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天平の甍

📓『天平の甍』
井上靖 1957

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奈良時代の一級史料
『唐大和上東征伝』(鑑真の伝記) 779年
記「淡海三船」722〜785
に史実に即しながら鑑真来朝の経緯を主軸に据えた歴史小説です。
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朝廷で第九次遣唐使発遣のことが議せられたのは聖武天皇の天平四年で、その年の八月十七日に、従四位上多治比広成が大使に、従五位下中臣名代が副使に任命され、そのほか大使、副使と共に遣唐使の四官とばれている判官、録事が選出された。判官は秦朝元以下四名、録事も四名である。そして翌九月には近江、丹波、播磨、安芸の四ヶ国に使節が派せられ、それぞれ一携ずつの大船の建造が命じられた
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天平五年、唐士に向かって船出した第九次の遣唐船には、栄叡・普照・戒融・玄朗と四人の留学僧が乗り込んでいた。うち、栄叡と普照は仏法伝戒の師を日本へと招く任が託されている。苦難の末たどり着いた西都長安には、都大路の華やかさには目もくれず、二十年来この地にあってひたすら写経に没頭している「業行」という名の日本僧もいた。「業行」は自分の筆写した膨大な経典を何とかして故国に持ち帰ることを夢みていた。
やがて栄叡と普照は揚州の高僧「鑑真」と巡り会い、渡日応諾の言葉を得て感泣する。一方で「戒融」はこの国にある「何か」を求めて托鉢行脚の旅に出た。真っ先に望郷の思いに胸焼かれた「玄朗」は唐士の女性と結ばれて身を落ち着かせる。「鑑真」の渡日の企ては四度試みて四度挫折し、栄叡は望み遂げざるままに客死する。やがて十年の歳月が流れ、ついに五度め。これも失敗に終わり、鑑真は両目を失明する。この苦難を知った遣唐副使の大伴古麻呂は内密に遣唐使船全四船のうち、第二船に鑑真を乗船できるよう計らった。出発までの短い期間に「普照」は懐かしい面々に出会う。「戒融」「玄朗」である。戒融は思いを伝え日本行きを断念した。玄朗は妻子を連れての日本行きを切望したが、結局港には姿を見せなかった。そして全ての準備が整った。普照は盲目の鑑真に寄り添い第ニ船へ乗り込んだ。「業行」は生涯をかけた経典の山とともに第一船に乗り込んだ。
「普照」と「鑑真」の渡日は実現する。

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