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チェリー・レッド物語(1):イアン・マクネイの回想

原文:
The Cherry Red Story
https://www.cherryred.co.uk/the-cherry-red-story/
上記テキストの前半、"The Cherry Red Story 1991 to 2017"という見出しの手前まで。なお小見出しは訳者が適宜補った。

(後半はこちら


創業

それは、ウスターシャーのグレート・マルヴァーンという、最もありえない場所から始まった。時は1971年、サイケデリック・ミュージックとフレアパンツが流行していた。アーセナルはダブル優勝を果たし、私は南ロンドンでリチャード・ジョーンズらとシェアハウスをしていた。リチャードはマルヴァーン出身で、多くの勧誘の末、私を彼と彼の旧友ウィル・アトキンソンと一緒に、巨大で利用度の低いマルヴァーン・ウィンター・ガーデンでロック・コンサートを開催するように説得した。

1971年7月3日、私たちはやや緊張しながら、初めての興行の日を待った。ホークウインド+スキン・アレイ+サイドワインダー・ディスコ。なんてお得なんだ! 600人以上の観客が集まったので、私たちは祝杯をあげ、わずかな利益を3人で分け合うことができた。それから10年間、私は3週間ごとにマルヴァーンに行き、パートナーのウィルとリチャードと一緒にコンサートを開催するのを手伝った。

私たちは自分たちの会社をチェリー・レッド・プロモーションズと呼ぶことにした。チェリー・レッドという名前の由来は? 私たちの新しいベンチャーをどう呼ぶか、何週間も悩んだ。最終的にウィルが思いついたが、それはグラウンドホッグスのアルバム『Sprit』の収録曲のタイトルだった。私たちはグラウンドホッグスが好きだったし、名前も気に入ったので、そういうことになったというわけだ。トニー・マクフィー、すべて君のおかげだ!

イアン・マクネイ、リチャード・ジョーンズ、ウィル・アトキンソン。チェリー・レッド・プロモーションズ、1977

1977年当時、パンク・ミュージックが盛り上がっていて、私たち3人はそれが大好きだった。マルヴァーンに呼べるパンク・バンドなら誰でも興行を打った。ザ・ダムド、ザ・ストラングラーズ、ザ・ジャム、ジェネレーションXなどなど。そしてそこには、パンクの爆発に対するマルヴァーンからの回答である、ザ・タイツもいた。1977年の大晦日にマルヴァーンのワイン・バーで、タイツのレコードをリリースするためにレコード・レーベルを立ち上げるべきだと私を説得したのは、またしてもリチャードだった。1978年6月2日、タイツのファースト・シングル〔「Bad Hearts」〕がリリースされた。翌週には、今は亡き『Record Mirror』誌の今週のレコードに選ばれ、その翌週にはジョン・ピールがこの曲を放送し、あれよあれよという間に初回プレスの2,000枚が売れてしまった。その一方で、友人のデイヴィッド・トーマスがインディーズ・レコードのための初の本格的な流通サービス、スパルタン・レコードを始めたばかりだったので、私はシングルのきちんとした流通を確保していた。

しかし今や、私は重要な決断を迫られていた。チェリー・レッドにすべての時間とエネルギーを捧げるために、本業という比較的安定した仕事を辞めるかどうかを決めなければならなかったのだ。私が決心するまでの間、ザ・タイツはマルヴァーンを拠点とするプロデューサーのジョン・エイコックと共にスタジオに入り、セカンド・シングル「Howard Hughes」をレコーディングした。それを聴いて、私は「これだ」と決心し、仕事を辞めてチェリー・レッドを独立したレコード・レーベルにするために全力を尽くすことにした。私にはレコード会社で働いた経験があるという強みがあった。その前の1年間はマグネット・レコードで、その前の3年間はベル/アリスタ・レコードで過ごしていたのだ。レコード会社の仕組みはわかったが、自分でもできるだろうか?

