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文字書きワードパレット 10.ベルスーズ 〈子守唄〉

望月(オルフェウス)&オフィーリア

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〈子守唄〉

 夢のなか、水龍の娘・オフィーリアは確かに聴いた。苦しいほど息を詰めた女の歌声を。オフィーリアは、鼻腔に残るかすかな葡萄酒の香りに酔いしれつつ、ほの明るい森の小道を歩いていた。起立する二本の脚を有することも、何ら不思議に思わなかった。そう意識すると逆に、なぜ不思議に思わないといけないのかが引っかかるのだった。だが思考の扉には鍵がかけられ、深く考えるのを止められている。深く考えたいとも思わない。彼女自身にこの状況を夢のなかだと断定するはっきりとした意識はなかったが、眠れる生体兵器として塔に幽閉されているはずの己がなぜ森のなかなどに居るのかと訝しむこともなかった。そこに在る時間と空間、存在を疑いもなく享受するのと同じように、今の彼女にとって、無人の自然の只中をほろ酔いで歩いているのは否定しようもない真実だった。

 ふと気がつくとどことも知れぬ山奥のひっそりとした水辺に辿り着いていた。見たこともない場所だ。枯淡というよりは深遠な彩りの隠れ処。自然形成されたと思しき小さな洞窟があり、オフィーリアはそのすぐ傍に佇んでいた。何者かに呼ばれるように、その入り口へ足を踏み入れる。そこで、唄を聴いたのだ。

 巌に旋律が反響して、多重化した音響の幔幕が目に視える。高貴な者の寝室を想起させる、たっぷりとした厚い生地の重なり。唄によって織り成される音響のカーテンは、まるで天蓋付きのベッドが鎮座するかのような幻想を抱かせる。ごつごつした岩肌にクリーム色の滑らかな質感が投影される。水辺の歌声で連想されるのは異国に古来より伝わりし妖女の伝説だが、オフィーリアには、女が怪物ではなく龍であることがわかっていた。それはひとつに、彼女の唄の所々に、龍族にのみ発声可能な、音価に示し難い独自の発音が織り交ぜられていたからだ。オフィーリア自身も経験的に、異種族には再現不可能な声域があることを知っている。ふたつめに、この溟い洞窟に棲む彼女に対して、なぜか姉妹のような、圧倒的な親近感をおぼえたためであった。なんにせよ、陶酔に溺れさせるような感覚は幻覚に近く、しかもその質は格式高く、このような業をなせるのは龍以外に無いだろうと、彼女は思ったのだ。

「ユリディス!」叫びに似た呼び声が唄に重なる。オフィーリアが立っていたところの対岸から、男が碧い湖を洞窟に向かって水を蹴り蹴り歩んでくる。男の左肩から胸近くまでは真っ赤に割れ、赤よりむしろ黒に近い血液の迸りが、一歩進むごとに溢れて、ひとかたまりずつ水底に沈んでいた。湖の碧さを濁しながら男は懸命に名を呼ぶ。歌声の主を探しているのだとオフィーリアは不思議な夢の道理で確信したが、彼にだけはその唄が聴こえていないのか、洞窟の岩壁に光の線として浮かび上がる悲しげな表情をした彼女の前を素通りしていく。

 幽霊の彼女がその寂しい眼差しを、遠ざかる男の傷ついた背中から、ゆっくりとこちらに向けた。オフィーリアは視線にすべてを絡めとられ、首を絞められたように何も言うことができず、目をそらすこともできなかった。呼吸さえままならずに、熱い涙が次々と顎まで伝うのを、流れるままにするしかなかった。

 頭痛とも眠気ともとれぬ、重い靄のかかった意識。奇妙な幻想と血に塗れた彩りの夢から醒めたオフィーリアは、毛布のような、降り積もった雪のような、あるいは分厚い雲のような倦怠を精一杯押し上げて目を開いてみた。すると、飲み過ぎた朝、いやとうに昼に近い明るさが窓辺から射し込んでいることがわかった。シーツを蹴り懶惰に投げ出された自分の脚を眺めて、彼女は、まだ夢を見ているのかしら、とぼんやり考えた。遠退いていた聴覚が一瞬にして意識の最前面に配置され、玄関の戸が大きく叩かれているのを察知する。ふらつきながら玄関に向かうと、木製の戸が叩かれるリズムに合わせて、冗談みたいによくしなっていた。思わず噴き出す。まるで元気に跳ね回る魚だ。

