを蹴っていない。それでもふと気づいた時にはサッカーの事を考えてしまう。
もう2ヶ月経っており、余韻にしては長すぎる。
しかし、それほど濃密な4年間だったと改めて思い知らされる。

その中でも、自分が上智大学体育会サッカー部員として過ごした最後の日は当然ながら記憶に新しい。
最終節の終了の笛を聞いたあの瞬間、多くの時間を共にした同期達はどんな想いを抱えていたのだろうか。

自分の場合は、とにかく「やっと終わった」という安堵感しかなかった。

試合前から昇降格の無い中位が確定しており、結果に対して思う所が少なかったのもあるかもしれない。


あの瞬間をもって、

自分が背負った副主将、渉外課長、クリニック代表といった数々の肩書きから解放された。

目まぐるしく変わる評価と向き合い心をすり減らしながら戦う毎日から解放された。

練習中に部員に対して「言われるの嫌だろうな」と分かりながら強い要求をすべきだという使命感から解放された。

他にも挙げればキリがないほどの呪縛から一気に解放され、気づいたら涙を流していた。


そこで「俺頑張ってたんだな」と素直に思えた。


振り返ると様々な悔しい経験をした。

やっと掴んだと思った初の都リーグメンバー入りが台風直撃で延期され、翌週には自分の名前がなくなっていた1年生の時のもどかしさ、

スタメンの選手が離脱した時に、代役として抜擢されたのはA2でそのポジションを担っていた自分ではなく、一度もやった事のない別の選手だった2年生の時のあの苛立ち、

念願のスタメンで起用され、入部時に決意した「上のチームだった久我山の同期に勝つ」という目標を達成する絶好の機会が訪れるも、勝つ事は愚か、アシストまで付けられ圧倒的な差を見せつけられた3年生での挫折。

そんな悔しさばかりの日々の中でも、確かに1歩ずつでも進められている充実感を噛み締めながら3年間を過ごすことが出来た。

迎えた4年目。
ピッチ内外におけるチームの好発進も重なり今年こそは良いシーズンを送れるかもなという微かな期待とは裏腹に、1番試練の時を過ごしたのは紛れもなくラストイヤーだった。

調べれば調べる程、無限と湧き出てくる情報の取捨選択に追われた就活、
「もっと早く進めてくれ」と毎週詰められ夜まで1人で実験をしていた研究室、
スポンサーや千代田区サッカー協会の方々を初めとした多くの関係者様との継続的なやり取りやプロジェクト遂行。

常に何かに追われている焦燥感が身体を支配し、心が休まらない。
元々要領の良いタイプではない中、練習時間外でのサッカーへのコミットメントを大切にしてきた自分にとって、他のことにも力を入れざるを得ない状況に立たされている事実を自覚するのは相当な苦痛であった。

それでも自分のキャパシティでは不可能ともいえるタスクを100%真っ向勝負で挑んだ結果、徐々に綻びが出始め、今までの自分なら絶対にしないようなミスさえもしてしまう時期を経験した。

高3の時、李済華さん(現 國學院久我山 監督)に「サッカーを頑張るな。力が入って上手くいく事はない」なんて教えてもらったけど、まさにそういう事だったのかもな。これはサッカー以外でも言える話だと、今になって思う。

自分のバイタリティを発揮し成し遂げられた事も多くあった一方で、「全力」の限界も同時に突きつけられた。
今後社会人になるにあたって「脱力」は自分にとって重要なテーマかもしれない。


こんな感じでほとんど試練ばかりのサッカー人生だったのは事実としてあるが、苦しみもがいた日々を通じて幾つかの大きな財産を享受した。


まずは「自分でも世の中を変えられるんだ」という自信を得ることが出来た。


その自信を裏付ける出来事として、私は2つの形でサッカー界に貢献したと胸を張って言える。

まずは「大学サッカー界を発展させた」事。

2023年、レバレジーズのサッカー界への参入とご尽力により、多くの大学サッカー部が競技力や広報の質の向上など、多方面に渡り変革を遂げた。その第1号を締結したのが上智大学体育会サッカー部だ。