The Tights - Howard Hughes (Cherry Red, CHERRY 2)

『Business Unusual』

タイツのセカンド・シングルは結局4,000枚以上売れたが、バンドはすぐに解散してしまった。彼らはみな若く、定期的にギグをする覚悟もなかった。私は会社を成功させるには、リリースするアルバムを早く見つけなければならないと思った。シングルからの利益は微々たるものだからだ。モーガン=フィッシャーとは以前にも会ったことがある。ラブ・アフェアー、ザ・サード・イアー・バンド、モット・ザ・フープルに参加していたことで有名な人物だ。彼はその後数年間、チェリー・レッドに多くのアルバム・リリースを提供することになった。しかし、最初の『The Sleeper Wakes』は決して目覚めることなく、700枚も売れなかった。

次のシングルはデトロイトのバンド、デストロイ・オール・モンスターズからのものだった。彼らのシングル「Bored」については『Sounds』で読んだことがあり、アメリカの小さなレーベルから出ていた。バンドはストゥージズとMC5の元メンバーで構成されており、ボーカルのナイアガラは写真映えしていた。実際にレコードを聴いたことはなかったが、きっといいに違いないという強い予感がした。私はデトロイトに手紙を書き、レコードのライセンス料として500ドルを提供した。幸運なことに、私はこのレコードを気に入り、他の多くの人たちも気に入って7,000枚以上売れた。

しかし、それでもアルバムを売らなければ成り立たない。私にはアイデアがあった。メジャーのチャート・ヒットを集めたコンピレーション・アルバムはたくさんあったが、インディペンデントでリリースされたレコードを集めたコンピレーション・アルバムはまだなかった。この頃には、私と同じようにシングルを出している小さなインディペンデント・レーベルがたくさんあった。ラフ・トレード、ミュート、シティ、インダストリアル、ファクトリーなど、すべてのレーベルがビジネスを始めていて、レーベル間には強い仲間意識があった。

私たちは、音楽ビジネス全体の構造に対するオルタナティブを支援し、構築し始めていた。インディペンデントなディストリビューション、プロモーション、マーケティング、プレス・サービスなどが台頭し始めていた。私はいくつかのレーベルにこのアイデアを提案し、数日のうちに、もちろんザ・タイツを含む14曲を確約した。アルバムには、トーマス・リア、スロッビング・グリッスル、UKサブズ、ロバート・レンタル、キャバレー・ヴォルテールなど9組の多彩なサウンドがフィーチャーされた。タイトルの『Business Unusual』は、スロッビング・グリッスルのジェネシス・P・オリッジがオックスフォード・ストリートのティールームで私と一緒に座っているときに考えたものだ。発売から数週間で、このアルバムは1万枚売れた。

Various - Business Unusual (The Other Record Collection) (Cherry Red, A. RED 2)

1979年1月、私は毎年カンヌで開催される音楽ビジネスの祭典、MIDEMを初めて訪れた。他のインディーズ・レーベル数社とともに、私は勇敢にも、イギリスのインディーズ音楽が国際的に爆発しようとしていることを、明らかに無関心な国際シーンに説得しようとした。ディスコ・ミュージックは絶頂期にあった。私がコンベンションセンターを歩き回ると、恐ろしく退屈で、何の変哲もない音楽が次から次へとブースから出てきた。唯一のオアシスは、UKサブズや他のイギリスのパンク・バンドが時折響かせる刺激的なサウンドで、シティーのフィル・スコットやザ・レーベルのカルーソ・フラーがそこにいることがわかった。私は『Business Unusual』を海外の2、3の会社にライセンスしていて、それが始まりだった。

デッド・ケネディーズの成功

私がチェリー・レッドに対して常に抱いていたビジョンは、多様性だった。ラフ・トレードのサウンド、ファクトリーのイメージ、ミュートの特徴的な音楽。でも、チェリー・レッドはできるだけ多彩であってほしかった。それは決して「ヒップな信用」をもたらすものではないことはわかっていたが、そのことは気にしなかった。

続いて、デストロイ・オール・モンスターズがもう1枚シングルを出し、チェリー・レッドのサポートでUKツアーを行った。写真ではとても輝いて見えたシンガーのナイアガラは、ステージでは完全に迷子で、本当に歌うことができなかった。ディングウォールズでの最初のギグの『NME』のレビューの見出しは、まさにそれを要約していた。「ナイアガラ崩落(Niagara Fails)」。

