性癖分析シリーズ2「巨大娘・サイズフェチの構造」

サイズフェチを知っていますか

 サイズフェチとは、登場人物と環境、あるいは登場人物と他の登場人物との「大きさの違い」に起因する様々な状況を楽しむフェティシズムである。この「大きさの違い」とは文字通り体の大きさの違いであり、特に「サイズフェチ」ないし「巨大娘」と言う場合には概ね2倍以上のサイズ差がある場合、かつ、身長だけでなく体の横幅の縮尺も違っているものを指す。それ以下の差の場合や単なる高身長の場合は「体格差」とのみ呼ばれることが多い。

 この性癖の歴史は古く、『西遊記』の鉄扇公主などまで遡ることができる(今でも中国語圏ではサイズフェチジャンルのことを「鉄扇公主」と呼ぶことがあるらしい)。史上にいくつかのターニングポイントがあり、それは例えば『ウルトラマン』のフジ隊員であったり、同人ゲーム『縮小学園』であったりする。研究書とされるものとして鳥山仁・嵯峨翡峰『巨大娘研究』[1]がある。

 本記事では、サイズフェチという性癖がどのような欲望に支えられているかということを検討する。検討にあたり、相対的に巨大であるのが美少女キャラクターである場合を主に取り上げる。男性キャラクターが巨大である場合もあるが、その欲望の構造は美少女の場合とある程度まで共通していると考えるためである。


 海外への意見発信のため、英語版を用意している。美少女の文明と表現の自由の恩恵により欲望を直視して分析できることは、世界に範となるべき日本の強みだと私は考える。

英語版:

サイズフェチ総論

 まず、前置きとして、「巨大娘」概念について述べておく。巨大娘(Giantess, GTS)とは鑑賞者に対して極端に体のサイズの大きい美少女の事で、これに性的興奮を覚える人間が存在する。人数は少ないが歴史は古く、怪獣映画やSMなど、間口を広く持つフェティシズムである。

 このフェティシズムは実は複合的な要素から成り、それらが奇跡的に巨大娘という表象によって網羅されている。巨大娘の構成要素とは、例えば自分を屈服させる圧倒的な力であり、触れられる面積の増えた肌であり、存在感の具現たる体重であり、都市を破壊するカタルシスである。

 これらの構成要素のうちどれを求めるかによって、巨大娘フェチは「ギガンテス/ジャイアンテス」(通常サイズの鑑賞者に対して巨大な美少女)もしくは「シュリンカー」(通常サイズの美少女に対して小さな鑑賞者)に大別され、その中で更に美少女と鑑賞者のサイズ比において好みが細分化する。

 具体的に好まれるシチュエーションとしては、鑑賞者を足や尻や胸で押し潰したり、丸吞みしたりするものが典型例である。ギガでは都市や惑星を破壊する事が前提となり、シュリでは生活感を強調するために言葉責めや周囲の環境の描写を重視する事が多い。これらの他にも多くの構成要素を持つが、それらは究極的には多細胞生物の「幼年期には身体が小さい」という大原則に端を発しているように見え、人類という種について多くの示唆を与える興味深い嗜好である。なお、私は「シュリンカー:1/2倍から1/100倍」が趣味である。

シュリとギガ

 プレイの分析に入る前に、誰がそれをするのか、ということについて述べておく必要がある。即ち、「シュリ」と「ギガ」の違いについて。二者の間に優劣はないが、二者が区別されることを知らない者はモグリである。

 サイズフェチのシチュエーションは「シュリ」と「ギガ」に大別される。シュリとはシュリンカー(「縮小された者」)の略で、人物を小さくすることにフェティシズムを見出すものを指す。ギガとは、人物を巨大化させることにフェティシズムを見出すもの。ギガンテスの略とされることもあるが、日本語圏では専ら「ギガ」と呼ばれる。つまり、ヒロインが男性主人公より大きい場合、ヒロインの身長が160mで主人公が1.6mならばギガ、ヒロインが1.6mで主人公が1.6cmならシュリにとりあえず属する。

 この二つはどちらもサイズ差を主題とするものであり、同じジャンルとして括られることが多いが、愛好者の着目するポイントが大きく異なる。しばしば「相対的に巨大娘」という但し書き付きのジャンル名が用いられるのもこのこだわりの違いによる。

 私は、ギガとシュリを支える欲望の違いを「日常の享受」という観点から説明する。シュリとギガの違いは実はキャラクターの大きさにあるのではなく、見知った日常が自分にだけは違う意味を持って迫ってくるか、非日常が日常を破壊するために迫ってくるかというところにある。

シュリ:日常の過剰享受

 ここで言う「日常」とは、今や死語である「リア充」という言葉に含まれる「リアル」の概念とも近い。フェティシズムの理由を現実の生い立ちに求めるなら、次の図のように考えることができるだろう。

