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「国民主権」を問い直す

「選挙」を問い直す

問題です。以下の記述は正しいでしょうか?

政治家でない市民が政治に参加する手段は「選挙」のみである。

中学校の「公民」や高校の「政治・経済」「現代社会」をそれなりに学んだ場合でも、この文について「正」と思う人が少なくないのではないでしょうか。
答えは「誤」です。市民による政治参加は選挙に限られません。「選挙権=参政権」と捉えられがちですが、正確には「選挙権∈参政権」です。それどころか選挙は「政治参加の端緒」の1つに過ぎません(勿論この事によって選挙の意義が軽んじられるわけではありません)。普段は政治的問題について余りチェックしない者が、選挙期間の時だけ各候補者/政党のマニフェストや党是に着目し、投票が終わればそれで「政治参加」は終了、というケースは少なくないでしょう。しかしこれは「テーマパークの入場券を購入したが中に入らないで帰る」ようなものです。候補者が当選して議員(=公務員)になる事は「市民の監視/批判の対象となる事」です。同時に、選挙に参加した者は「主権者」として議員を監視/批判していく使命を帯びる事になります(当該議員に投票したか否かを問わず、です)。為政者を自分の意思で選んでおきながらその後は放任というのでは、一体何のための選挙/参政権でしょうか。政治批判に対して時折「選挙で選ばれたから」「これが民意だから」というマウンティング(=冷笑?)が見られますが、この人達は「選挙で選ばれた=全て正しいから服従すべき」とでも思っているのでしょうか。「選挙に行ったから有権者としての使命を果たした」とでも思っているのでしょうか。「選挙が終わればお疲れ様」という人は、政治参加の契機を放棄しているようなものです。そして選挙後に為政者に対してコントロールが及ばないような参政権は全く無意義です。
議員当選然り、首相指名/任命然り。動もすれば「ポストに就く」事が至上命題と捉えられがちです。ポストに就くために多大なエネルギーと財を注ぎ、晴れて目的達成すればその後は「燃え殻」の如くモチベーションが激減。自由民主党が公約として「TPP断固反対」を掲げたが、後にものの見事にそれを反故にした、という事例がそれを物語っています。これでは「マニフェストは選挙での争点以外に意味を持たない」と看做されても致し方ないでしょう。有権者のみならず為政者も「競争が終わればそれで終了」と思っている者が少なくないようです。

多種多様な政治参加/デモとアドボカシーの有用性を問い直す

選挙以外の市民による政治参加については枚挙に暇がありません。以下、代表的なものをあげておきます。

デモ/住民監査請求/情報公開請求/事務監査請求/(リコール等の)署名運動/請願/政党の党員参加/政治家の後援会所属/オンブズマン/国勢調査/新聞への投書/SNSでの情報受信及び発信/異議申立/審査請求/行政訴訟

これらはほんの一部に過ぎません。ここでは上記のうち「デモ」と「SNSでの情報受信及び発信」について見ていきます。

まずはデモから見ていきます。デモとは「demonstration=示威行動」の略称であり、ある特定の思想/主張を持った人が集合してそれを外部に示す行為を指します。日本では動もすれば「デモ=反社会的行為」と看做されますが、憲法第21条第1項で「集会/表現の自由」として保障されている歴とした市民の権利です。それどころか、市民サイドで見た近代日本の歴史は、デモの歴史とすら言えます。明治時代中盤の自由民権運動や終盤の護憲運動、大正時代の大正デモクラシーや青鞜社等による婦人参政権獲得運動、小作争議、水平社宣言等もデモに属します(たまに「デモとはデモクラシーの略である」と勘違いしている人がいますが…)。当時の市民は社会改善を目的として頻繁にデモを行っていたわけです。「お上に逆らうとはけしからん」という考えの者が散見されますが、歴史を繙けば「比較的最近」である近代においても市民はしばしば「お上に逆らってきた」のです。尤も大逆事件以降/昭和以降についてはそれぞれ政府による思想統制/弾圧によりデモの「冬の時代」を迎える事になりますが。
現代ではデモは「選挙を補完する参政権」としての意義があります。選挙においては市民は個別の政策への意思について十分に示せないので、それを示す契機がデモというわけです。また、選挙の場合は「任期満了時」といった時間的制約や「衆議院解散」といった政府主導的要素があるのに対し、デモの場合は「主催者のイニシアティブ」によって任意に実行できる点にも注目です。デモに参加する人にとっては「問題の共有」という意義があり、またデモに参加していない人にとっては「デモによって初めて問題が顕在化」する事もあります。選挙がマクロ的な政治参加であるのに対して、デモはミクロ的な政治参加であると言えます。

続いてSNSでの政治参加について見ていきます。先に述べたデモも含め、政府による政策の実現/阻止を求めて社会に対して働きかけを行う事をアドボカシー(advocacy)といいます。SNSでの政治情報受信/発信はアドボカシーの一種です。2010年のチュニジアでのジャスミン革命に始まる「アラブの春」と言われる一連の大規模反政府デモ→独裁政権の瓦解という流れは、TwitterやFacebookといったSNSによる影響が大きいと言われています。
SNSの拡散力には目を見張るものがあります。Twitterにおいて政治的争点についてハッシュタグを付けてツイートすると、瞬く間に拡散されます。たとえば、今年の5月、実際に日本でも #検察庁法改正案に抗議します がトレンド入りし、その結果同法の改正案は延期となりました。SNSによる政治的情報/意見の発信による影響は決して少なくないでしょう。実際に私もこのnoteやTwitterで投稿/発信する事によってアドボカシーを行使しているわけです。発信する事のみならず、SNSで政治情報を受信し、考察する事も立派な政治参加です。自ら発信しなくてもリツイートによって当該情報を拡散する事が可能です。尤もデマも蔓延しているので、情報の真偽について吟味する必要があるのは言うまでもありません。これは「自戒」でもありますが。

参考文献

⭐️三春充希『武器としての世論調査』(ちくま新書)
⭐️宇野重規『民主主義とは何か』(講談社現代新書)
⭐️上神貴佳/三浦まり編『日本政治の第一歩』(有斐閣)
⭐️加茂利男/大西仁/石田徹/伊藤恭彦『現代政治学』(有斐閣)

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