日記:ワイングラスの豊かさと現状追認の罠と幸せという感情の由来
ワイングラスの丸み
先日久しぶりにワイングラスを持ちました。
ワインが苦手なのでずっとその機会がなかったのですが、
お店で日本酒の獺祭を頼んだらワイングラスで出てきたのです。
中指と薬指の間にステムを挟んで手のひらでボウルを支えました。
そうしたら、そのボウルの丸みの感触がとても良かったのですね。
あ、ワイングラスって持つのが楽しいんだと気づきました。
もちろん。
世の中には「ワイングラスの正しい持ち方」というものもあるだろう。
そういえば温めないように「ボウルは持つな」とかあったはず。
。。。と思って調べましたら、結論としては「好きに持てば」。
。。。ってことのようで、満を持してこのようにnoteにしたためました。
さてそのワイングラスについて。
他にも底が丸い器は様々あるでしょうけれども、
大体が両手で持つ必要があると思うのですよ。
違うのですよ、ワイングラスは、片手でハンディに丸みを味わえるのです。
片手で丸みを受け止める感触。これが本当に豊かで、楽しい。
良かったらぜひ、改めてワイングラスを持ってみてください。
ところでそれは逆
うーん、ワイングラスを持つだけで幸せだなあと思いました。
こういうの、私は多くて、割とちょっとしたことで幸せを感じます。
そういうところで言うと
もはやチープにすらなりつつあるフレーズとして
「何でもないような日常にこそ幸せがある」ってありますよね。
これ、方向性が逆だと思うんです。
そもそも本人が幸せだからこそ、
何でもないことが幸せに感じられるのだと思うのです。
不幸ならば、日常が派手派手しいお金持ちでも不幸でしょうけれども、何でもないささやかな清貧の日常でも不幸だろうと思うのです。
だからこのフレーズは現状追認の罠にもなり得ると思います。
まあそれはさておくとして、
幸せを感じられるという意味で、今の私は幸せなのでしょう。
幸せとノスタルジイ
一方で、子どもの頃を思い出すと、
そんなに「幸せ」を感じていなかった気もするのですね。
子どもの頃にも「楽しい」「楽しくない」「嬉しい」「嬉しくない」など色んな感情がありましたが、「幸せ」はあっただろうか。
多分「幸せ」という感情は、それが失われたからこそ、もしくはいつか失われる可能性を知っているからこそ感じるのだろうと思うのですね。
終わりへの予感を前提にして生まれる感覚なのだと思います。
その喪失の感覚は、自分自身の経験からもあれば、物語やドキュメンタリーなどメディアを通した経験からもあるでしょう。
だからきっと、幸せを感じられるかどうかは、年齢だけでは語れないだろうとも思います。
ともかくも、そう考えるとやはり「幸せ」という感覚は
必ず「喪失」と背中合わせの切なさと切り離せない感覚とも言えるし、
「喪失」を知るからこそ味わえる豊かな感覚とも言えますが。
とりあえず、「何でもないようなことが幸せ」っていう言説が
ノスタルジックに響くのも当然のことなんだなあ。
ということで、私が小さなことでよく幸せを感じるのも
喪失を予感しているからだと考えると、歳なのか?とかね。
今の日本じゃなあ、とか。そんなことに思い至ります。
一方で、だからこそ本当に「勇気と希望」って大切なんだなあと思います。
柳瀬さんが作詞したように「愛と勇気だけ」が友達なのかもしれない。
このフレーズは「だけ」という言葉の纏う切なさが無視できないですよね。
それも自然なのかもしれないなあ。
おやすみなさい。
[日記:2023年10月29日]
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