巨大娘と非リア

 シュリは、リアルを超える力を求めるのではなく、普通のリアルを過剰に味わう事によって満足を得ようとする試みだ。いわゆる非リアを想定して説明するのが分かりやすいが、いわゆるリア充が謳歌しているその「リアル」が自分には足りていない上、二十歳を過ぎてリア充になっても制服セックス組には勝てないだろうから、その差を埋めるための手段として「普通のリアルを過剰に味わう」、ということだ。

 シュリにおいて過剰に享受される日常は、過剰に享受されながらも、あくまで日常でなければならない。床は床であり、靴は靴であり、少女は少女であること、それらは普通の日常を営んでいるだけで、ただ自分にのみ重大事となるということが常に意識されねばならない。

 これは、子供の「巨大なプリンがあったらたくさん食べられるのに」という願望と同種のものだ。プリンは大きくてもプリンである。美少女も大きくても美少女であってほしい。街を破壊するなどの属性は要らない。それには、自分が小さくなるのが早い。もちろん、小さくなった自分にとって普通サイズの美少女は脅威である。しかしそれは、元々欲していた「リアル」、つまりヒロインの重さや匂いや体温や筋肉の運動が量的に「過剰」になっただけのもので、美少女が全く別種の何かになったわけではない。

 一瞬ごとに、否応なく、ヒロインの生活感を感じざるを得ない。これを「自分で責任を負わずにヒロインの生活感を味わう」と言い換えれば、確かにこれは自分の存在がヒロインに気付かれているか否かを問わず、覗きと同じ構造を持っている。前掲書『巨大娘研究』[1]は、シュリに窃視趣味の側面がある可能性を示唆しているが、それはこのような意味合いであろう。

 一つ屋根の下に暮らす人数が多く、また家同士の行き来も盛んであった時代に比べて、現代では「他人の生活空間」というものの持つ神秘性は強まっているはずだ。プライバシーの権利の発見もその傾向に拍車をかけた。これが生活空間の過剰享受であるシュリの愛好者を多く生み出すのは道理であるし、他人の生活空間の最たるものは他人の身体そのものであるため、他の多くのフェティシズムもまた強化される時代であろう。

ただし当然、このようなフェティシズムは成人やいわゆる非リアの専売特許でもない。「プレイ」の項で具体的に述べるが、サイズフェチにおいて頻出する圧迫などのシチュエーションは性器以前の快楽に繋がっているため、日常の欠乏感などを意識しなくても、また第二次性徴前の児童でも、シチュエーションに惹かれてサイズフェチを意識することはある。

 そしてシュリの場合、この日常の享受にさらに「独占」という要素が加わりやすい。それはギガと対比すれば分かりやすい。

ギガ:日常の破壊

 ギガの場合、身の危険は他の人間と共有できてしまうし、自分は巨大娘にとって特別な存在ではないかもしれず、巨大娘の肌の柔らかさや温かさや重さを感じようと思っても瓦礫が邪魔になる。ギガの体験は独占できず、巨大娘との個人としての関係は薄れる傾向にある。ここで欲望されているものは一言で言えば、「公共的な日常の破壊」(日常の独占的な享受の否定)ということになるだろう。

 巨大娘が都市を破壊するシチュエーションはギガの典型例であるが、これは日常を破壊し、なおかつその破壊に不特定多数の他者を巻き込むことに他ならない。他者に正面から権威で言うことを聞かせたい、という欲望の表れでもあると私は考えている。シュリが窃視趣味であるというなら、ギガは(巨大娘に視点移入するか否かによらず、ギガを欲望するということ自体が)露出趣味である。

 一方で、日常を独占的に享受しないという性質は、シュリでは顕著であったような性的さとは相反する。性的さとは基本的には親密圏で享受されるものだからだ。以下のインタビュー記事では、巨大化を解決すべき社会的アクシデントとして捉えている。しかしこれにより、巨大化が社会に及ぼす影響を描くことに尺を割かれ、性的さの掘り下げを妨げるのではないかと私は懸念する。全年齢誌ならそれでも許されるかもしれないし、近年の商業作品にギガに比べてシュリが少ない理由はまさにここにあるのだろうが。

 巨大娘を、社会の許容能力を完全に超えた破壊の化身として描くなら、そこにはカタルシスがあり、社会を維持するための対処を噛ませ犬として描くことにも意味があるだろう。しかし巨大娘に社会的な対処ができるなら、やがて常人と巨大娘は共存し、巨大娘がいる風景は日常になるだろう。日常――それは、むしろシュリの領分だ。