私は前年、当時話題になっていたガール・グループ、ザ・ランナウェイズのライブをラウンドハウスで観たことがある。彼女たちは素晴らしかった! イギリスのフォノグラムが彼女たちのニュー・アルバムをリリースしたくないと聞いた私は、ニューヨークにいる彼女たちのマネージャーを探し出し、彼に少額の前金を提示した。それから1カ月後のある金曜日の夜、私はシンガーのジョーン・ジェットとマネージャーのトビー・マミスに会うためにチャペルズのレコーディング・スタジオに着いた。ジョーンはそこで、セックス・ピストルズのポール・クックとスティーブ・ジョーンズと一緒に新曲をレコーディングしていた。最初は少し緊張した。メジャー・レコード会社の経済的利益に慣れているバンドが、チェリー・レッドの最小限のリソースで満足できるだろうか? 心配する必要はなかった。トビー・マミスは私がやっている仕事をすでに知っていて、アルバムを出すことをただ喜んでくれた。ランナウェイズのアルバムがリリースされたとき、私たちは見違えられた。ヴォクスホール・カンファレンスから3部リーグに昇格したようなものだ。私たちは今や、リーグにいた!

この頃には、私はモーガン=フィッシャーと親しくなっていた。ノッティング・ヒルの小さなアパートの一角にある、チェリー・レッドが資金を提供したいささか簡素なスタジオに閉じこもり、彼は旅先で「見つけた」無名のバンドの演奏を収録した「コンピレーション」アルバムを制作した。モーガンはRadio 1を含む一連のインタビューに応じ、ハイブリッド・キッズのアルバムの重要性を皆に確信させた。しかし、それらは決して彼の豊饒な想像力による創作以上のものではなかった。彼はまた、あまり好きではない出版契約を結んでいた。数年前、彼はDJMミュージックと契約し、42曲を残していた。ある夜、彼の地元のワイン・バーでリースリングを何本か飲んだ後、「問題ない」と私たちは決めた。彼がレコーディングし、私が42曲入りのインストゥルメンタル・シングルをリリースする。翌日、彼はさっそく42曲の「歌」を録音し、1カ月後にシングルがリリースされると、彼は契約を解除した。彼は一時、チェリー・レッドを通じてパイプ・レコードという自身のレーベルを持ち、50人の異なるアーティストによる1分以内の50曲からなるアルバム『Miniatures』をリリースした。

ビル・ギリアムはクリス・ギルバートとパートナーシップを組んでいた。クリスとは、チェリー・レッドがアルバムをリリースしたハリウッド・ブラッツとの付き合いで知り合った(ちなみに、ブラッツのアルバムはCDで再発されたばかりだ。最高のアルバム!)。彼は、デッド・ケネディーズというアメリカのバンドのマネージメントをしていて、そのバンドのアルバムを私がリリースすることに興味があるかどうか知りたいと言ってきた。ケネディーズはすでにファスト・プロダクツから名作「California Uber Alles」のシングルを出していて、アルバムはきっとうまくいくと思った。唯一の問題は、彼らがアルバムのレコーディングに1万ドルを要求してきて、私には手持ちがないことだった。私は数日間この状況を考え、ヴァージン・レコードの輸出会社であるキャロライン・エクスポートのバイヤー、リチャード・ビショップに私の不満を話した。リチャードはすぐに「キャロラインがお金を貸してくれるから、3カ月間輸出を独占させてくれないか」と提案してくれた。それはとても簡単なことだった。私はサンフランシスコに飛び、バンドに会い、『Fresh Fruit For Rotting Vegetables』のマスターテープを持って帰ってきて、数週間後にはチェリー・レッドはナショナル・チャートのトップ40に入るアルバムを手にした。人々はレーベルを本当に真剣に受け止めてくれるようになって、何よりも、会社を拡大するための資金が銀行口座に入った。デッド・ケネディーズの成功を受けて、海外からのライセンス契約のオファーが殺到し、チェリー・レッドは明らかに新たなステージへの準備が整った。

