教育社会学者の育休日記♯12 我が子も大事、自分も大事、家族も大事

「きついからちょっと今日は代わってほしい」

この言葉を互いに言えることが、ママもパパも、自分らしく健全に、そしてそのことに一分の後ろめたさもなく過ごすこと、そのことをもって、我が子の健全で豊かで幸せな日々の育ちを支えていくことにつながっていくと感じる。

3人での生活が数日、一週間と経っていくと、リズムが生まれてくる。役割分担も緩やかに明確になってきて、互いの担当の家事、我が子と過ごす時間、一日の過ごし方が見えてくる。
我が家には何曜日のゴミ出しはどちら、食事はどちら、といった家事における役割分担やルールは存在しない。
そう決めることで合理化が進んだりストレスがなくなるかもしれないが、気づいたほうがやる、得意な方がやる、時間がある方がやる、でここまできている。
家事は二人で豊かな暮らしをつくるための手段。相手と自分、互いにとって気持ちの良い暮らしに想いを馳せること、そのことを通して相手の状況や、相手が何かをしてくれた思いに意識を向けることが大切だと考えている。
仕組み化は思考停止を生み、思考停止は感情の欠如につながり、暮らしの彩りを薄れさせていく。

そんな我が家においても、新生児の育児では互いの体力や寝る時間を思いそれなりに担当時間を決めざるを得なくなっていく。
「2人いるのに2人で一緒に我が子の寝かしつけをするのは、長距離バスに2人運転手が乗っているのに交代制をしいてないのと同じ」というクリティカルすぎる妻の指摘によって、特に夜は交代制となり、夜から夜中12時頃までを自分が担当し、夜中から朝までを妻が担当する(どう考えても妻の方が長い時間かつ、夜中から明け方に数時間に一度起きて授乳をするというきつさを思うと、交代制と呼ぶにはバランスが悪すぎるとは思っている、、、)。

役割が明確になってくると、自分が担う時間はしっかり担って、パートナーにバトンを渡したいと思うようになる。
その時間、我が子と2人、我が子の「生きる」および「健全な育ち」の全責任を担い、そのことに緊張感と誉れを感じながら過ごす。
その時間は大変なこともあるが、幸せな時間でもあり、自分の担当の時間が終わって妻に引き渡す際、それまでに何があったかを申し送るときには、ささやかな誇らしさや喜びがある。


ただ、常にそうできるとも限らない。
例えば寝不足のとき、例えば自分のコンディションがいまいちなとき。そして、理由はわからないけど我が子に穏やかな時間を届けられないとき。

そんなとき「きついからちょっと今日は代わってほしい」と言うのは、案外難しい。
少なとも自分にはハードルがあった。
なぜなら、妻はすでにたくさん頑張っている。そして自分は、目の前の我が子の世界でたった二人の親のうちの一人であるという責任がある、だから、担うべきだし、担いたいという信念がある。
でも、うまくいかないときはとことんうまくいかないし、相方が変わるだけで不思議なくらいうまくいくこともある。


だから、「きついからちょっと今日は代わってほしい」を言うことが大事なのだ。
肩肘張らず、三人の豊かな暮らしに意識を向けて、互いができる最善を尽くすこと。


昨夜、妻が「きついからちょっと今日は代わってほしい」と言ってきてくれた。
「もちろん」といってバトンを受け継ぎ、早朝から朝までを我が子とすごした。
そうして過ごす時間は、なぜかいつもより豊かだった。うつろな我が子にいろんな話をした。これからの暮らしのこと、妻と自分の2人がこれまでどんなふうに暮らしてきたかということ、大きくなったら一緒にしてみたいこと。目が閉じて眠ってるとわかりつつも、なんだか言葉が続いた。

そして朝、昨日はありがとう、と言ってきた妻に対して「きついからちょっと今日は代わってほしい」を言えることを、本当に素晴らしいことだと思ったと伝えた。

我が子は、我々二人のパートナーシップにも、新たな兆しをくれるのだ。


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