サイズフェチは背景が九割

 巨大娘と周囲の環境との関係が核心であるが故に、サイズフェチは「背景」が重要になるジャンルである。一枚の絵の中に、美少女が大きく描かれ、その足元に小さく主人公が描かれているところを想像してほしい。これだけではサイズフェチ絵としての訴求力をほとんど持たない。重要なのは、彼女らの背景に美少女の私室が描かれるか、ビル街が小さく描かれるか、ということである。

 環境の描かれ方に注目することによって、シーンがどのような欲望に支えられているかを見極めることができる。外形的にシュリであるシチュエーションの中にギガ的思考法がある場合や、あるいはその逆もあるのだ。

 例えば私は、被食描写(美少女に食べられる描写)で実際に起こっている事がシュリだったとしても、被食愛好者の心性はむしろギガに近いと思う。何故なら巨大娘の体内では、普段見慣れている家具などによって世界と自分との大小比(巨大娘とのではなく)を確認する事ができず、無力なのは自分だけであるという感覚を味わう事ができない。あるいは逆に、『ガリバー旅行記』のように巨人の国や惑星に流れ着いた場合、設定上彼女たちの身長が何キロメートルであろうと、その国の建物や部屋が巨大娘の尺度に合わせて作られているのなら、むしろシュリ的な欲望に訴えるシチュエーションになる。

 ギガとシュリは互いに完全に排反な性癖ではないが、一旦分けて考え、その相違点と共通点を分析することによって、人間の欲望への解像度は高まる。例えば男の娘とふたなりを「ホモ」の名のもとに一緒くたにしてはならないことを理解できるなら、ギガとシュリを「巨大娘」の名のもとに一緒くたにすることもやはり避けねばならない。間口を広げるという商業的な事情からは理解できるが、性癖の分析という点では精度を欠く。絵の見かけではなく、そこに託されている欲望で区分するのだ。ギガとシュリは、ある面では全く正反対の欲望に支えられている。

なぜ巨大「娘」であるべきか

 物が車に轢かれるシーンで興奮する人間が一定数いる。あるいは、物を油圧プレス機で潰し続ける動画に確かな需要がある。しかし一方で、轢くものとして美少女を必要とする者もいる。そのような者は、圧迫以上に承認と接触を求めている。現実に実現可能なシチュエーションの中で最も近いのは顔面騎乗であろう、しかしそれでは足りないのだ。

 巨大なヒロインが普通に生活している時、小人は一顧だにされないのだから承認とは対極にある、というのはギガの発想だ。シュリンカーの場合には、ヒロインは普通の大きさをした世界の中で縮小人間だけを狙って殺しにくることがある。その上、殺す前の段階では、ヒロインは無力な縮小人間を実質的に管理・支配する事になる。縮小人間は社会から切り離され、支配権を委ねた美少女を通してのみ世界と交渉できる(ただし、縮小人間が複数いて独自の社会を形成する場合、この条件を満たさず、既にギガの範疇である)。これは俗に言う「バブみ」に非常に近い状況である。

 巨大娘はここに数多くのセクシュアルな要素を付加できるが、本質はシュリにおいては「庇護」であり、ギガにおいては「畏敬」であると言える。過剰な承認と過剰な接触。しかしその過剰さを供給できるものは現実世界にはもはやないのだ。これが巨大娘愛好者を取り巻く状況の一面である。

 大きいのが美少女であるべき理由は、シュリでもギガでもほとんど同じであろう。私は2023年6月現在、

  • 美少女の存在を強く感じられること

  • 本来弱いはずの相手に力で勝てないことのギャップ

  • 本来弱いはずの相手であるために、『美少女が傷つくことがあってはならない』という規範が強く働き、不可侵の存在であるかのようにみなされること

の三点で概ね説明できると考えている。第三番目の理由についてはササキバラ・ゴウ『〈美少女〉の現代史』[2]に詳しい。もしもサイズフェチを好む最大の理由がこれらであり、日常の享受/破壊などが副次的な理由に留まるのであれば、触れる作品によっては趣味がギガからシュリに、あるいはその逆に移りうる。

 とはいえ、美少女でない場合も非情さが前面に出てそれはそれで性癖になるなど、あくまで人間の精神の可能性は無限大であることを付記しておこう。ここに二つの例を挙げておきたい。一つは巨大ケモであり、もう一つは竜である。

 航空自衛隊御前崎分屯基地の公式キャラクターである「おまねこ」は公式設定において身長176cmまたは40mであり、オスである[3]。巨大な動物全般には根強いファンがおり、中でもふわふわの体毛が生えているものは人気が高い。これは、美少女キャラクターを使う場合に生じるセクシュアルな文脈への抵抗感を解消でき、抱きついた時に気持ちよく、それでいて動物であるがために「最後の一線で何を考えているか分からない」という怖さを常に残してマゾヒズムに訴えることができるためだろう。おまねこがオスであることも潜在的な暴力性をより強く印象付ける。