 戸の向こう側に居るのがどんなひと“たち”かをオフィーリアはよく知っている。戸を開け外気が吹き込むと、天井を這う剥き出しの配管にくくりつけた鐘鈴が揺れた。ガラス製の風鈴は元々小さな罅とともに端が欠けている。露天商になかば無理矢理売りつけられて半額の半額以下まで負かしてやったあげく購入したのだが、いざつり下げてみると、その高く澄んだ音の美しさに心が洗われたものだ。

「おはよう、ゴールデンさん。扉が真っ二つになる前に起きられてよかった」

 さて、いつものように私服警官がふたり立っている。開口一番、挨拶も無しに正面に立つ警官がいつもよりずっと険しい顔をめいっぱい顰め、我慢の限界とばかりに傍に控える相棒へがなりたてた。

「ほうらな! やっぱり寝てやがった。いい気なもんだ。くずどもはまともになる気なぞこれっぽっちも無いのさ、だからいつまでもごみくずのままってわけだ。こいつらの生活の面倒をみてやるのが俺たちの仕事? 冗談。手当だって出やしねえ。俺ァもうやだ、くずの棲家に足を踏み入れるなんて金輪際まっぴらさね──」

「では、後は私が。オフィーリア、所持品検査だ。玄関の戸は開けたままで。電気をつけなさい。まずキッチンの戸棚から」

 ゴールデン氏が不機嫌そうに引き返していき、道路脇に停めた車体にもたれ煙草に火をつけた。真っ赤なさくらんぼのように可愛らしい覆面パトカーにいかつい私服警官がふたり並んで乗ってやってくるさまを想像すると、ほんのり笑えてくる。

 散らかった廊下の物を跨ぎつつ、オフィーリアは演技がかったしぐさで肩を竦める。

「まったく仰る通りだわ」

「一軒前の荒くれ者の部屋でヤクを取り締まったら掴みかかられてな、あの鼻の引っ掻き傷、見たろ」

「だからといって職務放棄は警官失格じゃなくて?」

「ああ」

 同僚の怠慢をさらりと肯定する若き警官に対して、オフィーリアの仲間内でも少なからぬ者が心を開きつつあった。この土地の風土は警察官の鋼の正義さえもトマトのように煮崩してチーズのように柔らかくとろけさせる、放埒な魅惑を放っている。誘惑に揺らがず理性的で、かといって道を外れた自分達を否定しない彼を、少年少女は親しみを込めてファースト・ネームで呼ぶ。

 警官を台所においたまま、再度開け放しの寝室のベッドに横になると、スプリングのきしむ音が部屋中に響いた。床もぎしぎしと鳴る。安い賃貸だから仕方がないといえば仕方がない。かといって、豪奢な部屋に住まいたいという欲求はオフィーリアには無いのだった。

「すこしだらけすぎじゃないか?」

 警官らしい規律正しさを感じさせる声。食器が触れ合う音を聞くに、どうやら洗い物やら食材やらで不安定な小山を形成しているテーブルの上を片付けてくれているらしい。

「だらけることができて満足。大丈夫、自分のことは自分でできるし、ずっとこのままでいるわけじゃないから。そうね、どうしても理由をつけるとしたら、あえてこういう気だるい雰囲気を感じていたい、といったところ。檻の中は、自由やリラックスとは程遠い生活だったもの……」

 せつなげに装った声も「自業自得だろ」とぴしゃりと返される。

「オフィーリア。オーブンが温まっているようだが」

「あ、そういえば寝る前にミートパイを焼いたんだわ。飲みながら勢いまかせで。キッチンドランカーってやつね」

「それはいいが、酔っ払いで料理なんかして火事を起こすなよ」

 世話焼きな兄のようなお節介ぶりで、このパイは一体どうするんだと男がキッチンから尋ねた。どうするってなあに、とオフィーリアが返すと盛大な溜め息が聞こえた。何を考えて作ったのか、何も考えていなかったのであろうが、男が鉄板ごと持って見せてくれたパイは、どう考えてもひとりで食べるには大きすぎるのだった。

