戰蹟の栞(14)

涿州の大會戰

 愈々涿州平野から保定にかけての一大會戰は開かれたのである。良鄕を占領した我が部隊に、永定河を挟んで左翼に展開した兩部隊が、戰機の熟するのを待ってゐたことは、前にも述べた通りであるが、この間空軍は、連日保定、涿州方面に爆彈の雨を降らせ、敵の心膽を寒からしめてゐたのである。
 時は遂に來た。九月十四日、火蓋はまづ左翼方面に切られたのである。この時、左翼の我が部隊は、いづれも正午頃永定河の渡渉地點の敵を撃破して、破竹の進撃は開始されたのである。こゝに於て永定河右岸に陣地を構築して、長安城、楊村、駝頭の線にあった敵は我が軍の急迫に潰走し始めたのであった。この永定河渡河作戰は、敵主力を東北に集中せしめ、これに對して我が軍は西南に大迂回して永定河を一擧に突破、敵の横腹に突入したものである。この我が軍の猛撃に敵は算を亂して西南方に潰走したのである。同日午後七時には、皇軍先頭部隊は南進すること已に廿キロ、全く疾風迅雷の急追撃であった。
 十五日午前七時、かつての燕の首都、固安は陥落、安田部隊及び今田部隊は既に拒馬河の線に達したのである。右翼の我部隊も、この拂暁より總攻撃を開始、勇躍進撃に移ったのであった。仰げば、秋空一碧、一片の浮雲すら無い秋日和こゝに全線に亙って、一大決戰の幕は切って落とされたのである。戰線は大房山、固安を結ぶ蜿蜒廿里、奉天大會戰以來の大會戰で、敵全軍の兵力は實に三十萬と算したのである。
 しかし、我軍の猛攻の前には、兵數など問題でなく、敵右翼陣の如きは逃げ足頗る良く、早くも固安を棄てゝ南方に退却。覇縣、容城等に集積し始めたのであったが、これを我が空軍の爲攪亂されて、留まる地さへ無いと言ふ始末であった。一方、大行山脈に副って進撃した我が部隊は、早くも十五日午後要地房山縣城を陥し、破竹の南進を續けつゝあったのである。
 十六日、右翼陣の大敗退軍は、中部地帶にかけて一戰線を形成してゐた敵と合流して辛くも覇縣、雄縣の線に止まり、陣容の建直しに狂奔しつゝあったのである。この時、永定河の渡河を完了して追撃中の我が軍は、前夜に引續きなほ固安地方にあって抵抗する敗殘兵の撃破に當ったが、この辺りの敵は卽ち左翼及び正面の敵で、これは中央軍の精鋭であった上に、地物を利用して堅固な陣を敷き、頑強に防禦してゐたのである。殊に我が左翼軍は此の地の戰が山岳戰にかゝる爲、一層困難を伴ったのであるが、勇敢な我が第一線は之を排して、前夜來房山附近の要地を奪取すると共に、正面の敵に對しては、月明を利して拒馬河の渡河を決行して、十六日その右岸に勢揃ひし、前方の約一ヶ師の敵に對し攻撃準備を整へたのであった。この日早暁我が空軍は銀翼を連ねて保定を空襲した。爲にその中央部は破壊されて、各所に火災を起こしたのである。翌十七日朝、涿州は遂に我が石黑、坂西兩部隊の猛攻に一溜りもなく陥落、早くも城頭高く日章旗は翻ったのである。此の涿州平野に於ける我が軍の大勝は、正に事変變以來空前のものであり、且つ歷史的なものであったのである。
 尚こゝで、石黑、坂西兩部隊の進撃の順路を示せば、十五日、敵右翼の大敗退と共に、固安方面より進出した兩部隊は、拒馬河によって頑強に抵抗する敵を却け、翌十六日午後渡河を完了。更に涿州の敵を側面より衝くに到ったので、敵はこれを支えずして撤退を開始したのを、兩部隊はすかさず迫って、十七日午前七時なんなく之を占領するを得たのであった。涿州は往年山西軍を率ゐた傅作義が、奉天軍の大軍に圍まれ、楠流の兵法を用ひてよく一ヶ月の籠城に堪へた要害の地であるが、この度は脆くも陥ったのは皮肉であった。それはさて置き、息も衝かせず石黑、坂西兩部隊の一部は、早くも涿州の南方松林店附近を午前八時に占領し、京漢線を遮斷すると、森田部隊は敵に先廻りして、その南方の北三家に進出し敵の退路を絶ったのである。こゝに於て敵は西南方の淶水、易州方面へ潰走するの得むなきに至った。その結果、涿州の前衞陣地であった琉璃河一帶に取殘された孫連仲軍、中央軍等の約五ヶ師は、西方の山岳地帶房山附近の石樓村を占領した我が軍の歩、砲部隊よりする猛撃と東方からは馬頭鎮を占領して迫って來た遠山部隊よりする攻撃に、前後左右の通路を絶たれて、進退ここに谷まると言ふ醜體と相成ったのである。
