Eテレ「#8月31日の夜に。」を視聴して

7月17日に放送された、Eテレ「ハートネットTV」の「#8月31日の夜に。」という特集を観た。

同番組サイト内の日記帳に、10代の方たちが綴った「生きづらさ」。

社会が暗黙のうちに突きつけてくる「こうあらねばならない」みたいな重圧が、彼ら彼女らを苦しめているように思えた。

それに加えて、その重圧への不満を抱くことは許されず、苦しみの原因や責任を、自分自身に押し付けさせられているようにも見えた。


彼ら彼女らの「生きづらさ」を何とかしたいと思ったら、私たち大人の「生きづらさ」を放置していてはいけない。

困ったら、きちんと助けを求めよう。甘えよう。

それも結構、難しいことだけど。


「仕方ない」という言葉で、理不尽なことをあきらめないようにしよう。

おかしなこと、理不尽なことには、しっかりと声を上げよう。

悪いのは、「生きづらさ」を抱えるあなたや私じゃない、あなたや私を生きづらくさせている何かだ。

それをしっかり見極めて、「それはおかしい、理不尽だ、人権侵害だ」と怒っていいんだ。


それから、嫌なことには嫌と言い、少しでも生きたいように生きよう。

それは、ワガママではない。

生まれつき無条件に尊厳を持った一人の人間の、正当な要求である。切実なニーズである。

まずは、そのニーズを表に出さないことには、議論さえ始まらない。

例えば、私は1日8時間労働でも長すぎると思っている。

1日4〜6時間労働くらいが、ちょうどいいと思っている。

そうすれば、仕事の後に勉強もできるし、ボランティアやデモなどもやりやすく、雇用されて従事する「仕事」ではない、市民としての「仕事」が十分にできるからだ。

そのための一歩として私は、とりあえず長時間労働是正の署名やデモに参加している。


大人が自分に正直に生きる、思ったことを言う、理不尽なことに声を上げて少しずつでも社会を変える、身近な問題解決に動く。

そんな背中を見せなければ、10代の方たちが、人生に希望を持てるわけがないじゃないか。

大人が自分を押し殺して、「仕方ない」と声も上げず、「苦しい」との本音ももらさずにいたら、10代やそれ以下の子たちがそうできないのは当たり前だ。


とはいえ、それには勇気もいるし、知恵もいる。仲間も必要だ。だから、今すぐには難しいだろう。

でも、やれることはきっとある。

例えば、こんな風にネットに投稿すれば、1つでもそういう意見が増えるわけだ。

小さくても、声を上げていれば、きっと味方は現れる。


(以上の文章は、あくまでも自戒のために綴ったもので、これを読んでくださっている大人のあなたを責めるものでは決してありません。)


私も「生きづらさ」を抱えた当事者です。

ただ、色々な偶然が重なって、ここでこんなことを書けるくらいは元気です。

だから、生きづらくて身動きが取れない、「生きづらさ」を抱えた仲間のために、ほんのわずかでも、自分なりの何かができたらと、僭越ながらそんなことをちょっと思っています。

その「何か」が何なのかは、正直まだ分かりません。

ただ、まずその一歩として、この文章を綴ってみました。

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