 小説『異修羅』に登場する竜である「冬のルクノカ」は推定体長数十メートルであり、数百年生きて自分を「おばあちゃん」と称する[4]。体表は全て硬質な鱗に覆われており、爪は鋼よりも硬く、巨大さに反して俊敏に動くことができる。硬質な重量物が高速で動くことによる破壊力には、自動車へのフェティシズムとも共通する性的さがあるが、ルクノカの場合は生物としての自然な動きでその運動エネルギーを生み出せる点で無機質さと生々しさのいいとこどりであり、また本人が労せずしてそれをできるという点は無慈悲さを強めている。このような生物種はファンタジーを含めても多くはない。

プレイ

 サイズフェチのストーリーを駆動するために、小さい側から能動的にできることはほとんどない。数少ない可能な行為は「見ること」、そして場合によっては「話しかけること」であり、これによって巨大娘を恥ずかしがらせたり怒らせたりすることはできる。特にギガの場合、巨大化によって服が破れていたり隠れるところがなかったりするため、見る対象としては優れている。たとえ見ていることが巨大娘に知られなくとも、あるいは恥ずかしがらないタイプの巨大娘であっても、画面は脚や尻や胸で埋まるわけであるから、作品としては成立する。

 しかし、見るだけで満足するサイズフェチ作品はほとんどない。恥ずかしがるにせよ堂々と見せつけるにせよ、巨大娘が何かをすれば環境や視点人物に大きな影響が生じるのであり、この影響こそがサイズフェチ作品のサイズフェチ作品でなくてはならぬ理由である。見るだけなら普通のサイズでよい。従ってサイズフェチ作品におけるプレイは「する」ことではなく「される」ことにほとんど終始する。

I-Raf-You『おねーさんは魔女』

 巨大娘ジャンルにおけるプレイは基本的に、

  • 身体のどこかで潰される(圧迫)

  • 飲み込まれる(被食)

  • 汚物で溺れる(汚穢)

の三系統しかない。現実にはそれらをされた人間はほぼ例外なく死ぬわけであるから、行為そのものにはさほどのバリエーションはなく、また行為に伴う快楽を想像するにも限界がある(人間は自分の死の瞬間を想像できない)。見た目の派手さに反して、行為に至るまでの主人公と巨大娘の関係の描き方が物を言うジャンルである。

圧迫

「潰される」ということが引き起こす興奮と快楽は、それだけで一つの記事を立てて論じるに値する。人間は圧迫に快感を覚える。それは摩擦の快感より早く発達する。例えば子供はしばしば押し入れの中の布団の山に挟まることを好むし、成人でも重い布団をかけて寝ることで安眠できるという話はよく聞かれる。その理由は分からないが、生理的本能に根差すものだと私は考えている。体が小さい時期が母子一体の時期と一致するためか、より小型の哺乳類であった時期に獲得した脳の機能に由来するのかは定かでない。

 圧死は死に方の中では一瞬で終わる部類であり、それゆえ最も理不尽さがある。死骸も見て美しいものではない。しかし、その理不尽さを凌ぐ誘引力が圧迫にはある。あるいは不快さの中にこそ快楽がある(そして、そこにしかない)のかもしれないとさえ私は思う。

 巨大娘が相対的に小さい人間を圧迫するにも、様々な身体の部位が使われる。足の裏や尻が典型的だ。これらの部位は、性的部位とみなされているかどうか・単調で大きな面があるかどうか・巨大娘の意思に伴って繊細な動きができるかどうか・老廃物を排出するかどうかによって分類され、各人の欲望の構成比によって最適なものが選ばれる。これらの要素は、つまるところ以下のような理由で嗜癖となる。

  • 性的部位とみなされている → そこに触れることによって「性的接触を遂げた」という達成感を得ることができる。(尻・乳房・股間・膣・太腿・唇・肛門・乳首)

  • 単調で大きな面がある → 大きなものに身を委ねる快楽を引き起こす。(足の裏・尻・乳房・太腿・手のひら)

  • 巨大娘の意思に伴って繊細な動きができる → 巨大娘が自分に関心を向けていることによる嬉しさが生じる。(手の指、唇、及び他の部位に手で押しつけられる状況)/または、繊細な動きができない場合、「状況を変える術がない」という不随意さが強調される。(足の裏・尻・膣・歯・乳首) ちなみに、巨大娘が小さい人物の存在に気づいていないシチュエーションをunawareと呼ぶ。

  • 老廃物を排出する → 巨大娘の存在と生活感をより強く感じさせる。また、それが汚れとみなされるなら、触れる者の地位を貶める機能を持ち、マゾヒズムに訴求する。(足・股間・腋・肛門)