 敵を殲滅するはこの時とばかり、我が軍は追撃の手を緩めず、十七日朝、我が島谷航空部隊は、西に潰走する敵を淶縣に急襲して大打撃を與へ、又一方敵本陣たる保定に對してはその前夜我が陸軍空襲部隊創始以來始めての夜間爆撃を行ったのである。しかも十七日は三度爆撃を敢行すると言ふ多忙さ、一方地上部隊の一部は固安東方を南下して十七日その南方の牛駝鎮を占領して更に南進、その背後高碑店に迫ると言ふ猛進振りだった。
 明くれば九月十八日、滿洲事變記念日である。この日各戰線は敵も味方も勢ひ込んでゐたが、別けても我が軍は大勝に乘じて奮ひ立ち、右翼部隊は早朝涿州西北、七里、四里、二里の諸地點へ順次到達した。卽ち拒馬河上流の線に出揃ひ、こゝに正午、渡河を決行して、進出したのである。尚、前日涿州南方の松林店に於て、鐵路を横斷した部隊は、更に西進して正午頃には淶州の手前近く迄達したのであったが、こゝに敗退中の敵の一部が淶州西北の高地に新陣地を作らんとしつゝあったのを粉砕したのである。
 涿州東南の辛橋附近に撃って出た左翼部隊は前日朝、拒馬河を渡って涿州近くを進んでゐたが、東北方より進出した遠山部隊も亦、午前十一時涿州城に達して、こゝに一番乘りの殊勲を立てたのであった。その時、正面中央部隊の一部は、琉璃河を渡り、敵の遺棄せる裝甲列車に打ち乘って、涿州城を右に見つゝ南下して、長驅高碑店に達すると言ふ進出振りを見せたのである。尚、左翼山岳地帶を急進中の岡崎騎兵隊も、淶水西方の要地易縣に十九日夜、折柄の仲秋名月を仰ぎつゝ入城した。斯くて涿州平野の大追撃戰は次なる保定を目指して進められたのであった。
 次いで、廿日、高碑店南七里の固城鎮は我が手に歸したが、我が軍全體としては易縣、定興、新城の線以南に並びつゝあったのである。翌廿一日、前日の固城鎮奪取に續ひて同夜のうちに早くもその南方の徐水に入り、今や保定を指呼の間に望む距離に迫ったのである。
 皇軍の進撃は目覺しく、次は目指す保定である。だが、皇軍保定入城に先立って前述の激戰地涿州附近から保定に至る史蹟を訪ね、その上、壯士一度去って還らなかった、易水辺りを回想すれば、此の地に散った皇軍將士の英靈を偲ぶ縁ともならう。

涿州(チュオ・チオウ)
 涿縣とも言ふ。こゝで一寸疑問が起こるのだが、支那の都會名は地圖によって州とあったり、縣とあったりする。易縣,易州などなど。子これは違ったものではなく、同じ地名である。
〔州・縣の談義〕
 なぜ同じ所を縣と呼んだり、州と呼んだりするのであろうか。これは支那の地方行政區劃の歷史を見なければならない。支那では昔、凡そ人民が集まって生活するところを全て邑と言った。酒屋へ十里、豆腐屋へ三里の部落も邑であるし、車馬終澤として百官の來住する大都市も邑であった。
 秦、漢以後、邑の少し大きいものを「縣」と言ひ、縣令を置いて統治させ、幾つかの「縣」を纏めて「郡」とし、軍守を置いてこれを管掌させたが、「縣」は長く基礎的な地方行政區劃の重要な單位として今日に及んでゐるのである。
 その後、唐、宋の頃になって、「郡」に當るものは「府」または「州」と言はれた。明になって、「州」の大きいものは従來通り「府」と呼ばれたが、小さいものは格下げとなって「縣」と同格になり、「府」に隷屬することになった。こゝに於て縣は二種類に分かれた。卽ち「縣」そのものと「州」から轉落した「縣」である。
