海からのもの

ちょっと気持ちが疲れると、私は刺身を食べたくなる。イカやエビ、ホタテも、急に食べたくなる。時々、疲れがつらいレベルにまでなると、手間のかかる料理は作りたくない。食べたくもない。何が何でも、熱々のお米の上に、シンプルで冷たい刺身をのせて食べたくなる。
そんな時、駆り立てられるように、水の外では息ができない魚があえぐように、私は魚屋に急ぐ。

私が住むアイルランドでは、魚介類を日常的に食べる人は、もともと少ない。魚屋は数えるほどしかなかったから、ここに住んでずいぶん長いこと、主にレストランでしか、魚を食べなかった。
近年、どのスーパーでも、基本的な魚介類が手に入るようになった。けれどもシンプルに食べたければ食べたいほど、鮮度の良さそうな、専門の魚屋のものを選びたい。幸運にも近くにそんな店ができたので、値段が高くても、そこで買うようになっていった。
以前に比べて、私が刺身を食べる日が増えている。新鮮な魚が、手軽に手に入るようになったからだけれど、それだけではない気もする。

魚屋に入ると、まずはザーッと、並んでいるものを一通り見る。たいていはいつも同じものが置いてあり、値段も変化がほとんどないので、私が注意して見ているのは、その鮮度だ。大丈夫そうだとなると、財布の中を気にしつつ、オーダーする。家族みんなの分を買う時もあれば、私一人分の時もある。
「こんにちは。ツナを一切れお願いします。」
この段階で、心の疲れを癒したい私は、少し安心をする。頭の中では、湯気の立つお米に、しょうゆをつけた刺身がのっている。
生で魚を食べるのは、日本独特の食べ方とは思うけれど、私は刺身を、『日本食を食べる』というつもりで食べているわけではない。海からのものをそのままで食べたいだけ。どこのものだとか、どこの料理法だとか、そんなものの全く関係ない、ただ、海からのもの。そのもの。
他の食べ物と同様に、魚にも、丁寧に、どこ産のものかと、表示されている事が増えてきた。私はそれで、この店に並べられるまでの時間だったり、距離を想像する。どこで養殖されたかとか、どこの海で捕れたかは、品質に影響しているだろう。エコロジーや、政治、経済的な事も関わっているだろう。でも基本的に私は、魚に国籍があるとは思いたくない。我が家のテーブルに国境がないように、私が食べる刺身は、ただ、海からのもの。自然のものだ。
「他に何か、いるものはあるかな?」
この魚屋のおじさんは、魚の知識が豊富だ。料理法を教えてくれることもある。もちろん、『サシミ』を知っている。
私は、プルンとした大きなホタテ貝が、怖い値段をつけて、そこにあるのを見つけた。ダメだ。今日、私は結構、癒しを必要としているらしい。
「ホタテも二つ、もらうわ。ちょっとだけでごめんなさいね。」
正真正銘、私一人だけのために買っている。誰の目にも明らかだ。
ずいぶん値の張る高級品だからか、この魚屋では、ホタテをちょっとしっかりした入れ物に入れてくれる。たった二つのホタテが、恥ずかしそうに、その不釣り合いな入れ物の中で、隅っこに寄っている。
私が子供の頃に食べたホタテの、軽く二倍はある大きさで、脂っこさもかなりだ。半分に薄くして、四切れにすれば、私には充分な量だ。バターでジューっと焼いて、しょうゆをちょっと垂らして、湯気の立つお米と一緒に食べよう。やっぱり、心が安心してきた。
「私、故郷ではね、ホタテを皿に山盛りで食べてたのよ。」
「そうかい。じゃあ、今日はこれを楽しむといいよ。」
「ありがとう。」

子供の頃に食べたホタテのフライも、エビのフライも、本当に、テーブルの真ん中で山盛りだった。刺身が夕飯に出るのは、しょっちゅうだった。薄く切られたイカの刺身は、皿にビシッと隙間なく並べられて、白く光っていた。人からアワビをいただくと、新鮮なうちに食べなくちゃと、満腹を通りこすまで食べるのが常だった。お盆にのった真っ赤なカニを、ハサミで切りながらの夜食は、本当においしかった。スルメは常備品であり、海藻は連日のように、みそ汁の中に入っていた。アメをなめるように、私はタラコを口に含むのも好きだった。おにぎりの真ん中は、スジコと相場が決まっていた。
なんだか、とてつもない量の魚介類を、私は食べて育ってきたようだ。今の私の食生活とは、まったく違う。離島で育ったのだから、当たり前といえば当たり前で、今、住んでいるアイルランドでは、そんな魚介類を食べて生活しようと思ったら、食費は軽く数倍に膨れ上がる。

魚介類の値段は、かなり注意して見ないと、私にとっては、目が飛び出すほどのものも多い。この土地で手に入るものの種類も、限られている。我が家族が食べられる種類というと、さらに狭くなる。季節が巡る中で、次々と旬のものが登場するのでもないので、子供の頃に普通だった、「わー!」という驚きと感激が入り混じる季節感も、ここではテーブルにのせることが、ほぼ不可能だ。
それでも私は時々、こうして魚屋に足を運ぶ。いつも同じようなものしか選べなくても、それでも、海からのものを食べられる。たまにだけれど、食べられる。
イタリア産だの、エジプト産だの、まあ、どこから来た米でも、とにかく私は、使い込んだお気に入りのなべで米を炊き、熱々のところを、買ってきた海のものと一緒に、口にほおばる。おいしいし、癒されるし、安心する。

ちょっと気持ちが疲れている時、とても料理に愛情をかけるエネルギーがない時、そしてその愛情が枯渇したかのような時も、刺身はありがたいほど、手軽でおいしい。
ただ海からのもの、そのものを、シンプルに食べる時、国境も時代も関係なく、とめどない努力も知識も要らず、自分が自然の流れの中にいるのを感じる。ただ、自然の摂理に、自分がすーっと、おさまったような気がする。
癒しと安心感は、そんなところから来るらしい。

また魚屋に行こう。

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