イアン・マクネイと、ザ・デッド・ケネディーズのマネージャー、ビル・ギリアム

拡大期

この段階でも私はウィンブルドンのアパートで仕事をしていたが、今、助けが必要なのは明らかだった。それまでの3年間はすべて自分でやっていた。マイク・オールウェイがレコード会社のクリエイティブ面を、セオ・チャーマーズが出版面を担当してくれた。音楽出版を真剣にやりたいという強い気持ちはずっと持っていた。出版社がほとんど何もしないで大金を稼いでいるように見えたということ以外は、あまりよく知らなかったのだが。「出版で儲けることができれば、レコード・レーベルでもっとたくさんのバンドと契約できる」と考えたのだ。これまでレコード・レーベルで契約したアーティストのうち、出版可能なものはすべて契約してきたが、もっと先に進む時が来たと思っていた。セオの任務は、外に出かけて、たとえ録音物を私たちが持たなかったとしても、興味深いバンドの出版契約を結ぶことだった。彼が最初に契約したバンドはブランマンジェで、後に8枚のトップ40レコードを出した。私たちはすぐに、インディーズ音楽全般をカバーする大規模なカタログを作り上げた。もしバンドが1曲しか持っていなかったとしても、私たちはその曲を出版し、印税をきめ細かく彼らに説明した。マット・ジョンソン(ザ・ザ)、ベン・ワット、トレーシー・ソーン、ゴー・ビトウィーンズはすべて長期出版契約を結んだ。

セオ・チャーマーズ、マイク・オールウェイ、イアン・マクネイ。チェリー・レッドのチーム、1982

チェリー・レッド・レーベルが本格的に軌道に乗り始めたのはこの時期だった。A&R担当としてマイク・オールウェイを選んだのは賢明だった。彼は1年半以内に、アイレス・イン・ギャザ、フェルト、モノクローム・セット、マリン・ガールズ、トレーシー・ソーン、ベン・ワット、トーマス・リア、ザ・パッセージと契約した。魔法のような時期だった。私たちが出したリリースのほとんどすべてがインディペンデント・チャートにランクインした。1982年12月に出したコンピレーション・アルバム『Pillows and Prayers』(17曲入りが99ペンスという前代未聞の価格)は12万枚を売り上げた。しかし、翌年の夏のある日、私が長期アメリカ旅行から戻ると、マイク・オールウェイの辞表が私の机の上に置かれていた。ワーナー・ブラザースの後ろ盾と名声と富の夢への誘惑があまりにも大きかったのだ。彼はチェリー・レッドを去り、重要なアクトをすべて連れて行くつもりだった。ブランコ・イ・ネグロが誕生し、チェリー・レッドはスター・プレイヤーを失った。マイクと私は良い友人になっていただけに、それはビジネス的にも個人的にも大きな痛手だった。

しかし人生は続いた。私たちは、チェリー・レッド・レーベルに収まらない多くのバンドを発表する場としてアナグラム・レコードを立ち上げた。ワン・ウェイ・システム、エイリアン・セックス・フィーンド、ザ・ヴァイブレーターズ、ジ・エンジェリック・アップスターツ、ヴァイス・スクワッドなど多くのバンドがアナグラムを成功に導いた。70年代のグラム・ロック・バンド、ザ・スウィートのヒット曲を集めたコンピレーションは、コンピレーション・アルバム『Punk and Disorderly』と同様にポップ・チャートにランクインした。

エイドリアン・シャーウッドは時代を先取りしていた。彼のレーベルON-Uサウンドは、私が今まで聴いた中で最も独創的な音楽を提供していた。エイドリアンはあまりお金を持っていなかったが、なるべく多くのレコードを作りたがっていた。私たちはその後2年間で7枚のアルバムに資金を提供し、それらはすべてCDリイシューとして再び世に送り出された。その間、フェルトとアイレスはチェリー・レッドに残ることを決め、マイク・オールウェイの後任としてジョン・ホリングスワースがA&R部門の指揮を執ることになった。ジョンが結んだ最も重要な契約は、ユーゴスラビアの政治的・音楽的過激派ライバッハとレッド・ボックスだった。彼らが契約書にサインする前に、私はライバッハの政治的マニフェストをベルサイズ・パークの彼らのスクワットでロウソクの明かりの中で読まなければならなかった。レッド・ボックスは「Chenko」の完成したマスターを持ってオフィスに入ってきて、私たちのもとでもう少しでヒットするところだったが、のちにワーナー・ブラザーズでトップ10入りを果たすことになる。