 それがいつの間にやら習慣的になってしまって、或は州、或は縣と呼ばれてゐたのだが、民國になってから、府制を廢し、知府衙門のあるところは一律に縣と呼ぶやうになった。しかし、この區別は、今ではさほど嚴密なものとはなってゐない。涿州でも涿縣でも、どちらでも良いわけである。涿州は古の涿鹿の野である。北京から百六十四キロの地點、元の時、涿州と呼び、明の景泰年間に築造したと言ふのが、今の縣城の周圍四里の城壁である。
〔樓桑(ロウ・サン)と附近の史蹟〕
 涿州驛の東南四哩のところに樓桑村と言ふ邑がある。こゝは漢の武烈帝、卽ち劉備の出生地として名高いところだ。この邑には劉備を始め、彼と離れるべからざる關係にある關羽、張飛、諸葛亮と支那人が講釋を通じて崇敬おく能はざる英雄達を祀る洞がある。
 また、城外を流れる拒馬河に架かってゐる長さ三百尺の石橋がある。たゞ見れば、何の奇も無き支那風の石橋であるが、記碑に乾隆帝御製に成る、「涿州石橋」の文字を見ると、そゞろにそのかみの淸朝の勢威の程も偲ばれようと言ふものである。更にまた、城の西二哩の經山の麓にある西域寺(シイ・ユイ・スウ)と言ふ寺は、經山の山腹の洞穴内に唐代の佛經が石刻してあることで知られてゐる。
 州城の東南の督亢陂(トウ・カン・ボウ)と言うふところは、可笑しな名前だが、こゝは燕の太子丹が、臣荊軻を遣はして秦に献ぜせしめた處である。荊軻はこゝで太子丹にサヨナラをして、風瀟々と、こゝから南の易水を寒く渡って復た還らなかったのである。
〔英雄劉備素描〕
 涿州の在の生まれの英傑劉備のことどもは大方、講釋師の張り扇の方へお任せした方が良ささうであるが、土地柄、ちょっぴり劉備の素描をやってみよう。劉備は、北支の新紙幣の圖案にも出てゐて支那民衆には昔から御馴染の蜀の先生、漢の景帝の子と言はれてゐるが、小さい時は母親と共にこの督元陂の燻せき伏屋で蓆などを織ってゐた、と言ふから餘り芳しい素性ではなかったらしい。今で言へば、彼は立志傳中の人物に屬するのである。しかし、家では母親と共に蓆などを織ってしがない暮らしをしてはゐたが、志は甚だ大であり、姓は勇武であった。身の丈が七尺五寸と言ふのだから、今の世ならば波止場の苦力をやっても、相當にいけるであらうし、またオリンピック選手になると言ふ手もある。ところが昔のことだ、そんな方法も無かったから、彼は力のやり場に困って、高さ五十尺の桑の木ー樓桑村の名もこれに因るのかも知れないーに旗羽葆を立てゝ桑の木の股に踏ん反り返り『今に見ろ、俺あ龍車に乘って見せるだ』と豪語してゐた。つまり天子になる、と言ふのである。今でこそ劉備が靑春時代の此の豪語は、可笑しく響くけれども、亂世の支那にあっては日常普通の豪語であった。何しろ強くて運が良ければ、天子に成れる世の中だったのだ。そこへ運が廻って來た、黄中の賦が起こったのだ。早速彼はこの時賦戰に參加して大いに功を立てゝ、将校に取り立てられた。それから後はとんとん拍子に出世をして、宿望の天子の位に卽いた。曹操に追はれ、諸葛亮と力を協せてこれを赤壁に破ったなんぞは有名だから略するが、當時の天下を三分した英雄が、此の人口三萬そこそこの縣城近くの村に生まれたことは土地っ子の自慢の種である。

高碑店(カァオ・ペイ・テイエン)
 春秋戰國の昔、燕と趙の二國が有ったことは前述した。此の二國の國境が、此の高碑店に在って『燕南趙北』の高碑が「此処から南は燕の國、北が趙の國」と明示してゐた。つまり地名は此の高碑(高く掲げた看板)と言ふ意味を採ってゐるのである。此処は北京から八十一キロ。西陵(シイ・リン)支線の分岐點である。

西陵支線とその附近
