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【小説】Lento con gran espressione(6)

「凄い、まるで異世界ですねー」

 菅野くんが感嘆して言った。 

 そこには鬱蒼と茂った緑と色とりどりの花で囲まれた小さな楽園があった。周囲に塀がなく開放的だ。あまり見たことのない石造りの家だった。平屋で敷地が広い。家の壁には可憐な淡いピンクの薔薇と白い花が窓を除けて張っていた。大きな木が目立って一本あって小さな小花をちらしている。庭は見事に入り口から薔薇が咲き誇っていた。周囲には名前の知らない華麗な花が無数に咲き乱れている。清らかな白い花々は上を昇るように咲いていて統一された玄関までの小道の横には、見たことのない可愛らしい薄緑の小さな花がずらっと綺麗に並んでいる。溢れるばかりの光彩の凝縮された家。どこもかしくも太陽の光を受けて輝いていた。わたしたちは、その世界に入るのをためらった。この感情はなんだというのだろう。ある種の畏怖の念というのだろうか。すぐそこに玄関があって、わたしのバッグには鍵が入っているというのに……。そして言葉を失うとはこのことなのだろう。みな圧倒されて黙ってしまった。すると中から、ぱちんぱちんと枝を切るような音が聞こえてきた。

「なんだろう? 誰かいるのかな?」

 小林さんが、そろそろと先に入っていった。わたしたちは後に続く。頭に垂れ下がってくる花や緑をよけながら、裏手に続く石の小道を辿って歩いていくと、緑の中に人影が見えた。わたしたちは一様に驚いてわずかに後ずさりした。すると人影がすぐに出てきた。つば広の帽子をかぶった見ず知らずのおばあちゃんだった。

「あらあら」

 と、あちらも驚いた顔をした。腰に蚊取り線香をぶらさげて庭用のエプロンを着けている。手には枝切りばさみを持っていた。

「あらあら」と、またそのおばあちゃんは繰り返してから言った。
「ごめんなさいね、勝手に入っちゃって」
「あ、あの?」
 わたしがみんなより前に出た。
「わたしは、あきる野敏子と申します。初めまして」
 丁寧にお辞儀したのでわたしも咄嗟にお辞儀を返した。
「あ、初めまして。芙蓉月子です」
「月子さん? 知ってるわよ」
「え?」
「瑠璃子さんとは生前、仲良くさせてもらっていたの」
「は、はあ」
「このお庭、管理する人がいなくなっちゃったでしょ? それでね来てたのよね」
 そこで始めてぴんときた。
「もしかして、手入れしていてくれたんですか?」
「そうなの。一ヶ月もほおっておけないからね。お庭って本当にデリケートな生き物なのよ」
 すぐにそのあきる野さんが察したように言った。
「じゃあ帰りますかね。お邪魔でしょうから。薔薇の花びらも片づけたし、今日の仕事は終わり。じゃあね」そう早口で言うと去っていこうとするので、わたしは困った顔をした。すぐに洋子さんが気付いて慌てて引き止めた。

「あの、これから家の中に入るんです。ちょうどお昼時だし、一緒にお昼ご飯食べませんか?」
「え? いいのよ、そんなずうずうしいことできないわ。でもありがとう。じゃあね」と、枝切りばさみをエプロンの前ポケットにしまうと、さっさと足取り軽く庭の外に出ていってしまった。
「いいのかね?」
「いいんですか?」
 小林さんと菅野くんが洋子さんとわたしに言った。
「しょうがないわね、またきっとお会いできると思うし、きっと大丈夫よ」
 洋子さんがそう言うと、ぼけっとしたわたしの顔を見た。
「月子ちゃん、どうしたの?」

「い、いいえ、ちょっと一瞬、瑠璃子おばさんかと思っちゃって」
「あー、似てた?」
「はい、ちょっと」
「そう」
「じゃ、さっそく家、入るか」と小林さんが足が止まってしまったみんなを、せかした。わたしたちは、また来た道を引き返した。白くてステンドグラスの嵌まった玄関だ。さっそくトートバッグから鍵をとり出した。穴があってそこにかわいらしい赤いリボンがついていた。古いタイプで左右にひねって開ける仕組みだった。

「防犯上どうかと思うけど」
 菅野くんが呆れたように言った。
 玄関を開けたら、普通の倍はあるかというような広さのダイニングルームが広がっていた。天井から素晴らしい作りのシャンデリアがぶら下がっている。床はペルシャ絨毯。アールヌーボーのランプの数々。窓明かりが黒光りしたグランドピアノを照らしていた。美しい顔の日本人形がキャビネットの上に十体はあるだろうか。みなおかっぱ頭に着物姿だ。顔の違いはわからない。まるで日本の事が好きな外国人の家に来たみたいだった。

「なんじゃこりゃ!」
「すげー」
「広い、ここはなにもかも日本とは思えんな」
「みごとね。これ、まさか全部クリスタルガラスじゃない?」
 洋子さんがぐっと背伸びをしてシャンデリアの一つを掴んだ。本当にきらきらしている。
「重い。やっぱりクリスタルガラスだわ。凄い。たぶん特注品ね」
 確か、おじいちゃんがシャンデリアとピアノだけは引き取ると言っていたのを思い出した。

 壁の方にモダンなデザインのテーブルと椅子があったが誰も腰掛けようとしなかった。そこに大きな水彩画がかかっていたのに見とれたからだ。それは目の前のテーブルと椅子を描いたものだった。薄いブルーをベールにしたような家具。ただの家具なのになぜか懐かしいような寂しいような印象の絵だった。わたしは、ふとどこか見覚えのある絵だったのを思い出した。

「これ、確か瑠璃子おばさんの弟の絵です。昔おじいちゃんの家にありました。ここに移ってたんだ」
「画家だったの?」と菅野くんが訊いてきた。
「趣味だっていってたっけ。定年後に絵画教室に通い始めて、そこで始めて絵を描いたんだって」

 実はこの話は亡くなった時のエピソードのはしっこだった。おじさんは絵画教室で心臓発作を起こし亡くなったのだ。瑠璃子おばさんのお葬式の際、その話題を出した親戚がいた。もちろん皆にはその話はしなかった。洋子さんが言った。

「さて、ちょっと歩き疲れたしお昼ご飯にしましょうか」

 わたしたちは座るところを探した。どうも豪奢なシャンデリアの下で食べる気にはならなかった。するとダイニングの横が小さなキッチンになっていて、入るとアメリカンカントリーの、たぶんアンティークの家具が揃っていた。椅子の背もたれはかわいくハート型がくり貫かれていた。他にも色々なデザインの椅子が並んでいる。真ん中に小さな薪ストーブが置いてある。本物の薪が横に並べて置いてあった。それから幼児くらいのサイズのフランス人形がひとつ、戸棚の上に座っていて、壁と言う壁が全部ドライフラワーや小さな絵やリースやらでうめつくされていた。真っ白なレースのカーテンに白いレースのテーブルクロス。綺麗なお皿が何枚も食器棚に並んでいた。そして外の風景が見える窓が花々の額のよう。

「まるで赤毛のアンの部屋みたい」わたしは、その小さな部屋がひとめで気に入った。
「妖精の住んでそうな部屋ね」
「そうですね」
「かわいいなーいかにも女の子って感じの部屋だな」
「月子ちゃん、ここって温かい飲み物作れるかしら?」
「あ、ガスも電気も水道も、まだ使えるそうです」

 洋子さんが小林さんからカゴを受け取って、テーブルの上に中身を広げた。生ハムとチコリのサンドウィッチとサラダと果物をカットしたものだった。


つづく
第7話をお楽しみに


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