「せっかくだからお裾分けするわ、巡査さん。あのこわい顔の上司様とご一緒に召し上がって」

「俺にはユリディスの用意してくれた弁当があるんだがな」

「自分で料理できるんじゃなかった? 奥さんを悲しませちゃだめよ。残さず食べてね、あなた」

 男が鬱陶しそうな顔をしてキッチンへ戻っていくので、オフィーリアは愉快でげらげら笑い転げた。その後は、しんとした静寂が訪れる。彼女は、ふと不良仲間達が呼ぶようにして男の名をどうしても呼びたくなり、しかし彼がふだん公的に用いている本名と掛け離れた“通称”がどんな名だったか、なぜか思い出せないのだった。確か重大なわけがあったはずだと思った。その名を呼んでいた自分の存在が、ひどく遠いものに感じられる。距離的、物理的な遠さではない、言うなれば夢と現実のような、どうしようもない世界の隔絶だ。だから、彼女は“なぜか呼び慣れない”男の名を呟くしかなかった。

「オルフェウス……」

 数秒の間、時が止まった感覚がその場に満ちる。男が「……なんだ?」と応えた瞬間、時間停止の魔法は解け、先程の奇妙な世界と己の境界的ずれの感覚も消えて、オフィーリアは心底安堵した。

「もう行くの?」

「ああ。外で“こわい顔の上司”が苛々しながら待ってる、こいつで機嫌をとってやるよ。ワインも、飲むなとは言わんが程々にな」

「あなた、昔はやんちゃ者だったタイプね。学校も行かず改造車に乗って賭け事をして、お酒も煙草も当然やってたでしょ? だから見逃してくれるんだわ。わたしだけじゃない。ジョーイもリタも言ってたわ、オルフェはヤクとマワシとバラシ以外は目を瞑ってくれる、むしろ煙草の火を貸してくれる良いヤツだって。そうよね? きっとあなたって、若い頃親身になってくれた警官に憧れて、心機一転、自分を変えてくれた警官みたくなるために、荒れてる若者に対して寛容な理解者的立場であろうとしてるってわけ」

「勝手に言ってろ、酔っ払いめ」

 あえてそっけなく振る舞うような声。パイを包む クッキングペーパーの硬質な響きが耳に心地よく感じられることに、彼女はふと気付く。言葉にできない違和感を拭う代わりに耳朶に手をやってみる。行きつけの雑貨屋で購入したばかりのイヤリングの、つるりとした感触が指先に触れた。なぜか鮮明に、映画でも観ているかのようにくっきりとした映像が、オフィーリアの脳裏に浮かんだ。軍服を着た男が膝をつき、瓦礫を掻き分けてこちらを見下ろしている光景。大爆発でもあったのか、そこらじゅうで火の手が上がっている。轟々と暴れる猛烈な嵐──嵐ではない、彼の背景を勇壮に舞う龍たちの吐き出す炎が、猛烈な旋風となって空を真っ赤に灼いているのだった。そして、騒音で聴こえないはずの低い囁き。

〈──大丈夫か。オフィーリア〉

 男にも、“耳”が無かった。

 彼女は先程醒めたばかりなのに既に霞の向こうへ消えかかっている夢の断片を手繰り寄せた。自分は水龍だった、なぜか今と同じに脚が生えてはいたが。洞窟で仲間の歌声を聴き惹きつけられたのだ──そう、でもその唄を“耳”で聴いてはいなかった。とがった吻にくるんと丸まった尾っぽがかわいい、シーホースの別名はタツノオトシゴ。夢の世界では、かれらは海に落ちた龍の耳からうまれるのが当たり前だった。わたしの耳も彼の耳も、くるんと丸まってぷくぷく泡を吐く生き物に成ったんだ……わたしたちは声なき声を、声なき唄を聴く。なのになぜあの時、あのひとには悲痛な歌声が聴こえていなかったのだろう?