ひどく雨の降る寒い月曜日の夜遅く、私はドイツのライセンシーと夕食をとった後、車で帰宅途中だったが、その時2つのタイヤがパンクした。私はAAレスキュー・サービスに電話し、彼らが来るのを待ちながら、やや意気消沈して座っていた。ジョン・ピールの番組のスイッチを入れ、最初に聴いたレコードがジェーンの「It's a fine day」という胸に迫る曲だった。私はそのレコードが気に入り、何よりもその曲が気に入った。翌朝、私はピールのプロデューサーに電話をかけ、そのレコードについてもっと詳しく聞いた。私は所有者であるエドワード・バートンを探し出し、レコードと楽曲の権利を買い取った。そして3週間後、「It's a fine day」はチェリー・レッドからリリースされ、ナショナル・チャートの下位に食い込んだ。私のタイヤがパンクしたことの真意が明らかになったのは、それから10年近く経ってからだった。1992年1月、カンヌのMIDEMで再び夕食をとっていたとき、PWLのピート・ウォーターマンが熱心に私のところにやってきて、「イアン、君の曲でNo.1ヒットが出るよ」と言ったのだ。彼がオーパス3というグループで「Fine Day」の新バージョンを出すと説明するまで、私は彼がどの曲を指しているのかさえわからなかった。この曲は実際にはNo.1にはならなかったが、大陸全土で大ヒットし、今ではコンプリート・ミュージックの最大の著作権のひとつとなっている(チェリー・レッド・ミュージックは1984年にコンプリート・ミュージックに社名を変更した)。

より大きな海へと旅立った2年後の1985年、マイク・オールウェイの船は荒波にもまれ、彼とワーナー・ブラザースは袂を分かった。私たちはチェリー・レッドの傘下でエル・レコーズを結成した。エルは広く批評家の称賛を得た。誰もがジャケットやイメージを気に入り、多くの人がレコードを気に入ったようだ。しかし、残念なことにレコードを買う人はほとんどおらず、エル・レコーズは3年後に自然消滅した。しかし、その精神は日本で生き続け、特にフリッパーズ・ギターなど、日本で成功した多くのバンドがエルの影響を認めている。

模索の90年代

1987年、私は自分の仕事から離れることを決意し、4年間会社に出社しなかった。私は世界と自分自身を探求する冒険の旅に出て、国から国へと旅をした。私は時折オフィスに電話をかけて様子をうかがい、やがて1991年5月にロンドンに戻った。

私が帰国したとき、音楽も音楽業界の構造も急速に変化していた。巨大な多国籍企業が、英国で新しいアーティストをブレイクさせるには「インディー」のネットワークを使うしかないと判断したようだった。1980年に私が創始に関わったインディペンデント・チャートは、多国籍企業が出資する、あるいはさらに悪いことに、所有するレーベルからリリースされるレコードに侵食されるようになっていた。「インディー」という言葉は、このチャートの本来の意図や言葉の意味とはまったく関係のない、マーケティング用語と化していた。

アーティストの姿勢も急速に変化していった。もはや彼らは、2枚、3枚と時間をかけてキャリアを築くことを望まず、クリエイティブな面でも経済的な面でも、成功は早く手に入れることを求めていた。

私たちは2つの新しいバンドと契約した。プロラプスとツェ・ツェ・フライだ。私たちは「正しい」ことをすべてやった。夜のロック・ショーでの演奏、音楽紙での良い評価、信頼できるギグ。しかし、バンドのキャリアを維持するために必要なリソースはもうなかった。バンドを成功させるためには、多額の資金が必要だった。

