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讃美歌集

『讃美歌集』
明治六年キリスト教が解禁され、翌年には各教派より最初の讃美歌集が横浜・神戸・長崎で続々と刊行されました。「第二十六」をみてもわかりますが、その殆どが仮名訳になっています。そして既にこの歌詩などは七五調四行の今様調の雅文体で洗練されており、巧みな和語の使用なども後の新体詩形に通じています。ですが、それだけにキリスト教の仰内容は変容しています。
<罪は自然により消失し潔い身体となるだろう...>
と歌われるところに伝統的な詩情を読み取ることができます。こうした詩情が形成された一因には、明治新政府に参加できなかった、国学や和歌の教養を持つ旧武士階級の信者がいたことがあげられます。明治六年~十五年頃までの日本讃美歌に見られる、和歌にはなかった(伝統的な音数律ではない)八八、八六調が紹介された点は重要で、後の詩人達に影響を与えました。日本の近代詩史のうえで、讃美歌のリズムと詩情とが果たした役割の重要性は(思想としてのキリスト教についてをも含めて)国木田独歩、島崎藤村、岩野泡鳴等の詩をみれば明らかとなっています。近代詩の創成期、讃美歌はこうして国民に広く浸透していきました。

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