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戰蹟の栞(29)

濟南全景(つづき)

〔千佛山〕
 省城の南方に在り、往昔舜がこゝを耕したとかで舜耕山とも云ふが、それは神話の類と見るべきであらう。この山の中腹には隋の時代に創立した名刹興國寺が在る。山中の石崖に多數の佛像が彫刻してあるので、この山を千佛山と呼ぶに至った。この佛像は開皇の年號を遣ってゐるところを見れば、六朝藝術かも知れないが何時の頃かこれを塗料で修正したために、醜いものになって了った。この附近には漢、唐、宋、元、明の巨人碩學の祠宇、陵墓などが多く殘ってゐる。

〔黑虎泉(ヘイ・フゥ・ツゥアン)〕
 省城の東南隅南門外に在り、趵突泉に次いで有名な涌泉である。虎の口に眞似た三個の石彫りから湧き出る水は、水量が多く水質も好いので此の水邊到る處で婦人が洗濯してゐる。またこの附近で、太公望が例の直針の釣りをやったと傳へられ、太公望の祠宇が建てられてゐる。

〔ドライウ”・ウェー〕
 東門から城壁に上がってドライウ”・ウェーを北西行し、轉じて西行すればやがて滙波門の上に出る。更に一寸西行すれば北極廟に達する。この邊で水都濟南の全景及び城外平野を流るゝ小淸河などが一望に収められ、眼下には大明湖が見えて實に好い景色である。

〔大明湖〕
 周圍四五哩の歷史上有名な沼池である。唐の詩聖杜甫がこの湖の島に遊び「・・海右此亭古、濟南名士多・・」と誉めた歷下亭は何時の頃の建造物か判明しない。この湖の景色は蓮、眞菰、菱などがあって、澁いところが好い。畫舫の淸遊、卽ち船遊びは一寸面白い。湖畔には寺廟や有名な人の祠などが多く、李公祠と呼ばれる李鴻章の祠もある。
 北極廟、鐵公祠など淸遊に適する場所ではあるが特に書き立てるほどの事も無い。唯北極廟には支那各地の石摺りを賣ってゐるから、出征將士凱旋の際これを買って來られたら好いお土産にもなり、記念品にもなるであらう。しかし、その石摺りについては濟南在住の人でその方面のことを知った人に豫め相談されるが好い。夫れでないとつまらないものを高く賣付られて馬鹿を見る恐れがある。

〔風俗習慣〕濟南の風俗習慣は大體に於て山東省の風俗習慣を代表したもので、又他の支那各地のそれと似通ったところの多いことは云ふ迄も無い。この風俗習慣を知ることは支那を知る上に非常に役立つから、その中で最も主なる年中行事を記述することにする。

