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【超ジコチュー人生プレイバック】

【超ジコチュー人生プレイバック】

小学生時代

小学生時代は、一人っ子ということもあり妄想に更けることが多かった。
と、思う。あまり記憶が無い。

でも、初恋というか、めっちゃ気になる女の子がいたことは覚えている。
小1の時は、1個年上の彫りの深い色白の女の子。
話したことも無ければ名前も知らない。
※小学校がマンモスだった。

うわーーーーーーーーーーーーーーーーー
これ書いてて思い出した。
小学5年生くらいで交換日記してたわ。
4人くらいのグループで毎日回すやつ。
懐かしすぎる。

えー硬派ですからね。
そんな浮ついたこと書いてませんでしたね。
完全にスカしてましたねーーーーーー。

いやーーーーー
結局、硬派じゃなくて積極性が無いだけだと後にわかることになりますね。
タイムマシンがあったら自分に言ってやりたい。
「そこがダメなんだよ」と。

春休み・ゴールデンウイーク・夏休み・冬休みと農作業をしていることしか印象が無い。

中学生時代


1994年4月入学
入学当初の部活動紹介の時に2年生にからかわれたことに
イラっときたためやり返したら先輩・同級生から3年間目を付けられることになり
嫌がらせと喧嘩を売られることが日常的になっていた。

ちょっと補足。
いきなりラケットで殴られましたので…殴り返しました。
結構、ガチで。

今振り返ると、これ、売られた喧嘩を買っていなかったらイジメになるか、
パシリになっているかどっちかだったな。

ただし、何とか耐え忍んで皆勤賞をゲット。

高校入試では、何を粋がっていたのか田舎では多いのかわかりませんが、
基本は公立高校に照準を合わせて滑り止めで私立高校を受験するのですが、
公立高校しかうけずに、まさかの不合格となる。

大学には、行きたいと思っていたため大検を受ければいいと思っていたが、
親から高校だけは言ってくれと懇願され、
当時、新聞に掲載されていた2次募集の高校(3分の1が就職)を受験し合格。

高校時代


1997年4月入学
ただ、単純に目立ちたいという欲求にかられ、学級長・生徒会・演劇部(お手伝い)を経験。
田舎過ぎて最寄り駅まで10キロ(自転車で山を3つほど超えるレベル)あり、
予備校にも行けないため、独学で1年生のときに高校三年分の勉強を一通り流し読みを実施。
※蛍雪って受験雑誌を参考にしていた。

2年生でも同様に3年分の流し読みを実施。
3年生で、国公立大学の受験ができる頭脳を持ち合わせていないことを理解し、
私立文系に照準を合わせて勉強。
友達に問題集を作成してテスト対策をすることで、
自分の理解力を深める「おせっかい方式」を実施。
演劇部の秋の大会を手伝いながらも何とか合格(中堅私大)
高校では、一般入試で大学に行く人がほぼいなかったため、合格しないと多くの先生に言われていたため高校卒業後に進路を報告。
おめでとうと言われることは無かった。

ちょっとここで、人生の起点となった1つの出来事が…
大学合格を親に告げた際に言われた言葉が
「良くやった、浪人せずに大学に行ったのは、親戚には、居ないからな」
おいおい、そもそも家のために大学行くわけでも無いし、おめでとうも無いなくメンツだけか。と。

大学時代


2000年4月入学
もともとベンチャー起業について興味があったためベンチャーの会社でバイトをしながら営業したり、祖父の体調が悪くなったため通院の手伝いをしたりするも大学卒業後に就職をせずベンチャーで営業を続ける日々。

大学卒業後、2年目
祖父が亡くなったことをきっかけに今後の人生を考え、純利益70万のベンチャー企業から東京の会社に就職しようと真剣にに考える。

※当時は、新卒以外の採用というのが珍しく第二新卒という枠組みでの採用しかなかった。

※あら?大学4年時に就職活動をしていないことについては、どこかで記事にしようと思います。

就職について


2006年
マイナーな業界への就職(転職に近い)のため情報を収集するために業界の多い地域の図書館へ1週間入り浸り業界を研究。
インターネット回線が今のように自宅に当たり前にある時代では、無かったのでネットで検索しても情報が薄かった。
業界の専門的な知識(上っ面だけ)・会社の役員の情報が載っているものを閲覧しグループ会社や出身校などを確認。
※中堅私大を出ている人があまり居ない…東大・慶応とかそのような人ばかり…人材難であることを祈るのみ。

何とかかんとか採用。

採用後。

完全なる人材不足。
入社一年目に上長から言われたのが「俺、来年辞めるから」
私「ほぇ??」
第一声がそれかよ!!
ということで、まぁ残業・残業・飲み会・飲み会と
会社近くのサウナにほぼ毎日寝泊りし給料の半分が消し飛ぶ始末。
3年近くこのような状況が続き
ついに東京駅でぶっ倒れ救急車で搬送!
3日入院し復帰するも、総務部長からの一言が、
「体調管理も仕事の一つだから」
私の心の声「おいおい、そもそも時間外の申請も受け付けないのにただ働きさせやがってその仕打ちがこれか!!!!」
と、完全に愛社精神という概念が無くなった瞬間である。

転勤


転勤(地方都市)2010年
転勤する前に社内の50代の先輩から「辞めるなよ」との言葉。

その言葉が何を意味するのか知らずに着任し引継ぎ兼ねてお客様との懇親をする中で、

支店長が私に対しての説教がスタート

「本社は本社、支店は支店だからな。覚悟しろよ。
大体、支店に飛ばされる奴は使えないから飛ばされるんだから」
と客前でなかなかの盛り上がりを見せた。

懇親後に、2軒目へ突入。
説教の続きがスタート。
とにかくスゲーしゃべる。
あれがダメこれがダメ。

ただ、おい、待てと。

俺は、お前と仕事したことねーけどな。
と、思いながらおとなしく聞いていると。

パシン!

頭をはたかれたので私のスイッチが入ってしまい。

つい…

「支店に来る奴は使えないんなら、お前は何年支店なんだ?

転々として10年以上支店にいる奴は、お前しかいねーだろーが。

お前が一番使えねーんじゃねーのか?どーなんだ?言ってみろよ。」

といったような感じで、言ったら止まらなくなってしまい。最終的には、

「ふざけんな、やめてやるから明日事務所でまってろよ」

と言って帰りました。

翌朝、本社の部長からメールが入っており

「やりすぎだ」と。

私も大人気なかったので、丁重にお詫びを支店長にして1日を過ごしました。
後日、色々な人から聞くとパワハラ・いじめで部下が何人も辞めているらしく、
私も辞める可能性があるとの噂があったようだ。
初日の一件があったので、その後、パワハラ・いじめは、
一切なく快適に過ごすも3か月後に支店長が異動になりました。

いやー残念でなりませんでした。

この件がバレたのは、前任者が会社にチクりやがったせいである。

あー完全に若気の至りですね。20代でしたから。ね。仕方ない仕方ない。

2010年に赴任して2011年に結婚(転勤先で出会い)
2013年に第一子を授かる。

当時は、月の8割は出張のため家に帰らない状態でした。
お陰様で現場を相当覚えることが出来た。
2016年に第二子を授かる
本店勤務中に息子が入院
妻が付き添うため、娘を幼稚園に送り迎えと家事をするため
会社に行けず…約1か月。

※このあたりは、かなりブラックなネタになるので、どこかで記事にします。

転勤を2回し現在に至る。

2023年秋頃、出向予定

ん~そこそこ、やらかしてますね。

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