車で追いかけるおばさん

ガソリンスタンドがすいている時間をねらい、車にガソリンを満タンに入れた。いつもしている事だけれど、車の事に関しては、全てがよくわからないと言えるほど、私はくるま音痴だ。毎回、同じ場所でガソリンを入れるのに、100パーセント自分が正しくガソリンを入れているのかさえ、確信がない。
もちろん、自分の運転がうまいとは思った事もない。道路標示を正しく理解し、高速道路を喜んで使い、知らない道をも楽しく運転し、どんな狭い駐車場にもドキドキせずに車を停められる人たちは、すごいと思う。
運転を職業としている人たちは、更にすごい。私はいつも、彼らの運転の技術とその感性を、驚きを持って見ているのだ。

込み入った街中は、できるだけ運転しないようにしているけれど、気づいたら歩行者天国に乗り上げていたことがある。慌てて方向転換をしたけれど、慌てすぎて、今度は路面電車の線路に入ってしまっていた。どうしていいかわからず、隣に座る娘に向かって「きゃー!」と言いながら、線路を走り切った。幸運なことに、前からも後ろからも、路面電車が来ていない一瞬だった。
二度と、てきとうな運転はしまいと思った。同時に、やっぱり私は、特別な力で守られていると感じた。

私の運転への自信のなさは、個人的な事であるからいいとして、私が特別な力で守られているとしても、さすがに運転そのものを間違うと、社会に多大なる迷惑をかけることになる。正しく運転することは、必要不可欠で、失敗は許されないものだ。

何年も前、家からさほど遠くない、直線の田舎道を車で走った時の事。景色のきれいなその一本道を、私は悠々と走っていた。そして突然、横からそのまっすぐな道に入ろうとする車に、大きく警笛を鳴らされた。
うっかりしていたけれど、この横からの道が優先道路であり、まっすぐ走っている私が、そこで止まらなくてはいけなかったのだ。

警笛を鳴らした車は、なぜか私の車の後ろを、ずっと至近距離でついてきた。なんとなく嫌な予感がした。
ミラー越しにその車を見ると、中年を超えたおばさん二人が、車の中で怒った顔をしている。怖い。
こちらがスピードを上げても、しっかりその車は後ろをついてきた。
10分ほど走って目的地にたどり着き、駐車場に入ると、なんとそのおばさん達の車は、私の車の横に停まった。「まさか私をつけて来たんじゃないよなー。」と、一生懸命心で否定しながら、いやな予感は大きくなった。

私が車のドアを開けると、おばさんの一人が、勢いよく私のもとへ来た。観念するしかない。そしてすごい剣幕で私は叱られた。ひどく不注意で危ない運転を平気でし、交通ルールを無視する神経の持ち主であると、私は非難された。
合流する優先道路に気づかなかったのは私だ。すぐさま、「ごめんなさい。」と謝罪した。言い訳をする気も、言い争いをする気もない。こういう状況では、ごめんなさいと言う以外に、私には言葉がない。

おばさんはもっと、がんがんと私に言いたかったのだろう。車の中を覗き込んで、更に大きな声で叫んだ。
「あなた、子供まで乗せているじゃない!その子にまで危険を及ぼしたのよ!なんてひどいの!母親として、もっと気を付けなさいよ!」
さすがおばさんだ。私の運転が間違っていた事を伝えるだけにとどまらず、しっかり、こちらが更なる自責の念におちいる言葉を忘れない。私は、子供の安全を大切にするという、母親としてのモラルまでもない人間として、非難されたわけだ。
おばさんが私の娘の安全を心配して言ってくれたのなら、本当にありがたい事なのだけれど、なんとなく、私が痛い思いをする為に、付け足された言葉のようにも聞こえた。

言いたい事を言い終わると、おばさんは車に乗って去っていった。これからはもっと、道路標示を注意して見ようと思った。こんなに大声でおばさんに叫ばせるほど、私の運転が人の気分を害したという事が、申し訳なかった。
それにしても、このおばさんの正義感というのか、人の間違いを指摘しようとするエネルギーの強さには驚いた。降参するしかない。でも、運転していたのが私でなくて、気性のあらそうな若者だったり、立派な風貌の中年男性だったり、どうにかこうにか運転しているといった年配の人だった場合、果たしてこのおばさんは、私にしたように、その車の後をつけて、あんな大きな声で、叱責しただろうかとも思った。

後ろの座席に座っていた、まだ小学生だった娘を車から降ろしながら、がちがちにこわばっている私の気分を感じさせないようにと、私は気を配った。でも娘はもちろん、おびえた、悲しい顔をしていた。
「すごいねー、あのおばさん。あれだけ言うためについて来たんだね。お母さん、運転を間違っちゃったからね。ごめんね。」
おばさんは、正しくない事を私に言ったわけではない。おばさんの正義感を、大きな声で叱るという形で通しただけだ。でも、その場にいた私の娘にとっては、突然、大好きな母親が、大きな声で怒鳴られた事に他ならない。そんなものを目の前にした、小さな子供が受ける悲しさとか恐怖というものに、このおばさんは一切、気配りがなかった。

とても嫌な気分になった。横から侵入する車が優先というルールも、私には納得がいかない。非常に通りたくない道ではあったけれど、必要があって仕方なく、一週間後に同じ道を通った。ドキドキしながら、その問題の場所で、私はしっかりスピードを落とした。
「あれっ?」
なんと、道路標示がその一週間でまったく新しいものに変わっていて、私が走っている直線道路が、そのまま優先という事になっていた。
もう何年も私は、横からの道が優先のこの場所を、おかしいと思っていた。ああ、やっぱり、そう思っていたのは、私だけじゃなかったんだとうれしくなった。それにしても、できればもうあと一週間早くに変更してくれていれば、あんなに大きな声で私は叱られなくて済んだのにと、残念だった。

あのおばさんは、この新しい道路標示を、どんな風に受け取っただろうか。もしかしたら、私に注意した時の事を、自分の間違いだったのかと、慌てたかもしれない。もしかしたら、変更に気づかずに運転して、別の車に警笛を鳴らされたかもしれない。いずれにしても、私の車の後をついてきてまで大きな声で注意したことを、間違いなく思い出したはずだ。おばさんはそこで、私の車に乗っていた子供が、おびえたのじゃないかとか、不本意に悲しませたんじゃないかとか、ふと思っただろうか。

歴史を見ると、ある時代の正しさは、必ず、別の時代から見ると、多くの間違いを含んでいる。時間の流れで、正しさというものは、どんどん変化するのだ。今日、私が必死に守ろうとしている正しさは、10年も待たずに、笑い飛ばされるようになるのかもしれない。間違った事となっているかもしれない。それだけでなくて、どうしてそれが大切だったのか、自分でもわからなくなっているかもしれない。

私がおばさんに厳しく守るように言われた道路標示は、一週間もたたない内に変えられた。おばさんは今、新しい標示に従って、安全運転をしている事だろう。もしかしたら、この新しい標示を見過ごした車の後を、すごい勢いで追いかけているかもしれない。

私はただ、注意深く運転することに徹しよう。そして、自分が特別な力で守られていることに、感謝したい。

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