 夢を回想するにしたがい、しばし視界を支配していた映像は薄れ、官能は徐々に現実へ復帰した。と彼女には感じられたが、実際、どちらが夢でどちらが現実なのかわからない不安な感覚は、心のどこかで持続していた。顔に熱風を受けたときの息苦しさ、軍服にしみついた硝煙のにおい、炎に炙られた瓦礫のひりひりとした熱気、握った拳のなかに滲む汗。生々しい感覚がありありと残りすぎている。

 彼女はそれを二日酔いの頭痛にみせかけるため、また自分自身にもそう思い込ませようと、いっそうぐうたらにベッドの上で溶けてみせた。パイを包み終えた男がその様子を呆れて見ていた。オフィーリアは急に猛烈な羞恥心におそわれ、動揺を見破られまいとシーツを蹴り上げ、わざと埃を舞い立たせた。

「ねえ、仕事は遅くまでかかるの?」

「……さあな。何も無ければ日が暮れる頃には上がれると思うが。マーケットを単車で爆走して魚屋の主人に通報される不良娘が居なければな」

「誰のこと? それよかまたドライブに連れていってよ、海が見たいの。美味しいパスタのお店に寄って、海辺で貝殻を拾って帰るわ」

「あれはドライブじゃないと何回言ったらわかるんだ。両隣に警官が居たろう」

「観察期間中ってほんとに四六時中監視されるのね、昨日もスーツを着た女の警官が来たわよ、コホン……“学校へ行くなり仕事するなりして、ちゃんと真面目に生活する気はあるんでしょうね!?” ですって。ほんと、窮屈よ、窮屈で仕方ないわ」

「おそらくその人は警官じゃなくて観察官だな……けどそれが大人の勤めってもんだ。おまえたちみたいな若いのが多くてお偉方は皆頭を悩ませてるよ。パトロールついでに問題児たちのお守りをしてこいなんて指令が下るくらいだ、相当参ってるんだろうぜ」

「ふん、いい気味」


 いいか、交通違反は言うまでもないが、くれぐれもマフィアなんかと連むんじゃないぞ。知らない奴から何も受け取るな。遊ぶ金欲しさに身を切り売りするな。そんなことをするくらいだったら俺達のところに来い、きっと力になるから……最後に口を酸っぱくしてまくしたて、熱血警官はようやく気が済んだらしかった。相変わらずオフィーリアはベッドでゴロゴロしている。お説教を聞いているうちに再び眠くなってきた。

「ありがとねー」

 目を閉じたまま、へべれけに礼を言うと、立ち去りかけた男の柔らかな気配が一旦こちらを向いたのがわかった。自分でも、思った以上に幸福そうな声色だったので驚いた。「ミートパイ、ごちそうさん」という言葉を残し、彼は今度こそ出ていく。

 カーテンを膨らませる晩夏の風が、薄いレースの生地を押し広げて室内へ溢れるように流れ込む。安物のベッドの上から垣間見える青空に真っ白な雲が映えていた。手を伸ばせば届きそうな眩しい青から、どこか懐かしい時代の香りがするような気がした。儚い季節の終わりを感じとる。そう、手を伸ばすことができる。美しいと感じたものすべてに。

 ──窓から入ってくる銀色の風みたいなひと。

 玄関の風鈴を鳴らして出て行った男のことを思う。風に吹かれ、オフィーリアの金色の髪が、先程舞い上げた埃にきらきらと反射する光を求めるかのように、ふわりともちあがる。

 ──ねえ、わたし、あなたが知らないあなたの奥さんに逢ったわ。

 そう告げたならば男はどんな顔をするだろうか。自分はまだ眠ったまま夢を見ているのだな、とオフィーリアは結論づけた。


(画像提供:Pixabay)

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解説という名の野暮

 現実世界で何らかの戦争状況におかれたオフィーリアが、霞む意識のなか見た夢の出来事。そこでは彼女は水龍ではなく二本脚の下半身をもち、南方の土地で遊び暮らしている。望月(オルフェウス)は、その街の警察官として登場する。〈夢のなかで見る夢〉=幽界の入り口には、子守歌を唄う亡き女の姿。

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