 例えば足の裏は、性的部位とみなされてはいないが、単調で大きな面を持ち、一度踏み下ろし始めれば巨大娘自身にとっても容易には加減ができず、足の指ほどではないが汗をかき、場合によっては土で汚れる。単調で大きな面や繊細な動きという点で、手の指や股間などから区別される。「足の裏は好きだが、足の指を動かしてみせて威圧するシーンはさほど好きではない」という者もいる(私だ)。

被食

「食べられる」ということは、「閉じ込め」と「受容」の二つの要素から成る。食べるのに使う器官は口に限られず、膣や直腸や乳腺や尿道(これは特にふたなりや男性キャラクターの場合)、稀に耳の穴や鼻の穴が使われる。これらの多くは当然、同一化と閉じ込めの他に「分泌物に溺れる」という要素を持っているが、それについては後述する。

 食べることは体内に閉じ込めることに等しい。閉じ込められることは体を拘束されることに劣らず人に恐怖を抱かせるが、美少女や好ましいキャラクターがそれをする場合、恐怖は比較的容易に興奮に転化する。これは分かりやすいマゾヒズムの表れだ。

 また、食べられているということは、少なくとも生理的に拒絶されてはいないということであり、さらにその結果として相手の身体に極端に近づくことができる。これを「受容」という言葉で表そう。この要素と無関係ではないのが膣に入れられる場合(unbirth)と乳腺に入れられる場合(nipplevore)で、前者は子宮に入ることをクライマックスとし、後者はしばしば母乳で溺れるところで終わる。膣や乳首は性的部位とみなされている以上、これらの中に入ることはある種の性的接触の達成とみなされ、嬉しさが生じる。母体回帰という既存の概念によって、自意識を手放すことが正当化されやすいという効果もある。

 一方で、胃酸で体が溶けて吸収される展開などには、実は同一化の側面はあまりないのではないかと私は考える。受容は喉を通過した時点で果たされているからだ。その先は「分泌物に溺れる」の系か、またはリョナに属する。

汚穢

 汚れたものに触れることのマゾヒズムと、匂いへのフェティシズムをここではまとめて「汚穢」とした。この二つは上手く分離することができない。人間の社会においては人の体臭や分泌物を全て汚れたものとみなし、一方で人の汗や膣分泌液には性フェロモンが含まれて性的興奮を引き起こすからである。匂いが生理的な反応を強く引き起こすからこそ、社会秩序への脅威として穢れとみなされ、穢れとみなされたからこそ禁忌を暴く快楽を通じてフェティシズムとして強化されたのかもしれない。

 いずれにせよ匂いや分泌物に触れるシチュエーションは、巨大娘の存在や生活感を強く感じさせ、触れる者の地位を貶め、性的な接触を僅かでも果たしたという達成感を生じさせる効果を期待して描かれている。当然、触れるだけでは終わらず、巨大娘の匂いや分泌物は容易に視点人物を殺しうる。特に尿はその量によって、大便はその重さによって、視点人物に溺死や圧死をもたらす。他に唾液・汗・母乳・屁などが使われる。

 ここで挙げた汚物の多くが液体または気体であることは注目に値する。これらは視点人物の体を全方向から包み込み、狭い空間を満たす。例えば匂いの充満した靴の中に入れられたり、ペットボトルに入れられて中に排尿されたりするシチュエーションに顕著に表れる。これにより、逃げ場がないことのマゾヒズムと、巨大娘のより強い存在感、そして大きな面積で接触されていること自体の快楽をもたらす。また液体はどこにでも付着するため使い勝手がよく、足の指で圧迫されるシチュエーションや、さらにその足にタイツを穿かせて汗を溜めておくアイデアはこの性質を大いに利用している。


 私は「シュリにおける縮小人間が受ける行為」を念頭に置いてこれらの三要素を論じたが、ギガで建物や惑星が受ける行為も同じ要素から成り、各要素の意味合いも同じである。ギガの場合は小さい人物と巨大娘の体が直接接触しづらくなり、また「独占」という要素が失われやすいが、代わりに建物のような硬質な物体が破壊される時には「変化の不連続さ」の快楽が頭をもたげる(本当は人間の骨でもそうだ)。それはカタルシスの一種と言ってもよい。

 しかしながら、サイズフェチにおけるプレイに圧迫・被食・汚穢の三要素があるとはいえ、それらの組み合わせは今やほとんど飽和しているというのが私の印象だ。つまり、プレイ内容には多くのバリエーションがあるわけではない。よって、差別化要因は二つ。一つは、物理的に実現不可能なサイズフェチのシチュエーションに、VRなどの技術によってリアリティを持たせること。そしてもう一つは、キャラクター造形。つまり、圧迫などの要素が感じさせてくれる生活感や受容などの諸々を、果たして誰から感じたいか、ということに注目する道だ。

