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私が紡ぐ、名前のない関係性。

ここ最近、多様な家族の形が、少しずつフォーカスされ始めた。昨日再開した、TBSのTV番組「NEWSな2人」の初回もポリアモリー(複数愛)家族の特集。「珍しい形」として紹介されるが、本当にそうなのだろうか、と思ったりもする。今までは、可視化されてこなかっただけでいろんな家族の形は、ずっと存在しているのじゃないかと。

私自身のことを考えてみても、周囲には「名前のない関係性」が多いことに気がついた。いくつかあるので、ひとつずつ綴っていきたい。

まずは、血の繋がりがない私の家族について。

それは5歳の時に1年間だけ私を育ててくれた、お隣さん一家。パパ、ママ、10歳上のお姉ちゃん、5歳上のお兄ちゃん。ある日突然、私は親戚でもなんでもない、その家族の一員になった。

理由は、母が乳がんで入院したことだった。病気のことを知った時、ママは「おばあちゃんのお家からでは幼稚園に通いにくいだろうだから、この子は私たちが預ろう。」とその場で言ってくれたそう。今でも帰省するたびに必ず行くその家は、物心ついた時から私にとって大切な“家族”だった。


家族って何?

その時のことは全て鮮明なわけではないのだけれど、7時半には起きて髪の毛を結ってくれたこと、毎日持たせてくれたお弁当のこと、夜ご飯がハンバーグだよと言われた日はワクワクしたこと。時に、幼稚園の先生に嘘をついてものすごく叱られたこと。そして、幼いながらにストレスを抱えていたのか、一度お兄ちゃんの頭を洗面器で叩いてしまったこと。それは、血の繋がり云々ではない、家族としての記憶。みんな、私を居候やよそ者ではなくて、完全に家族として受け入れてくれてた。

今も、ピンポンも押さずに「ただいま」と言っておうちに入り、勝手に冷蔵庫を開けて大好きなルイボスティーを飲み、気づいたらテレビを見ながらパパがPCをいじっている側で寝てしまっている。中学の時に(本当の)母親と関係がうまくいかなくて家出をした時は、いつもこのお家に向かっていた。大事な決断をする時は必ず報告をするし、パートナーができたら紹介をする。この一家を、家族との関係性だと言えないとしたら、なんと呼べばいいのだろう。

私にとっては、28歳になるまで自然な関係だったのだけれど「パートナーシップを問い直す」をコンセプトにRe.ingプロジェクトを始め、様々な関係性の形を取材するようになってから、それが“ 普通 ”ではなかったということに、初めて気がついた。

確かに、今までその家族との関係性を聞かれた時になんと答えていいのかわからなくて面倒だから「親戚」と称することが多かった。お兄ちゃんの結婚式の時は親族席に座り、両家顔合わせの時も同席した。お姉ちゃんの子供は、妊娠時からずっと見ていて、出産後すぐに立ち会ったせいか、自分の子供のように可愛くて。誰かに写真を見せる時は、「いとこの子供」と話してをする。

関係性に、「家族」以外の名前がつけられないから。


名前以上に、大切なもの。

私にとって彼らは“ 普通の ”家族としての存在だけれど、何となくそれを人に「家族」と言えなかったのは、世間一般の家族の定義に、はまっていないことを何となく気づいていたからだと思う。自分にとっての“ 普通 ”が何らかの原因で覆されたり、定義が揺らぐことがあるとしたら、それはいわゆる社会の「常識」的な考え方に引っ張られてしまうからだ。

家族とは、血が繋がっているもの。
家族とは、同じ戸籍を持つ人たちのこと。
家族とは、父母を中心として共同生活をしている人たちのこと。

名前がつくと、そこには概念が宿る。それがあることで、人は何の「説明」も「背景への理解」もなしに、そのもの自体が何なのかを直感的に理解することが可能になる。年齢という数字で、その人が紡いできた人生の時間を語ることができないように、家族という名前は単なる記号であって、その周辺情報や、背景にあるストーリーが1番大切なはずなのに、そこを見ずに「家族とは」を語ることなんて、本当はできない気がしている。

それぞれの家に、それぞれの関係性にしか語りえないものがある。
それが、先祖との関係であれ、血縁であれ、心の繋がりであれ、何だって、その人たちにしか築けない物語。

私は1年後に元の家族のところに戻れたから、もしかすると特に悩むことも、困ることもなく「もう一つの、心で繋がっているだけの家族」と思えていたのかもしれない。だけど、この家族と住み続けることになっていたとしたら。私は、その関係性を自分でどう捉えていたのだろう。

でも、その答えは大きな定義で語ろうとしなくていいと思っている。だって、そこに明快な答えなんてない。それぞれが思う家族が、その答え。だから最近は「家族って何だろう」と疑問すら抱かなくてもいいのかもしれない、とさえ思う。100世帯あったとして、100世帯それぞれの違ったストーリーがあるはずだから。

家族の形は多様化してきている、と言うが、そもそも家族の形は多様なのだ。ただ知られていない人たちの関係性がそこにはあって、それが少しずつネットやメディアを通じてフォーカスされ始め、「受け入れようよ」という風潮が出てき始めたから、何となく多様性・多様化する社会という言葉が先行していく。

でもきっと、順番は大事。「多様な社会を受け入れよう!→それぞれの関係性を尊重する」ではなく「それぞれの関係を関係を尊重する→多様な社会が実現されている」の順番であるはずなのだ。

多様性のある社会は、あくまで状態であり、目的ではないと思うから。一般定義の名前で語られる以外の、人と人との関係性の形を大切に考えていきたい。

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