忘れてしまっても、覚えていたいこと。

※中島ヨシキさんを知ってまだ半年弱、前島亜美さんはこれが初めまして、の人間が書いていることをご了承ください。

http://www.keshigomu.info/

作品名自体は、前から知ってた。
でも、映画も観てないし、朗読劇も観てない。
タイトルから認知症や記憶障害を扱ったものだということは推測できていたし、私は闘病関係の作品がどちらかというと苦手だ。そこに描かれた病気が何であれ、闘病中の母に寄り添った日々をやはり、思いだしてしまうから。

だから、今回も観るつもりはなかったんだ。
でも、ヨシキさんが前日のラジオでこの話をしていて、どうしても観なきゃいけないような気がして、チケットを取った。
とても心を揺さぶるラジオだったので是非アーカイブを聞いて欲しい。
https://youtu.be/9zRBOl8VwSc

感情を言語化するのが好きだ。
でも、好きの理由を分析する癖を、時々やめたい、と思う。よくわらないけどすごく好き、って言う瞬発力のある感情を大切にしたい。
そういうことを思っていたタイミングで、ヨシキさんはそういう話をして、この朗読劇を観て欲しい、と言ってた。
だから、時間を掛けて感想を書くんじゃなくて、まとまらないままここに、今の想いをそのまま書くべきなんじゃないかって、思ってる。
書きたいことを書いていくので段落ごとにつながりもないし、読みにくいかも知れない。
でも、このざわつきをきちんと、書き留めておきたい。

ほんとは他のキャストのも観た上で感想を書けたらいいのだけれど、この物語をいくつも受け止められるほど私に余裕はない。アーカイブも、まだちょっと再生できる気がしない。
見終わった後、しばらく動けなかった。
心が自分の中に帰ってくるまで時間が掛かったし、今でも体の奥の方がざわざわしている。
細部を忘れていっても、このざわつきはきっとずっと私に残るんだと思う。
画面を介してこれなのだから、実際に劇場で観劇できていたとしたら、どれだけの衝撃があったのだろう、と思う。
やっぱり音楽も演劇も、生で浴びたいよな…、と改めて思うし、機会に恵まれれば今度は劇場に足を運びたいです。

前半部分、結婚までの物語でぜんぜん薫に共感できなくてね。いいとこのお嬢様なのすごくわかりましたよね。
演じる前島さんは初めましてなのだけれど、苛立つほどのピュアさがあってとても良かったです。
自分が認知症を発症していることを認めるまでのぐしゃぐしゃになっていく心が、前半のピュアさでより痛々しかったんじゃないかって、これを書きながらふと、思う。
そして症状を発症している時の声の幼さにもそのピュアさが別の形で現れていて、メンタルが死ぬ…、ってなりました。
人生の終幕にある人の、あのピュアさは何なんだろうなぁ…思いだしてしまった子どものような眼が、涙腺をまた、刺激する。
こうやって重ねてしまう部分があるから、闘病ものは嫌なんだ。

私はヨシキさんのお芝居に惚れているのでフィルターが掛かっているのは容赦して欲しいのだけれど、ヨシキさんの、抑え込んだ感情が一気にあふれ出した時の、その感情の起伏が描くコントラストが好きだ。特に負の感情のそれが好きだ。
日記を読み上げていく形式のこの朗読劇の中で、単なる業務日誌の一文を積み重ねるその声の内側に増幅されていく感情でこちらの気持ちもどんどん張り詰めていくの、朗読劇だからこそのこの演出にめちゃくちゃ揺さぶられたし、ヨシキさんはそういうお芝居がすごく、うまい。(いやまだ数作しか見てないんだけど。その数作でそういうお芝居にどきどきしている)

浩介の家族の話は、いや、放っておいてくれよ、って思ったことは否めないんだよな。
物語構成としてここでこの選択をしないことはあり得ないんだけど、ほんとに、これはちょっと、私は浩介が怒るのは当たり前だと思うし、この親に逢いに行くのを強要しないでくれ、って思ってしまう。
ただねぇ、それはそれとして、ここのお芝居が私はめちゃくちゃ好きだったんですよ。

七夕祭りのこと、綿菓子と金魚すくいのことを話す声に混じる喜色が、この先の展開を予測してしまう心を抉りに抉ってきたし、その後のことを話してる声や怒鳴り声はもうほんとに、今まで誰にも言わず独り心に溜め込んだものを撒き散らすようで、そこには少しも同情を誘う要素がなくて、わかって欲しいなんて想いは少しも滲んでなくて、ただ哀しくて淋しくて痛くて苦しくて、それがすごく、生々しかった。
だからこそ、ほんとに放っておいてあげてくれ、って思ったし、淋しい、怖い、要らない、愛されたい、が固結びになって喉を塞ぐようで、何を想っていいのかが、わからなかった。
再会した母親からの心ない言葉は反して淡々と事実だけを並べるように話したところも、胸が痛かった。

