意志を纏う。服を選べない彼女のこと(memo_12)

先日、彼氏の好みの服しか着られなくなった女の子に会った。

彼女は年下の友人で、大学院時代に知り合った。以前は黒っぽくて少しギャル味のある服装がよく似合っていた子だった。黒いブルゾンを羽織って、スキニージーンズに、シャープな印象のヒールを履きこなしていた。脚に綺麗な筋肉のついた彼女は本当にそれらの服を「着こなしている」という感じだったことをよく覚えている。

久しぶりに再会した彼女は、真っ白なふわふわのスカートに、白いリボンがあしらわれた麦わら帽子をかぶっていた。トップスは甘めのピンクのオフショルダー。

それはそれでとても可愛い服だった。でも、最初から違和感があった。服の趣味が変わったのかも……それにしても前の方が似合っていた気がするけど……でも人の趣味をどうこう言う資格は私には無いしな……。などとぐるぐる考えつつも、あっけなくお酒の勢いでツルッと言ってしまった。

「服の趣味、変わった?」

すると彼女は堰を切ったように、話し出したのだ。

本当は今の服装が全く趣味じゃないこと、甘めの服装が好きな彼氏が彼女の趣味を咎めること、彼氏は自分の好みの服をしばしば彼女に贈ってくること、彼氏に負い目があって逆らうのが怖いこと、彼氏の趣味に従いつつもそれらをせめてファストファッションで揃えるの(高いお金をかけないこと)が自分のなけなしの矜持であったこと、でも本当は好きな服が着たいこと。

そして、気づいてくれて嬉しいと彼女は言っていた。それは、もしかしたら気遣い屋の彼女の配慮だったのかもしれないけど、なんとなく私には本気の言葉に聞こえた。


自分が纏うものには自分の生き方が現れると言ってもあんまり間違ってないんじゃないかな、と思っている。

私はファッションの専門家でもなければ、すごくセンスが良いとかってわけでもない。でも、一人の30歳の大人として知っている。纏うものは、私に力を与えてくれること、纏うものには私自身の意志が反映されること。

たった一本の口紅が、背筋を伸ばして街を歩く勇気をくれるように、好きな服を着ることは、好きな自分へのまぁまぁな近道だ。


纏うものの力を実感するのは、好きな服を着ているときばかりじゃない。

私は僧侶なので、ときには法衣を纏うことがある。法衣姿の私に、すれ違う人は視線を寄越してくるし(それは女性僧侶だからってこともあるけど)、ときには手を合わせる人もいる。でも、それは私個人に対しての視線や敬意だと勘違いしてはいけないのだ。決して。

衣というものが力を持っているだけ。衣に宿る歴史、思想、伝統、意志、願い……それらに対しての視線や敬意であることを忘れてはいけない。


本題に戻るが、それだけ私たちが纏うものというのは、力を持つ場合があるのだ。

纏うものだけに限らない。言葉もそうだ。私たちは、自分の発した言葉に、想像以上に影響を受けていると思う。自分の思いもよらない言葉で、自分自身を規定してしまうことだってある。

とても身近な例で言えば「どうせ私は……」である。本当にそうは思っていなくても、何度も何度もその言葉を繰り返すうち、やがて「どうせ私は……」という小さな箱のなかに閉じ込められて、気づけば身動きひとつ取れなくなっているのだ。

私を規定するのは、私自身である場合はとても多い。もちろん、外的要因がそうさせるのだけど。

外的な環境を改善していくことも必要だし、それはときに「社会」という大きな相手だったりすることも多くて、なかなか手強いのだけど、でも、まず外のことは忘れて、自分自身の思い込みから自分を解放しようとすることもきっと大切なのだと思う。

私の人生を、私の代わりに生きてくれる人なんてどこにもいない。どんなに自分を愛してくれる人だって、間違いなく「他者」なのだ。日本人は(という十把一絡げにすんのは好きじゃないけど)、特に自分と他者との境界線が曖昧になりやすい人が多いと思う。なにしろ私自身がそうなのだ。

だから、好きな服が着られなくなった彼女の気持ちはとてもよくわかった。その沼から抜け出せない気持ちもよくわかった。けれど、以前に比べて「楽しいことなどひとつもない」という顔をした彼女を見ているうちに、私はとうとう我慢ができなくなって、自分のことを棚に上げて言ってしまった。

「ズボン買わない?クールな感じのやつ」
「じゃないと、だめだよ」

彼女は大きく首を縦に振った。

一緒にショッピングモールを歩いていろんなお店に立ち寄るうちにわかったことは、彼女が服の選び方を忘れているということだった。確固とした「好きな服」の趣味を持っていたはずの彼女が。

自分がどんなお店に入って、どんな風に店内に目を配り、どんな服を手に取るのか、彼女は忘れてしまっていた。それは少し大げさな言い方をすれば、彼女が彼女自身を見失っている、ということにも思えた。

自分の100%好きな服をいつも着ているべき、ってことじゃない。自分の意志が反映された服を着ることは、私たちが普段思っている以上に大切なんじゃないかってことだ。

「私は、この自分で生きていく。今のところは」
これに納得できていればどんな服だっていいのだと思う。

彼女は、その日のうちに新しい服を選ぶことはできなかったけれど、近いうちに絶対に買うと言っていた。

どういう選択を彼女がするのかはわからない。でも、自分の納得できる服を着て、楽しげに街を歩くことのできる日が、彼女にやってくることを願ってやまない。


Photo by JJ Ying on Unsplash


この文章を読んで、「そんな彼氏別れろ!」と思う方もいらっしゃるだろうけど、今回のnoteの本題とは少しずれるので、そのへんは触れておりませぬ。


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海の見える街から(日々のmemo)

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