他人の視線の中でしか存在することを許されない。「EYE」

二回目の生ゲーム会が終わった。今回も遊んでみておもしろかった色々な海外インディーゲームを紹介した。

スマブラの発売日に桜井さんを雑にトリミングしたサムネのゲームを紹介したり(しかも起動するとプレステのロゴが出てくる混乱っぷり)、


たぶん友達と作ったあまりにも個人的な実写取り込みアクションをやったり、


変な日本語を無数に読んだり、


ムンクの叫びでボーリングしたり、


ドーナツ屋でスクラッチをしたり、


おばけに囲まれて全てをあきらめたり、


空飛ぶピアノで盛り上がったり、


コインの裏表を予想してもらって当たった人にチョコをあげたり、


アンコールに答えてまたスクラッチを削ったりした。


他にも色々紹介した。お客さんもすごく盛り上がってくれてめちゃくちゃ楽しかった(写真も楽しそうだなー)。去年まではただ自宅でアニメーションを作ってる人だったけど今年はイベントをたくさんやった。年内最後のイベントが終わって、少し思ったことをツイートした。

社会になるな。ツイートしてからこの言いかたで合っていたのかずっと考えていた。そして自分の言葉の意味を考える中でその答えに対応するようなゲームと出会い、また自分はゲームに助けられることになる。


「EYE」

見た目は2階調のシンプルな2Dアクションで左右移動とジャンプ、アクションを起こすボタンがあるだけ。ジャンプがちょっと高すぎるな、という部分が気になるだけで最初の部屋のグラフィックはとてもキュート。


しかしマンションから出ようとすると激しい音と共にドアが閉ざされ、反対側の怪しく光る方へ行くと突如巨大な目玉が出現する。近づくと視界を表す円が出現しその交差する領域に「常に視界の中にいろ」という文字が現れる。これがこのゲームの核となる強烈なメッセージでありゲーム性の全てを表す言葉になっている。


「EYE」の主人公は目玉から出る視界の中でしか生きることができない。すこしでもはずれたり高いジャンプで飛び出すと即座に存在が消えてしまう。だが視界の中にいるときは何かを噂するような不快なひそひそ声がずっと聞こえる。人目の中が唯一の安全地帯だが同時にその中はとてつもなく窮屈で不愉快な空間だ。


途中、視界をはずれた所にポツンと出口が見える。


しかしこのドアにはどうやってもたどりつけ無い。視界の向こう側にはどうしても進むことができない。別の世界へ行こうと他人の目からはずれた瞬間に自分の存在が消滅する。こうして「EYE」は人目の中で生きること以外に余儀がないことをプレイヤーに入念に刷り込み続ける。


後半になるとプレイヤーの姿は完全に見えなくなり目玉の動きだけでその存在を追わざるを得なくなる。他人の目線を気にすることでしか自分がいることを感じられない。主観と客観、このゲームが表しているのは紛れもなく自己と社会の関係についてだ。そして最後に出てくる一文は、心底から絞り出されたような悟りを帯びた声だった。


たくさんの目玉がどこにいても私を追いかけ続ける。それは私なのだ。私はずっと、私自身を見続けていたのだ

ぎゅっと胸を掴まれるようなメッセージ。チャットで誰かが「だから主人公に目が描かれていないんですね」といった。「EYE」の凄まじさはまさにそういう部分にある。とてつもなく複雑な主題をシンプルな2Dアクションの中で深く雄弁に語っている。少ない要素ですべてを成立させ張りつめた緊張感があるが全く無駄なくメッセージが響いてくる。鬼のように優れたゲームデザインで遊んでいてもしっかりおもしろい。プレイ感覚は不健康だが「EYE」は嘆息するほど良いゲームだ。


(冒頭、長い雑談が入ります。28:38秒くらいからゲーム)



イベントのあとに「社会になるな」とツイートしたのはまさにここで描かれていたようなことを恐れていたからだと思う

自分がイベントをやってみて、そこがとても親しみやすい空間であることに気づいた。見たことのないゲームに一緒に驚き、笑い、感心する。周りの人のほとんどがチャット欄で見たことある名前を隠し持っていてそれを明かされた時に「あー!あなたが!」とぐっと親近感が湧く。

それはとても楽しいことでもあるけど関係が出来ることで新しい窮屈さが発生することがある。社会が出来ることでそこから逃れられなくなる人、そこに息苦しさを覚える人、そこを外側から見て疎外感を感じる人。

インディーゲームに強烈に魅了されているのは何からも完全に自由であるその佇まいが大きい。普段の生活で感じている圧力とか自分のコンプレックスとか性差やその他からゲームを見ている間は解放されていて欲しい。

言葉足らずになってしまったが自分が伝えたかったのは「社会に近いものを形成してしまったとしてもいつでもそこから離れることができるようにしてください」「社会を外側から眺めることになっても寂しさを感じる必要はないです」ということだった。

誰かと話して親しくなってもいい。でもこの場ではいつでも一人でいることを選択できるし、それがちゃんと肯定されている空間だと認識してほしかった。(こんなことを考えるのは多分に神経質だとも思うけど、自分がイベントを主催していると一人で行くのが不安だとか人見知りでいけないとか素性がバレたくないとか、様々な屈託や臆面の声を聞くことになる。この屈託や臆面を無視することは自分がインディーゲームを探す行為と真逆の行いに思えて通り過ぎることができなかった)

そもそも自分自身がアニメーション作家でありながら映像業界のどの界隈にも属さず(属せず)なんの社交も使わぬ得手勝手な場所にいる。ゲーム会で喋るのも物販をするのも誰にも手伝ってもらわず全部一人でやっているのは自分がその場で一人の個でいたいから。来てくれた人と純粋な点と点として接したい。こないだのイベントでは友達の席が偶然近くなってしまって少し内輪っぽい空気が出てしまったけどそれは全然本意じゃない。

何度もイベントに足を運んでくれる人とたまに来てくれる人と初めて訪れてくれる人がいて個々に対する情報にグラデーションはあるけど、誰とも均等に親しくない。でも全員に来てくれたことに対する大きな感謝がある。来てくれて嬉しい。興味をもってくれてありがたい。自分はとても勝手な人間だけど親しみと馴れ馴れしさをはき違えないように注意してるつもり。

生活のある各々が様々な場所から個として集まり、同じ屋根の下で空飛ぶピアノを見て大盛り上がりしたり、おばけの出現に声を潜めたり、スクラッチの結果(セックスアピールって文字が書かれた知らない男達の写真)に笑いながら拍手したりして背負いこんだものをひと時忘れまた生活に戻っていく。窓から大きな月が見えたから外に出てみたら近所の人もみんな出てきて月を眺めていた…いつもイメージしているのはそういう光景でそういうことにどうしようもなく温かさを感じる。もちろん、そこで交わされる言葉や笑顔があればそれはとても素敵なことだ。


来てくれる人達、いつも盛り上げてくれてとても助かっています。お礼を言います。そこには同じものを好きな人たちと一緒にいる嬉しさが混じっていることもちゃんとわかっています。ありがとう。なかなか僕に話しかけられない人やイベントに来る勇気が出ない人。興味を持ってくれて嬉しいです。イベントといってもいつも通りただ僕が一人でゲームをしてるだけの気安いものです。無理せず気持ちのタイミングが合えば近づいてきてください。次は2月だ、とても寒いことだろう。





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