〔年中行事〕
 濟南で行はれる年中行事には大體次のやうなものがある。
(イ)正月は習慣上多く舊曆に従ふ、當日は線香蠟燭を點けて供物を供へ天の神や祖先を祀り、家人は互に壽を稱へ、親戚友人を訪ねて新年の挨拶を成し、正月三日は親戚友人を招き宴を張る習慣がある。
(ロ)上元節は舊曆正月の十五日に當る、市民は多く元宵(餡の入りたる圓形の菓子)を供へて神又は祖先を祀るを以て元宵節とも云ふ。當夜市民は各種の色彩提灯行列を始め、假装行列をなし市街は終夜爆竹を上げて賑はふ。又農民の間にはこの十三日から十七日の五日間が無風なれば豐年の吉兆なりとして喜ばれる。
(ハ)春龍節は舊曆二月二日にして灰を以て丸を繪き倉の形を作りて豐年を祝ふ。農民は當日龍が頭を揚げる日としてその年の風雨順調なることを祈る。
(ニ)淸明節は舊曆の三月節に當る。その前日は寒食節と云ひ民國四年に植樹節と定められた。當日は各團體が指定の場所に植樹し、造林を奬勵する。この三日間は市民の多くは墓參をなし、郊外散歩又は凧揚げをなす。
(ホ)佛浴日は毎年初夏の舊曆四月八日にして、釋迦の誕生を祝ひ、東嶽廟や北極廟は終日にぎはいを呈する。
(ヘ)端陽節は又端午節とも云はれ、舊曆五月の五日に鬼魔避けの符文を門に貼り、艾草で造った餅が知人の間に贈られる。又各家に在りては雄黄の酒を飲みその年の毒虫を避ける習慣がある。十三日は三國時代の關羽を祀り、當日は屢々雨天と成を以て關公が刀を磨く日とも偁せられる。
(ト)七夕日は舊の七月七日の夕に牛郎と織女の兩星が天の河で遇ふ日と俗に偁する。當夜婦女は多く祀物を供へて祈る。
(チ)中元節は舊曆七月十五日にして、市民は當日墓參をなし孤魂を超渡せしめる。
(リ)盂蘭盆會の舊曆七月三十日は各寺各廟に於て信者の淨財を募って紙船を作り、川邊に燈明を浮かべて紙船を焚き孤魂を超渡せしめる。當日は大明湖に遊ぶ人多く、湖水に遊ぶ最後の日としてにぎはふ。
(ヌ)仲秋節は舊曆八月十五日にして、月餅(節句の祭りに供へる菓子)や果物を供へ兎人形を飾りて月を祀り、家人は酒を飲んで月を觀賞する。
(ル)重陽節舊曆九月九日に菊餅を作り、登山を試みる。濟南では親戚知人を千佛山に招いて宴を張る者が多い。
(ヲ)小陽節は舊曆十月一日に當り、市民は墓參りをなす。俗に祖先に寒衣を送ると云ふ。
(ワ)臘八日は舊曆十二月八日にして、粟の粥に棗や蓮の實を混じて喰ふ、又慈善家はこの日貧民に粥を供養する。
(カ)祭灶日は舊曆十二月二十三日にして當夜は竈の神が昇天するを餞別せんとして飴等を供へ之を祀る。
(ヨ)除夕日は一年の最終日にして門口の張畫像を取換へ、新春の文句を書いた赤紙を張りめぐらして祖先の靈を迎へ、その夕方から爆竹を打上げ紙錢を焚き酒宴を設けて「辭歳」する。

〔靈峰泰山(タイ・シャン)〕
 泰山は津浦鐵道の泰安驛の眼前に展開せる平原に、巍然として高くそびえてゐる。泰安驛は濟南の南方四十五哩に在り、濟南から汽車で約二時間半かゝる。泰安驛前には中國旅行社經營の招待所があって、宿泊も出來、登山の世話もする。
 登山の第一線は泰廟であるが、この泰廟は泰安縣城内に在る。同縣城は泰山の南麓に位し、驛の東南二哩弱の地點にあり、人口は二萬で商業は相當賑はってゐる。此の地は先年の濟南事變の際、將介石が一時退却した處で驛から縣城までの間は商店が軒を並べ、旅客や土地の者の往來が頻繁である。例の南京豆卽ち落花生はこの附近が本場で、山東全産額の殆ど半分近くはこの方面から出る。従ってその出盛り時には泰安驛は落花生輸送のために設けられたかと思はれる位である。登山に先立ち泰廟の概略を説き、次で登山案内に移ることにしよう。

〔泰山由來〕
 支那の古い書物に「國を泰山の安きに置く」「山は泰山より大なるはなく、史も亦泰山より古きはなし」「義は泰山より重く、死は鴻毛より輕し」「泰山を挟んで北海を超ゆ」「泰山鳴動して鼠一匹」等々の句があるやうに、泰山は色々な場合に引合に出され、それが日本人の間にも耳慣れてゐる。支那では古代から歷代の皇帝が山嶽の神靈を祀ったので、五嶽と云ふ山の代表者が出來た。五嶽と云ふのは、山東の泰山、陝西の華山、河南の嵩山、湖南の衡山、山西の恒山で、その中でも泰山が最上級に置かれ、東、春、靑などに配して萬物の始めにして且つ生死を掌り運命を支配する神靈として最大の尊敬は拂はれたが、それだけではなく歷代の皇帝は山靈の祭靈を行ひ、また前の朝廷に代って新しく支那に君臨した皇帝は、泰山の神に奉公祭を行ふて始めて新政權が天下に認められと考へたものらしく、泰山の威力は非常なものであった。
 かように泰山を崇めたのは、古代の總ての民族がやったやうに、山川などの自然物崇拜の信仰心から来たもので、特に支那ではその地理的事情がこの信仰心をより多く持たせたのである。支那のやうに平野の打續く大陸に住んで見れば、つくづく自然力の偉大さを認めさせられる。例へば黄河や揚子江の氾濫について云へば日本の九州や四國位の面積が水の底に沈んで了ふ位のことは度々である。また黄河の水道は幾度も變化したが、新舊二つの河口の間が幾百里も隔たってゐると聞いたところで、法螺としか取らない人が多いであらうが、それが少しも大袈裟に云はれてゐるのではなく、全く事實であるから驚かざるを得ない。それを考えると、支那人が山嶽を崇拜する氣持ちが分かるであらう。