私は一時期、会社をどうしたらいいのか、どの方向に持っていけばいいのか悩んでいた。以前一緒に仕事をしていたアーティストの中には、今でも世界中でかなりの量のレコードを売っていて、私たちのやり方を理解してくれている人たちがいた。だから、エイリアン・セックス・フィーンドやモノクローム・セット、モーマスなどのレコードを今でも出している。しかし、インディペンデント市場には大きなギャップがあることがわかった。リイシュー専門のレーベルはいくつかあったが、70年代後半や80年代はじめから半ばにかけての音楽に集中しているところはなかった。そしてそれは、私が最もよく知っている分野でもあった。

そこで、私たちは急速に別のニッチを見つけ始めた。70年代後半から80年代前半の重要なインディペンデント・レーベルの権利を、できる限り多く取得することを計画的に始めた。フリックナイフ、ノー・フューチャー、ロンデレット、ミッドナイト、テンプル、イン・テープなどなどは、私たちが権利を獲得した数多くのレーベルの一部である。1993年には「パンク・コレクターズ・シリーズ」という新しいシリーズをスタートさせ、すぐに成功を収めた。最近では「サイコビリー・コレクターズ・シリーズ」、「ブリティッシュ・スティール」メタル・コレクターズ・シリーズ、「ゴス・コレクターズ・シリーズ」を立ち上げた。どれも非常に人気がある。

「フットボール・コレクターズ・シリーズ」は、熱心なサッカー・ファンでいっぱいのオフィスで、私たちのハートに最も近しいプロジェクトだろう。1995年にスタートし、現在では50枚を数えるまでになった。プレミアリーグのほとんどのクラブ、1部リーグの半分以上のクラブ、そしてスコットランドの大きなクラブの曲のコレクションを揃えている。これにイングランド、スコットランド、ジャマイカ、アイルランドの代表チームの曲を加えれば、実に多様なサッカー・ソングのセレクションになる。最近、私たちはどうしてもサッカー関連のリリースが遅くなってしまっている。リーグ全92クラブのセットを完成させたいとは思っているのだが、作業と売上の兼ね合いもあり、今のところ多くのクラブを除外している。

1999年、私たちは評判の高いRPMレーベルの日々の運営を引き継いだ。この3年間で、マーク・ストラットフォードの指導の下、レーベルの生産量は大幅に増加し、現在ではRPMのカタログを年間30枚ほど増やすことを目標としている。マークがすべてのリリースのリサーチに費やす時間は相当なもので、リリースのクオリティ、特にパッケージに対する評価は素晴らしいものがある。

2000年代へ

私たちはここ数年、いくつかの新しいレーベルを立ち上げてきた。7Tsというインプリントは現在15枚までリリースしている。ショワディワディ、ザ・グリッター・バンド、ハロー、バリー・ブルーなど、1970年代の忘れ去られたアーティストの作品を扱っている。ここでもパッケージやその他の細部に至るまで、可能な限り決定的なリリースになるよう、多大な努力を払っている。

ニック・カリーが主宰するアナログ・バロック・レーベルは、間違いなく最新の動向を注視している。モーマスとしての彼自身の素晴らしい作品とは別に、ニックはステレオ・トータルの2枚のアルバムを世に送り出し、批評的にもセールス的にも非常に良い結果を残している。セカンド・アルバムは、ザ・ストロークスのヨーロッパ・ツアーでサポート・バンドとして参加したことが、その露出に大きく貢献した。

ジーナ・ハープは現在、アリヴェデルチ・ベイビー!というインプリントから3枚のアルバムをリリースしている。2枚目は、日本の異色ガール・デュオ、シーガル・スクリーミング・キス・ハー・キス・ハーで、メディアからの評価も高く、今後の活躍が期待される。