視点人物と巨大娘との関係:日常の享受再論

 私の趣味の都合上シュリについての分析が主になるのをお許しいただきたい。しかし、プレイのバリエーションが飽和し、キャラを立てる必要に迫られていることにはギガでも変わりがないと思う。ギガの場合は巨大娘の生活空間は描かれないため、台詞や挙動によって「そのキャラクターらしさ」を表現することが重要になる。

 シュリのシチュエーション案は、大きく見れば既に飽和しており、小さく見れば無限に分岐する。トルストイに倣えば、「女体は大体どれも同じだが、日常には無限のバリエーションがある」ということだ。

 nipplevoreなど身体に焦点を当てたシチュエーションには大したバリエーションがない。乳首は乳首だ。しかし例えば、ヒロインに飼われている小人が餌として何を出されるかは作品によって違う。その、餌のような細かい点こそがシュリでは性癖を映すのだ。シュリとは日常を過剰に味わうフェティシズムであるから、「どのような日常を過剰に味わうか」が大きな論点となる。

 そのため、今後のシュリでは「どんなプレイがあり得るか」に通暁しているのは当たり前、その上で巨大娘との関係を細やかに描いたり、VRゲーム『ResizeMe!』のように没入感に特化したりといった「日常の生活感の語り」が作品の評価を左右するだろう。

 日常を描くとは、必ずしも物理的考証を正確にすることを意味しない。例えば身長100mの巨大娘が都市に現れた場合、必ず建物が壊れ粉塵が舞う。ギガではこのような効果の描写が省略されることはほとんどない。しかし、シュリでは通常、床を舞う埃を描写しない。それはヒロインの存在感を増すことに寄与せず、従って享受したい「日常」に含まれないのだ。

 こう考えれば、シュリは日常を過剰享受する前に「日常を再構築する」という位相を持っている。これはギガが日常を破壊することにこそ重点を置くのと対照的だ。さらに言えば、再構築された日常にはもはや「社会」がなく、ヒロインの生活空間と直結している。その意味でセカイ系の構造にも似ている。

 あるいは、シュリはセカイ系の反転として位置付けることさえできるのかもしれない。セカイ系の特徴とされる「最小項(主人公/恋愛)と最大項(ヒロイン/世界)の、中間項(社会)なき接触」の構図に照らすなら、美少女を日常空間に置いたまま、主人公の方を彼方の「最大項としての世界」の側に飛ばす装置として。微視的なスケールに潜れば潜るほど、ある意味で世界の普遍的な真理に肉薄していると言えるのではないか? それは単に素粒子に近付くことではなく――上手く言えないが――禅の「悉有仏性」に近い感覚だ。ゲーム『縮小学園』の先科研施設のBGM群に私はそれを感じる。


 ところで、キャラクターという観点で特筆しておかなければならないのが、母親が実の子供に対して巨大である場合であろう。この場合は、プレイが圧迫であれ被食であれ汚穢であれ、単なる殺害や受容を超えて「生まれてきたことの否定」という側面を持つ。母体から出たものを母体に戻す(≒埋もれさせる)行為だからだ。これは小さい側が望んでいる場合でも望んでいない場合でも、マゾヒズムに強力に訴求する。ゲーム『ポケットモンスター サン・ムーン』に登場するルザミーネとリーリエはこの点で最良の素材であった。Unbirthやnipplevoreの場合は「生まれ直し」の要素を持つため破滅的さがマイルドになる。

スケール(倍率)

 何倍に巨大化させるか、何分の一に縮小するかということは、サイズフェチのスペクトルの中に自分の性癖を位置付けるにあたり重要なもう一つの要素だ。倍率は、どのようなプレイができるか、そのプレイをどのように感じることができるかということに直接関わる。シュリで踏み潰されるシチュエーション一つとっても、力を加減しながらゆっくり体重をかけてほしいという場合には、ミリメートル以下に縮小することはまずない。サイズによってできることの違いを、私の独断に基づいて以下に示す。

シュリ

  • 1/1 ~ 1/3(一メートル~数十センチ):胴体に抱きつける。ほとんどのプレイで死なない。

  • 1/3 ~ 1/10(数十センチ~十数センチ):手で握られることができる。文房具や食器などの小物で責められることができる。尿や便で責められることができる。部屋の中を探索できる。鳥籠やドールハウスで飼われることができる。第三者に発見されなくなる。全体重をかけられると死ぬことがあるが、巨大娘の側で加減できる。

  • 1/10 ~ 1/100(十数センチ~数センチ):指でつままれることができる。片方の乳房、および片方の足の裏、および陰唇で全身を覆われることができる。口・膣・肛門に入れられることができる。呑み込まれることができる。靴・下着をはじめ衣服に入ることができる。汗や唾液で責められることができる。鞄やポケットを使って、第三者に発見されないまま巨大娘と一緒に外出できる。机の上など部屋の一部を探索できる。巨大娘の部分的な体重や任意の筋肉の力で死ぬが、巨大娘の側で加減できる。