レバレジーズのスポンサー担当者である木場さんとは、お互いに何が出来るのか日々模索しては提案し、時には食事に行って胸の内に秘めていた野望を語り合い、形あるものにしてきた。

そういった中で自分なりに示した価値創出や信頼感が評価されたからこそ、2番目3番目と多くの他大学サッカー部との契約をされたと自負している。

そういった意味で私は上智だけでなく「大学サッカー界を発展させた」。


そして、「子ども達にサッカーで夢を与えた」。

都会でサッカー環境がない千代田区の子供達に向けた地域貢献として開催していたサッカークリニックだが、なかなか参加してもらえず彩子や穂波と「今日も少なかったね」と肩を落とす日々もあった。

何時間にも渡るミーティングを何度も行い、やっと新たに見い出した打開策が「未経験者クラス」の新設だった。
「サッカーを始めてみたかったけど乗り遅れてしまった」「いきなりチームの体験に行く勇気が出ない」といった子ども達がプレーしやすい環境を作り、千代田区の全部の幼稚園に電話をかけ、車で回ってチラシを置いたりもした。今思えばかなり無茶な作戦だったかもしれないが、協力してくれた仲間には頭が上がらない。
そこからの色々な過程は長くなるので割愛するが、最終的には過半数がサッカー未経験者かつ毎回40人は集まる教室になった。

そして自分が子供の頃、プロの選手と触れ合い高揚感を覚えたのと同じように、FC今治の方々をお招きすることで子供達が目をキラキラ輝かせている姿を見ることが出来た。

初参加時はお父さんから離れることすらひと苦労だった男の子が「サッカー選手になりたい」と言ってくれた時は本当に涙が出そうになった。

微力ながら、未来ある子供にサッカーと出会わせ夢を与えることが出来たのではないかと思っている。


スポンサーやクリニックと、いずれも幼少期に夢見たサッカー選手という形ではなかったものの、別の形でサッカー界に貢献できたことは、今までの挫折や試練すらちっぽけに感じるくらい大きな財産になったといえる。

私はここで得た自信を活力に、社会人としてどんな状況にも臆することなく飛躍することを誓う。


そしてその他にも、もがいた日々が間違いなく自分を強く、逞しく、賢く、カッコいい男にさせてくれた。

試合前の整列段階でKNOWSが1人だけオレンジ色(心拍数が運動直後並みに高い状態)を示すほど緊張しいだった自分が、出番が来た時に「さあ今日はどうやって暴れようか」と思える程にはタフになった。

結果のみで全ての善し悪しを判断し、ミスをした公式戦後に「何でドリブル仕掛けたんだよ!」と落ち込んでいた自分は、いまやプレーの成功可否に関わらず「目の前にチャンスがあったら迷わず仕掛よう」という信条を体現出来た事を評価出来るようになった。

人前で話すことが下手くそで、話し始めると終着点を見失うこともあった自分はもういない。後のスポンサーになる商談相手の企業様に「引き込まれてしまった」と言っていただき、後輩の敦也に「すげえわ」って言ってもらえるくらいには成長できた。

