教育社会学者の育休日記♯15 「我が子のためにやれることすべてやる」対「自分たちも普通に育ってるんだから先のことを考えずいまを大事に」 ネントレに思うこと

「将来の我が子のため」、このフレーズほどパワフルなフレーズはなかなかないのではないだろうか。
一方で、そのための代償があまりにも大きく見えたり、耐えがたい体験を余儀なくされたり、本当に将来につながるのか?と思えたりするようなことは少なくない。
そんなとき問われるのは、果たして我が子への愛なのか、親としての覚悟なのか、はたまた人間の知恵なのか。


ちまたにはとてつもない量の育児メソッドが溢れていることを、育児し始めてから気づく。
本当にさまざまな体験談やら失敗談やらメリデメの紹介やら怒りの批判やら成功者の(ちょっと鼻につく)レビューなんかがSNSを中心にあがってる。
いやこれ広告やん!とか、上手くいった人が声を大にして成功体験を語る傾向がある(生存者バイアス)だろうから、「みんなやってる!」そして「やった人はみんなうまくいってる!」なんて思うのは控えよう、とか思ったりしながら何割くらいを間に受けるかはいい問題としつつも、情報の波にのまれているだけで疲れてくる。
一方で後から、「○ヶ月までが勝負!」なんて記事を発見してしまったら大いなる後悔と反省に飲み込まれるので、入ってくる情報を最低限みたり(いや、最低限などないのだが)、いまの時期に関連する情報にはそれなりに触れたいとも思う。
「検索魔」を自称する妻は、愛する我が子のためということで産まれる前からかなりの情報に触れてきており、本も買い、勉強してきているのでさらに情報の荒波にダイブし、揉まれながらも計画をたてながら、育児を進めている(尊敬)。

母乳育児にはじまり、セルフねんね、ネントレなど、さまざまのメソッドのなかには「将来の我が子のため」というフレーズを掲げながら、取り組むのはそう容易くないメソッドもたくさんある。



我が家では産まれる前から『フランス人の赤ちゃんは朝までひとりでぐっすり眠る』、『フランス人は子どもにふりまわされない』といった本を読みながら、我が子をできるだけ自律した存在として扱うことを大切にし、そのなかでは「一人で眠れる」ということも意識にあった。
産まれてから二ヶ月目に入り、そろそろ取り掛かるか、と思った昨日だった。


思った以上に苦しく、辛すぎる取り組みだった、というのが正直な感想である。

泣いてる我が子を部屋に残し、一人で寝れるよう見守る(正確には見もしない)。
泣いていればいつもならすぐにそばにいって抱き上げて、あやし、寝るまでの時間をあの手この手で演出するところ、「寝ないのは寂しいからではない」、「不快なことを取り除くことが親の役割」、「寝れなくて泣いてる時間、泣き疲れたら寝る」といったフレーズを頭に浮かべながら、じーっと耐える。
何分間も耐え、決めた時間が経っても泣いていたら数分だけ部屋に行ってトントン(抱っこは禁じられたりするメソッドもあるが、耐えきれず抱っこしてしまったり、、、)。
そしてまた部屋の外に出る、たとえどんなに大きな声で泣いていたとしても。

、、、辛すぎる。苦しすぎる。
おむつ交換が連続すること、抱っこしてもなかなか泣き止まないこと、寝れない我が子に付き添って寝れない夜を過ごすことの何十倍、何百倍も辛い時間がながれた。


メソッドに関する記事や投稿に目を通すと、そのことの辛さを十分に理解したうえで、やることの価値が大いに語られている。
我慢に我慢を重ね、約1時間程度泣いたり泣き止んだりを繰り返した結果、我が子は眠りについた。


果たしてこの時間はよかったのか、、、

頭に浮かぶのは「こんなことしなくたって我々親は元気に健やかに育ってきたじゃないか」、ということ。
それも事実。

一方で、このやり方によって豊かに育ち、今の睡眠はもちろん、数ヶ月後、数年後の子どもの睡眠と生活に大きな価値が生まれた事例がたくさんあるのも事実。


自分たちは大丈夫だったんだ、こんなに辛いことしなくたってきっとこの子も大丈夫、は、果たして我が子への愛故なのか、この状態を耐えられない自分たちを守るためだけの自己保身の決断なのか。あるいは「本当にこれだけの努力をして未来にとって意味があるのか?」という本質的問いに向き合うことからの逃避か。

一方で、「将来の我が子のため」というフレーズを掲げて、どんなに苦しくても辛くても、「いまは我慢」が、必ずしも正解とも限らない。我慢する取り組みの先には必ず成果がある、といっま努力信仰も自分には一切ない。
子どもによって特性があるし、向き不向きがあるはず。なにもやらなくても幸せに健やかに育ってる子はたくさんいるのも事実。
「やれることはなんでもやりたい」が本音だとしても、すべては不可能だとしたら厳密には自分たちの取捨選択があり、それは言い方を選ばなければ親のエゴなわけだ。


何が本当に、「将来の我が子のため」になるのかなんて、数年経ってみなければわからない。あるいは、数年経ったとて、その選択をしなかった未来を体験することは不可能な以上、その選択の寄与度は永久に計りえない。
これはおそらく子育ての本質と言えることだ。
(自分のことでもいろいろと悩むが、そんな悩みが本当にちっぽけだったと気づく)

きっとそんな決断を迫られることがこれから何百回、何千回とあるのだろう。


そのときに親として、我が子への愛、親としての覚悟、人間としての知恵を総動員して決断をしていこうと思うが、その末にも客観的な判断軸は存在しないだろうし、結局は決めて進み、結果に真摯に向き合い、また悩み、考えること、話し合うことをやめずに、歩んでいくことしかできないのだろう。


一晩経ってなんとなく思うことは、「我が子のためにやれることすべてやる」も「自分たちも普通にそだってるんだからいまを大事に」等しく思考停止なのではないか、ということ。
どちらかの極にたって、そのことを基準に全てを考えるのは、もはや「考える」という行為ではなく「判断」でしかない。
確かにそれは楽だし、間違わない。
おそらく一貫性は保たれて、その価値はあるのだろう。

ただ、そこに人間らしさはない。
人間らしさがないとしたら、感情や愛が薄れる一歩ともいえる。
心をなくした子育てが、子どものためにならないであろうことだけはわかる。


極に偏らず、悩み、考えることこそが、我が子への愛なのではないだろうか。
そうして、考え続けながら、我々らしいやり方を模索する、その営みこそが、きっと我が子への覚悟の示し方なのではないか。
その過程で、正解のない問いに対する数多の知識に触れ、試し、失敗もたくさん一緒にして、我々ならではの知恵を生成する。
その営みを、きっと子育てと呼ぶのだ。


人間としてのとてつもない成長機会を我が子にもらう人生がはじまったことを改めて認識した夜であった。

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