  • 1/100 ~ 1/1000(数センチ~数ミリ):一本の手の指、および一本の足の指、および片方の乳首、および舌で全身を覆われることができる。足の指の股に入れる。コンドームに入れる。巨大娘と会話が成立しなくなる。巨大娘の体に密着した状態で外出できる。飼うための部屋を専門知識のない巨大娘でも自作できる。息で吹き飛ばされることができる。巨大娘の側で力の加減ができなくなる。

  • 1/1000 ~ (一ミリ以下):巨大娘の体の任意の開口部に入ることができる。指紋の間に入ることができる。巨大娘に居場所を認知されなくなる。巨大娘の体のどこを見ているのか分からなくなる。もはや死なない。

ギガ(加筆希望!)

  • 1/1 ~ 3(メートル、数十キログラム~数百キログラム):一般的な住居に入れる。通常サイズの人間と共同生活ができる。ほとんどのプレイで人を殺さないが、意図すれば殺せる。

  • 3 ~ 10(数メートル、一トン~数十トン):体重で人を殺せる。低層建造物の窓から中を覗ける。

  • 10 ~ 100(数十メートル、数十~数万トン):建造物を破壊できる。建造物の屋根に座れる。学校のグラウンドや山・荒野で生活できる。怪獣と戦える。人を食べることができる。寝そべることで都市の一区画を破壊できる。排泄物の処理が問題となる。衣装がスカートの場合、下着を見られることを防げない。人間の兵器で無力化される場合がある。

  • 100 ~ 1,000(数百メートル、数万~数千万トン):脱いだ衣服で建造物を破壊できる。歩くことで建造物を破壊することを防げない。排泄物で都市の一区画を破壊できる。ジャンプで地震を起こせる。低山に座れる。海中に立つことができる。人間の兵器が効かない。

  • 1,000 ~ 100,000(キロメートル、数千万~数百億トン):建造物を口・膣・肛門、および靴に入れられる。舌で都市の一区画を破壊できる。手で都市の一区画を持ち上げて運ぶことができる。地上に立った状態で航空機に接触できる。数歩で都市を壊滅させることができる。歩いて大陸を横断できる。地球上の多くの山に座れる。

  • -- ギガ空乏層 --

  • 10,000,000 ~ 100,000,000(数万キロメートル、数京~数千京トン):地球に座れる。

  • 100,000,000 ~ 10,000,000,000(数十万~数千万キロメートル、数千京~数十[禾-予]トン):地球を手で覆える。地球を口・膣・肛門に入れることができる。地球を目に入れることができる。

  • 10,000,000,000 ~ (数億キロメートル、数十[禾-予]トン):太陽および他の惑星に手が届く。

 これ以上の身長のキャラクターには、宇宙物理たんbot(Vtuber、最大480億光年)や観世音菩薩(観無量寿経、約百兆光年)がいる。


 ゼロの数を見てお分かりいただける通り、シュリよりもギガの方がサイズ変化の幅が大きい。

 シュリでミリメートル以下がほとんど見られないのは、そのスケールで何が見えるかを知っている・想像できる描き手が少なく、また知っていたとしても、縮小人間の視界に「美少女らしさ」のあるものが映らなくなるからでもある。美少女の細胞一個一個を描いたとして、「1ナノメートルの視界」と「1ピコメートルの視界」を官能的に・・・・描き分けることができるだろうか? そのスケールでもなお美少女の存在を感じさせようとするなら、「細胞の擬人化」のようなくりこみを行うか(実際、うる氏の短編漫画群はふたなりヒロインの精子でそれをしている)、もう一人「縮小された美少女」を登場させて新しく倍率の基準とする、いわゆる「多段シチュ」を使うことになるだろう。

 ギガで数字が際限なく増えていくのは、シュリに比べて天体スケールの現象はよく知られていることに加え、そもそも数字が増していくこと自体が人間に快感を引き起こすから、という理由もあるだろう。大きな空間や長い時間を想像した時に時折起こる、ふと遠いどこかに引き込まれるような感覚は、性的絶頂の直前に起こる感覚と非常によく似ていると私は思っている。

各論

時間感覚の変化

 本川達雄『ゾウの時間、ネズミの時間』[5]では、生物は体の大きさによって代謝の速度が異なり、その結果、感じている時間感覚も異なるはずだという提案がなされた。このような体のサイズと他の様々な生理現象との関係をアロメトリーと呼ぶが、この発想がサイズフェチに持ち込まれることが稀にある。つまり、小さい人間は巨大娘に比べて短い時間で生理機能が働くため、思考や感覚が速く、従って巨大娘の動きが緩慢に見えるはずだというものだ。具体的なシチュエーションには、元の大きさに戻してもらうまでの時間を長く感じたり、小さい人間の文明の栄枯盛衰を巨大娘が観察したりするというものがある。私は個人的にはこのようなシチュエーションを好まない。