〔岱廟〕
 岱は泰である。岱廟は泰安縣城の西北隅に在り、泰山の神靈を祀る神殿である。現在の神殿は明代に改築されたものと傳へられる。廟は高さ三丈の城壁を繞らし、周圍は三支里の大きな構へであって六つの門が在る。南面の正門が嶽廟門で門内の廟庭内には老樹が茂って天を蔽ふてゐる。通路の南側には唐宋以下各時代の碑の林立せるを見る。續いて配天門仁安門を過ぐれば東嶽大帝を祀る峻極殿があり、その間口は九間奥行きは六間で、碧琉璃の瓦を以て葺いた宏壯な殿堂で、殿内の四壁には明代の名匠の手に成ったと傳へられる帝王封禪儀の圖がある。峻極殿の東に炳靈殿があり、殿前には漢の武帝の手植だと云ひ傳へられる漢柏が六株あり、また淸の乾隆帝の漢柏の圖碑もこゝにある。この西方に延禧殿があってその殿前には唐代に植ゑられたと云ふ唐槐がある。
 廟内の環詠亭は文人史家のために最も興味のあるところで、周圍の墻壁に歷代登山者の詩賦題記の石刻が百餘も嵌めてある。またこゝで見遁す可らざるものは秦碑の破片である。この破片は二つをセメントで繼ぎ合はせて一基とし、亭内の龕の中に納めてゐる。
 秦碑は秦の始皇が天下六ヶ所に自家の功德を頌すために建てた碑で、二世皇帝がこれまた補捉を加へたものである。その一つは泰山の絶頂に建てられ、當初は東嶽廟内にあったが、後には碧霞宮内に移され、約二千年間無事に保存され秦の篆書の模範として仰がれてゐたが、淸朝乾隆五年(西曆一七四〇年)火災に罹り砕けて了ったと思はれてゐたが、それから七十四年の後に到り、その破片が二個だけ、碧霞宮の側の玉女池の中から發見されたのである。

〔登山〕
 岱廟」に近い縣城の北門を出れば直ちに山道である。泰山は山麓から頂上まで四十支里だと云ふが、この四十支里は日本里に換算すれば七里弱になる。併しこれは山道を變に計算したもので、正味は二里餘に過ぎない。泰山を少し精密に見物するには山中に五、六泊しなければならない。また秦山及び附近の名所古蹟を一巡するには一ヶ月位かゝる。これは曆史家などの立場からのことであるが、普通の見物客は十時間位で一通り見て歸って來る。登山は轎車、卽ち駕籠に依るのであるが、この轎車は平地で用平らるゝ轎と全く異なり、藤の肘掛椅子の中央部兩側に長い棒を通したものである。
 兎も角、泰山は一度登山を試みるに充分價値あるところである。登山史蹟ならざるはなく、しかもその風光は絶妙、溪谷在り、瀑在り、尖刃の崖峡の美は筆舌のよくするところではない。しかもそのそゝり立つ岩板には摩崖と偁して、歷代皇帝の記銘、經書詩賦が刻まれてある。
 此の地の轎夫、卽ち駕籠かきは全部回々(フイフイ)教徒であって、彼等は宗教上から豚を厭ひ、豚と云ふ言葉を使ふことすら穢はしいとする位であるから、中食の爲に豚饅頭などを用意してゐることが發見されたら、登山のお供は早速拒絶され、若しそれが當初發見されずに、山中で發見されても無論それから後は駕籠に乘せない。これだけは特に注意が必要である。(つづく)

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