2002年にチェリー・レッド・レーベル・ファミリーに加わった主なレーベルは、ジョー・フォスターの再始動したレヴ・オラ・レーベルである。ジョーがTVパーソナリティーズのメンバーだった頃を覚えている人も多いだろう。彼はその後、アラン・マッギーとともにクリエイション・レーベルの共同設立者となり、カタログ部門としてレヴ・オラを立ち上げた。やがてクリエイションはソニーに買収され、ジョーはアランと共にポップトーンズを立ち上げた。レヴ・オラはこの時期に休眠状態となったが、昨年末にジョーから、多くの人に愛され、賞賛されたレーベルを復活させたいという打診があった。アイヴァー・カトラー、ランディ・マイズナー、サンディ・ソールズベリーといったアーティストの多様な世界を扱い、すでに20枚ほどのリリースがある。

私たちが特に力を入れているもうひとつのプロジェクトが、サイドワインダー・サウンズ・レーベルだ。このレーベルは、私たちが英国で世に出る価値があると考える、主に英国以外の新人バンドやアーティストのためのものだ。最初のリリースであるマスターズ・オブ・ザ・ヘミスフィアとビジー・シグナルズはプレスに好意的に取り上げられたので、このレーベルをさらに発展させることが楽しみである。

私たちの比較的新しい書籍部門は拡大を続けており、2003年にはさらに6冊の書籍の出版を予定している。私たちの方針は、ファンが他のファンのために深い本を書くということに変わりはなく、2002年の初めには、デヴィッド・パーカーがシド・バレットのレコーディングに関する詳細な仕事でレコード・コレクター誌の「ブック・オブ・ザ・イヤー」賞を受賞したことを嬉しく思っている。私たちは現在、ギャリー・シャープ=ヤングと長期契約を結んで彼の「Rockdetector A to Zシリーズ」を出版しており、6冊が既に出て今後も続く予定だ。昨年は、アップル・レコーズ、オジー・オズボーン、ザ・ローリング・ストーンズに関する本も出版された。

DVDの分野でも成長を続けている。マーク・アーモンドの2作品が好評を博し、ウィリアム・S・バロウズやザ・カメレオンズをフィーチャーしたDVDも発売された。2003年以降も多くの作品が予定されている。

[翻訳:sosaidkay]

訳者からひとこと

これはチェリー・レッド・レコーズのサイトにある、「The Cherry Red Story」というテキストの翻訳です。冒頭でも少し触れたとおり、このテキストは"The Cherry Red Story 1991 to 2017"という見出しの前と後で性格が異なり、前半がイアン・マクネイ自身の筆による2002年あたりまでの回想、後半は別の著者が関係者の証言なども挟みながら現在までに至る歴史を書いたものになっています。見出しには2017年とあるものの、現在(2023年10月)は2020年くらいまでの情報が載っているので、後半部分は順次更新されているのかもしれません。

訳してみた理由はむろん、先日訳した「The El Records Story」の書き起こしシリーズと重なるところが多く、話が立体的になって面白いからです。

チェリー・レッドは日本のリスナーからすると、エルのマイク・オールウェイがA&Rとして参画した時期のポストパンクやネオアコのイメージが強いレーベルですが、もとをたどればパンクのはるか以前、1971年にホークウインドなんかのライブを企画したところから始まるというのが面白いですね。レーベル名の由来になったグラウンドホッグスの曲もこんな感じです。

それにしてもマイク・オールウェイが出戻りする経緯、「ビジネス的にも個人的にも大きな痛手」とは書いてあるものの、あらためてエグすぎるような気がするのですが……。せっかくレーベルの個性が見えて軌道に乗ってきたところで、社長の旅行中にA&Rマンが看板アーティストともども電撃移籍。裁判沙汰や罵り合いからの絶交、とかになっても全然おかしくないような。しかしマイクはチェリー・レッドに戻って、エルをやり、今に至るまで協力関係が続いているわけですよね。二人の友情というか関係性がすごすぎるなと思いました。

それと90年代以降のチェリー・レッドは再発盤に力を入れている、というのはなんとなくイメージしていたものの、音楽出版ビジネスにシフトチェンジしているというのはよくわかっていなくて、発見でした。この前半でもその片鱗が垣間見えますが、後半ではそのあたりがかなり詳細に語られているので、お楽しみに。

(後半に続く)


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