 カントによれば時間とは内的感官の形式であり、対して空間は外的感官の形式である。せっかく過剰にした外界を、内に取り込む時に時間的に引き延ばすと「出来事の密度が薄まる」ような気がする。逆に一つの動作をゆっくり時間をかけて鑑賞するのが好ましいという立場もあるだろうが、人間は変化しないものを認識できない生き物で、同じ動作を延々と鑑賞することで得られる興奮には限界があるだろう(放置プレイが数少ない例外に見えるが、これはむしろ外界からの刺激が変わらないことによって内的に変化が起こるという予感から興奮を得るものであろう)。アロメトリーフェチ当事者によるさらなる議論を待ちたい。

ただし、アロメトリーにおいて基本となる事実である「体長の異なる二種の生物を比べた時、表面積の倍率は体長の倍率の二乗に、体積と体重の倍率は身長の倍率の三乗に概ね比例する」ということはサイズフェチなら(たぶん)誰でも知っていて、「身長が10倍になれば体重は1000倍」のような計算を瞬時にできる。

縮小の手段

 人間の体を小さくする手段として、ビームと薬物が二大定番である。薬物は滴下するタイプと飲ませるタイプがあるが、いずれもシチュエーションや体勢が制限されるから、ビームの方が使い勝手がよい。しかし薬物にはこの不便さゆえの生々しさというものもある。

構図と流れ、そして死という特異点

 サイズフェチ絵には常に「顔と足を一枚の絵にバランスよく収めることと、実用的な迫力や臨場感を出すこととが両立できない」という困難が付きまとう。フェティシズムはバランスが崩れていてこそだが、バランスを崩すと万人受けせず数字が上がらない。私には、サイズ絵を垢抜けさせるより、全ての一般人をサイズ沼に引き込む方がまだ容易く思える。人は誰しも、生殖適齢期の女性の数分の一から数十分の一の体長であった頃があるのだから。

 またそもそも、サイズフェチは一枚絵と相性が悪い。サイズフェチの核心の一つは。シュリでもギガでも、人間関係や物体構造の変化を予期して楽しむことにあるからだ(物体構造の変化とは、つまり破壊のことだ)。時間の経過を導入する、つまりテキストを入れるか複数ページにして初めて完成するジャンルだとさえ思っている。

 さらに、時間の経過を導入したところで、サイズ絵に特有の困難がまだある。それは、人は自身の死を想像できないにもかかわらず、小さい方が死ぬ過程を高解像度できっちり描いてもらいたがるということだ。「死んだ後の姿」では物足りないという点が他の猟奇ジャンルと異なる。Awareの場合は特に、このような「死の瞬間へとどれほど肉薄できるか」という挑戦を迫られることが多い。「巨大娘にゆっくり体重をかけられて死ぬ」というシチュエーションでは、珍しい拷問器具や派手な絶叫で誤魔化すこともできないのだ。

 巨大娘がえっちであるということは、つまり死がえっちであるということだ。死を予感させなければ巨大娘はえっちではない。死の最も原初的な形を、糖衣にくるんだものが巨大娘。そして実は、尋常のセックスだろうとオナニーだろうと、全てのものは死を予感させなければえっちではない。

まとめ

 まとめよう。サイズフェチは日常の過剰享受を旨とするシュリと日常の破壊を旨とするギガに大別され、プレイの面では圧迫・被食・汚穢から構成される。バリエーションの飽和を打破するために巨大娘と視点人物の関係を丁寧に描くことが求められている。

宣伝:それなのにギガ小説

 私もサイズフェチ小説を書いている。『ポケットモンスターSPECIAL』ブラック2・ホワイト2編のファイツが、ポケウッド映画「OL・ザ・ジャイアント」に出た時の話だ。


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[1] 鳥山仁、嵯峨翡峰『巨大娘研究』、三和出版、2012
[2] ササキバラ・ゴウ『〈美少女〉の現代史』、講談社、2004
[3] 航空自衛隊「御前崎分屯基地 公式キャラクター紹介」、https://www.mod.go.jp/asdf/omaezaki/1/kichishoukai/index2.html 、2023年6月3日閲覧
[4] 珪素『異修羅』、カクヨム、2023年2月18日更新、https://kakuyomu.jp/works/1177354054882641261 、2023年6月3日閲覧
[5] 本川達雄『ゾウの時間、ネズミの時間』、中央公論新社、1992


〈以上〉


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