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Breaking Badをみて

とにかく圧巻だった。無我夢中で最後まで観てしまった。
テレビドラマとは思えない内容の濃さと重さ。アメリカでドラマ部門の賞を総なめにしたそうだが、大きなひとつの連続ドラマとしてこのような壮大な作品を数年がかりで作りきり、またとてもヘビーな内容であるこの作品を受け入れ、しっかりと評価するアメリカの大国としての底力を痛感せずにはいられなかった。ドラマ自体がひとつの大きな渦のようで、今までみたどんなドラマもチープに思ってしまうほどだった。

[以下ネタバレあります]

まず、映像というものでここまで心情が表現できるのかと驚いた。光や音、表情や少しの動作もすべて無駄なく意味があった。心情のフォーカスをあてたい人間にピントをあてて、他をぼかす。暗い心情のときは影を多く、そしてやさしく朗らかな場面では陽の光のようなあたたかなトーンで。作中は俳優のセリフはもちろん、息遣いや、眼差し、なにを手に取るかなどの細部まで、あらゆる全てが感情表現や物語の展開に貢献していた。当たり前のようだけど、ここまではっきりしているのはなかなか見かけない。どうしても監督の趣味というか、「こういうのおしゃれじゃん?」みたいな表現の仕方はどこかでてきてしまうものだと思う。しかしこの作品にはそういった無駄な感じは一切なかった。皆無欲で、とにかく作品にすべてが注がれているようなそういう印象だった。

この作品をつまらない、とネットに書き込む人がいるらしい。たぶんなにもかもうまくいかず、ただ痛々しいだけのドラマと思ったのかもしれない。しかしこの作品を全て観終わったあと、その様な感想は空虚なものとなっていると思う。
うまくいかないのは当たり前だろう、悪なのだから。秩序がなく、人々が壊れていくのを横目にドラッグを作りそれをまた売りつけ、自らの利益のためなら他人を殺してしまっても構わない、そういう世界にウォルトは自ら飛び込み、ガスが作っていた唯一の秩序すらも自らの保身のためにぶっ壊した。それがこのお話の主人公なのだ。
しかし、それにしてもうまくいかない。もうちょっとだけ素直になれば、あともう一言あれば、という場面がこの作品にはあまりに多い。そこで私の考えなのだが、おそらくウォルトはそもそもそこまで気が回るようなタイプじゃないのだ。適切な場所で素直になることができ、もう少し先のことを用心してなにか気がきくようなことを言えるような人間であれば、そもそももっといい仕事につき、余裕のある生活をしていたかもしれない。
当たり前の話だが人間性というのは変えられない。そういうものは、生きてきた中で誰と会い、何を話し、どういう経験をしてきたかということで培われるものだ。だから、悪になったからといってパッと器用な人間に切り替わるものじゃない。この物語はおじさんの成長物語といっても過言ではないが、悪に染まっていくウォルトも、元来ただの内気で不器用なおじさんなのだ。

そんなウォルトがなぜそこまで突き動かされたのか。それはやはり家族の存在が大きかったのだと思う。しかしそこには純粋に家族が幸せになってほしいという祈りのような思いより、死んだ後も家族を支えているのは自分でありたいという願望のほうが強かったのではないだろうか。ウォルトはオタク気質で内気な人間だったから、優秀な科学者であるというプライドは密かにもってはいたものの、古い価値観が根強い田舎の男社会ではいつも端に追いやられていた。しかしそんなウォルトは若くて綺麗なスカイラーと結婚し、障害はあるものの優しい息子とこれから生まれてくる可愛い娘がいた。そんな素敵な愛しい家族を支えているのは他の誰でもなく自分自身であり、自分がいなければ彼らは生きていけないという事に、ウォルトは自分の存在価値を見出し、自尊心を満たしていたのだろう。そして、ウォルト自身も家族に依存していた。家族だけが自尊心が低い彼の生きる意味だったのだ。だからこそ、職場で生徒になめられても、洗車場でみじめにバイトしても我慢できた。家族さえ自分を必要としていれば。ウォルトにはそれだけしかなかった。でもウォルトはガンになってしまう。治療を切望する家族を横目にウォルトはひとり葛藤する。もし下手に生きながらえてしまったら家族が自分を介護することになる。みすぼらしくなった自分の下の世話をさせてしまえば、家族は自分を疎ましく思うだろう。そして多額の治療費が自分の死後借金として残り家族を苦しめることになれば、自分の死後家族は自分を憎むかもしれない。ウォルトはそれらを死ぬことよりも恐れていただろう。しかし、他の人間からの援助は許せない。なぜならそれは自分から家族を奪われてしまうことと等しいことだから。自分が全てをかけて築いたこの家族の尊敬の眼差しが他の人間にいってしまう。自分の家族が他の人間に奪われてしまうこともウォルトはひどく恐れた。だからウォルトは悪になることを決心した。まるでそれ以外の道などなかったかのようだった。

そしてウォルトは悪の世界に溺れてゆくことになる。悪になるとはどういうことか。人として、男として生きていくとはどういうことか。ドラマはつねに問い続けていた。
人々のそれぞれの思惑や想いはつねに揺れ動き、それらがぶつかったり混ざったりしながら化学反応を起こし影響しあいながら波紋は広がり、やがてまた自分に返ってくる。それがリアルであり世界も自分も複雑でつねに変化していく。このドラマはそれらが悲劇的に描かれている。はじめのうちはただ家族に尊敬されつづけることだけが目的だったウォルトも次第に大きく変化し、ハイゼンバーグとしての自分自身に強く魅力を感じるようになる。そしてそれは次第に家族の存在をも超えてしまう。

物語の終盤を迎えるにつれ、視聴者は主人公であるウォルトに次第に共感できなくなってくる。大切にしていたジェシーを騙し、感情のままにマイクを銃殺するウォルトには正直私自身もドン引きした。しかし、ウォルトも自分を止めることができなかったのだろう。ウォルトの残りわずかな命を燃やす炎はウォルトの今までの人生でプライドを傷つけれた悔しさや、悪の世界で生き抜く自分自身を誇示したいというつよい願望を燃料に膨れ上がった。自分自身を燃やしそしてそれらはジェシーやガス、ソウルやマイク、大切な家族さえも燃やし尽くした。

ウォルトは世紀の大悪党となって生涯を終える。劇中のことではあるが、テレビをはじめとしたメディアをつたいウォルトという人間とその悪は世界中を震撼させただろう。あまりにも大きすぎる罪。しかし、平凡に生きていた内気な高校教師を悪の帝王にまでさせたのは、誰もが普遍的に持つ心の弱さであったのだと思う。


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