あとここで前島さんが泣いてたのが、すごく印象的だったんですよ。
彼女も、この叫びを受け止めて、どうしていいかがわからなくて、ただ涙が零れたんだと思ったから。
その時私が思いだしたのは、辻村深月さんの『僕のメジャースプーン』に出てくる、「人間は、自分のためにしか泣けない」という言葉。
薫は浩介の境遇や化膿したまま塞がっていない傷に泣いたんじゃなくて、自分の想像力の浅さに、泣いたんじゃないかって、思うよ。前島さんは、俯瞰でそれがわかってしまったんじゃないかと、思う。
優しさとは、想像力だ、って言った人がいるんだけど、この場面で私はそういうことを、思いだした。だからそこからおでん屋までの声に含まれた慈しみが、とても、愛おしいと思えた。
そういうところを含めて、あの時ステージ上にいたのは「中島ヨシキ演じる浩介」と「前島亜美演じる薫」ではなくて、紛うことなく「浩介」と「薫」だったと、私は思う。

それにしても、置いていかれること、にトラウマのある浩介に、認知症の奥様つらすぎませんか…ねぇ…。
献身的に薫を支える浩介の、その声の底に滲む小さな諦めと、身が切られるような願いと、涙と、幼くなっていく薫の声の何も意図も含んでいない透明さの対比があまりにも強くて、涙がぼろぼろ出ました…。
付箋のシーンは、貼ってあるのを二人で指さし確認しながら話すのも、はらはらと落ちていくのも、どっちも辛すぎたよ…。
(ところでどうやってあのタイミングで剥がれる仕様になってるの、泣いてる私の横にめちゃくちゃ興味津々で見てた私がいたわ…)

ラストシーンのスケッチブックの件はもう、なんていうか、心ってどこにあるんだと思う?っていう永遠のテーマですよね。
私たちは、どこで、大切なことを覚えているんだろうなぁ。
記憶を司るのは脳だけれど、体中の細胞が覚えている、と言う感覚を知っている。でも、細胞だって数年単位ですべてが入れ替わる。じゃあ、私たちは何を持って記憶を維持しているんだろう、心と記憶の関係ってなんなんだろうって、こういう物語に触れるとどうしたって考えてしまう。

前半で浩介を、後半で薫を救う物語にも見えたけど、結局最後まで救われていたのは浩介の方だなぁ、と思って、彼はこの記憶を抱えて生きていくんだなぁって思うと、絶望と救いが混ざり合って襲ってくる。
私は、忘れて欲しい、と思うけれど、覚えていたい、と思う人間だ。
君がすべてを忘れてしまっても、私が覚えているから良いよ、って私のTwitterやブログを読んできた人たちなら、そう繰り返してきた私を知っていると思う。
だから、前半部分もそうなんだけど、私はだいぶ浩介に感情に移入してしまっていて、ラストを迎える頃には心がボロボロだったし、スケッチブック、スケッチブックが、もう、ねぇ、、言葉にならない、、、

取り急ぎ書きたいことは書いた、かな。
時間をおいてアーカイブを視聴したり、ひとつひとつ噛み砕いていったらまた違うことを思ったりもするのだろうし、見る年齢や立場によっても思うことが変わりそうだし、違うキャストの演技に触れたら同じシーンで別の感情がわき上がるのかも知れないし、共通して現れるものもきっとあるんだろうし、それは物語の力で、役者の力で、受け手の力だと、思う。
救われたいと思う人しか救うことはできない、って言った人がいるんだけど、これと同じで、物語を受け取る側の人間にも受け取るための力が必要だと私は思うんだよ。明文化できないような、冒頭に書いたように瞬発力のある感覚で構わないから、何かを感じ取れるアンテナは持っていたい。
そうやって発信者と受信者の双方で成り立つ表現の世界が、私はやっぱり好きだ。

あ!あとあれだ。
私は屋台のところの、「見りゃわかんだろ」の三段階のお芝居に、うう、好き…。ってなったことは言っておきたい。
それから私はブレス萌の人なので、焦燥感を煽る引込むような息の吸い込み方が鳥肌立つほど好きでした…。

勢いでぶわっと書いたけど、この勢いをだいじに推敲せずに投稿します。笑
誤字脱字は見なかったことにしてください。

うまく言葉にならなかったけど、言葉にしなくてもいいことなのかもしれないけれど、このざわつきを書き留めておきたかった。
朗読劇「私の頭の中の消しゴム」観て良かったです。
観て、って言ってくれて、ありがとう、ヨシキさん。


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