本当に多くの事を教えてくれた南出くんに「誰よりも喋れ、そしたらチャンスを与える」と言われたあの日から引退する日まで練習で1番声を出し続けた。

最高学年になるにあたって「大きい背中を見せること」「弱い姿は1ミリも見せない」「諦めの悪い男になる」と心に決めた事は信念持って貫いたつもりだ。

そして、人生の先輩として私なりに様々な事を後輩に教えた。どれだけ伝わっていたのだろう。

裕二郎には、普段論理的に話している人間が「情熱的に語り始めた瞬間」が人の心を最も動かせると教えた。

ハセには、スポンサー商談は断られた時にこそ最大の収穫があるから最後に必ず「何故ダメだったのか教えてください」と言い残して帰れと教えた。

航大には、自主練が最も上手くなれる時間で、脳にとてつもないストレスをかけて取り組み続けることでやっと昇華すると教えた。

穂波、直人、蒼太には、「反省・改善策・次への展望」の3ステップを入念に突き詰め、時間をかけて話し合った先にある成功体験を味わってもらった。

どれほど影響を与えることが出来たかは分からないが、自分がこの組織に残した姿勢や言葉が誰かのモチベーションを向上させる起爆剤になれればこの上なく嬉しい。

あとはお前らが自分で火をつけ、燃え尽きるだけ。
期待してるよ。

俺もここで得た数々の財産を武器に、デカくなってきます。



ありきたりな締め方にはなりますが、最後に1番お世話になった両親への感謝の言葉で終わろうと思います。



母へ
22年間本当に多くの迷惑をかけました。
ストレスを抱えながらも常に寄り添ってくれてありがとう。
久我山の時、メンバー外なのに応援に来てくれていたね。「親は試合に出ている姿が見たいわけじゃないんだよ」と言わせてしまっていることが申し訳なくて、胸が張り裂けそうだった。今だから言えるけど、大学でサッカー部に入部した本当の理由は親にトップチームで活躍している姿を見せるためだった。その点、部を背負ってプレーしている姿を見せられた事は良かったけど、それも自分の力ではなく毎日の支えがあったからこそ出来た事だった。
朝練の日には朝5時におにぎりを作って送り出してくれ、天気が悪い日には「車で送ろうか?」と言ってくれた。
4年生の初め、精神的にキツくて話し合いすら拒み、目の前で涙を流して困らせてしまった時があったね。今までの人生であんな事になったことは一度もなくて、自分でも驚いた。そんな時に引き戻してくれたのもお母さんの手紙だった。
結局恩返しどころか母なしでは何も出来ないことに気づき、ただただ自分の情けなさを痛感した。
恐らく3ヶ月後にはこの家から出ることになる。
寂しいけど自分を信じて頑張ってきます。定期的に帰ってくるね。
22年間にも及ばせてしまった長すぎる子育て、本当にありがとう。
今まで受けた大きな愛情は、俺にとっての自慢で、強みでもあり、活力です。
今まで俺らに何でもさせてくれたように、これからは好きなことに沢山時間を使ってください。
ここから本当の恩返しが始まるので、楽しみにしていてください。



父へ
自分が周りの人から「少し変わってる人」だと言われるのは間違いなく父が理由だよね。
異国の地で1人で働き孤独と戦う毎日は、俺たちの想像を絶するほど苦しいと思う。そんな環境に負けず組織を率いている姿は素直にカッコいいです。
また、一家の大黒柱として支えてくれてありがとう。
今まで俺がやりたい事や叶えたい事への否定はされた事なんて1度もないし、どんな事が起きても動じず、寧ろ笑ってるまである安心感はとても心強かったよ。
家では母に怒られたりだらしない部分もチラホラ見えるけど、ひとたび外に出ると気づけば常に父の周りには人の輪があり、突拍子もない事を言って人を笑わせ、強烈な印象を残して帰る凄さは唯一無二で正直誰も敵わないと思う。
実は就職活動で「あなたにとって凄いと思った人は誰ですか」と聞かれ、「父です」と答えていた。
そんな人間味があり魅力溢れるお父さんだけど、いつか必ず超えてみせるね。
部活でしばらく会いに行けなかったけど、今度遊びに行くね。
一緒に酒でも飲みましょう。



長く拙い文章でしたが最後まで読んでいただきありがとうございました。

これからも上智大学体育会サッカー部へのご支援の程、よろしくお願い申し上げます。



2023年度 副将
土井源也


次回のブログは共に幹部を務めた小熊崚介です。
豊富な語彙力とセンス溢れるワードチョイスを兼ね備える彼は、最後どのような言葉を残しサッカー部を退くのでしょうか。
乞うご期待です。

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