 西陵支線と言ふのは高碑店から西へ廿六哩七、梁格莊(リャン・コオ・チュワン)に至る鐵道で、何故此の鐡道が敷かれたかと言ふと、此の梁格莊の西八哩にある淸朝歷代皇帝の陵墓、卽ち西陵が在る。こゝ參拝する爲に、最初は淸朝の専用鐡道として敷設したものを、後になって解放したのである。高碑店から岐れて西陵支線に乘ると途中、淶水(ライ・シュイ)、易州(イ・チォウ)、の二驛が在り、易水(イ・シュイ)を渡って鐡道は梁格莊に至るのである。
〔易水とその史蹟〕
 易水と言ふのは河だ。誰でも知っている『風蕭々兮易水寒。壯士一去兮不復還』詩の河だ。戰國の時、燕の太子丹の臣となった男が、この詩の作者で主人公である荊軻だ。太子丹が、前述の涿州城外督亢陂で荊軻に『恨みを報じ國難を救へ』と言って秦の始皇を刺す事を頼んだ。そこで荊軻はたうてい生きては再び歸れぬものと覺悟して、涿州を發ち今の陝西省である秦の國都咸陽(現在の西安)を目指して行くうち、此の易水の畔に來た。こゝで彼は送って來た人と別れなければならぬ、さうして朗々と「風蕭々として易水寒し」の詩を吟じたのである。荊軻は太子丹の命を奉じて咸陽に至り、燕に匿って置いた秦の敵將の首を土産に、首尾よく秦の始皇に謁見することが出來た。その場で地圖に巻いて隠して置いた匕首を取り出して始皇を刺そうとしたが、始皇もさるもの、體を躱して事無く、荊軻は捕へられ殺されてしまった。正に『壯士』は『復た還』ら無かったのである。
 荊軻の詩には、切々たる悲壯味を帶びて人の胸を刺す。荊軻と易水を詠った有名なものに唐詩選の駱賓王の五言絶句や陶淵明の荊軻の詩がある。まづ駱賓王の詩をひかう。
  此の地燕丹に別る。壯士髪冠を衝く。
  昔時の人已に亡し。今日水猶ほ寒し。
 あまり感激したやうな詩でも無いが、淵明の詩になるとさすがにうまい。例の朱子などもこの詩を大いに賞めそやしてゐたさうだ。
  燕丹(えんたん)、善(よ)く土を養ふ
  志は強嬴(きゃうえい、秦のこと)に奉ずるに在り
  百夫の良を招集(せうしふ)して
  歳暮(さいぼ)に荊軻を得たり
  君子は知己に死す
  劍を堤(ひっさ)げて燕鄕(えんきゃう)を出づ
  素驥廣陌(そきくわうはく)に鳴き
  慷漑(こうがい)して我が行を送る
  雄髪(ゆうはつ)、危冠(きくわん)を指(さ)し
  猛氣(もうき)、長纓(ちゃうえい)を衝(つ)く
  飲餞(いんせん)す、易水の上(ほとり)
  四座群英(しざぐんえい)を列(つら)ね
  漸離(樂人)悲筑(ひちく)を撃ち
  宋意(そうい)、高聲(こうせい)を唱(とな)ふ
  蕭々(せうせう)として哀風(あいふう)逝(ゆ)き
  淡々(たんたん)として寒波(かんぱ)生ず
  商音(しょうおん)、更に流悌(りゅうてい)せしめ
  羽奏(うそう)、壯士(そうし)驚く
  心に知る、去って歸らず
  且(まさ)に後世に名有らんとするを
  車(しゃ)に登るに何(いずれ)の時か顧(かへり)みん
  飛蓋(ひがい)、秦庭(しんてい)に入る
  凌厲(りゃうらい)として萬里を越え
  ゐ迤(い)として千城を過(よぎ)る
  圖(ず)窮(きは)まって事(こと)自(おのづか)ら至る
  豪主(がうしゅ)、正に征營(せいえい)す
  惜しい哉(かな)劍術(けんじゅつ)疎(そ)に
  奇功(きこう)遂に成らず
  其の人已に没(ぼっ)すと雖(いへど)も
  千載(せんざい)餘情(よじゃう)有り
 皇軍奮戦の有様を思ひつゝ淵明のこの詩を讀むと、此の壯大な誌味に盛る荊軻の壯士は宛らこの地に散った事變の英靈となって、ぴりぴりと電波のやうに感じるではないか。賓王は水猶寒しとうたひ、陶淵明また、「淡々として寒波生ぜず」とうたってゐる。この易水は、水源を萬里長城の南麓に發して保定(パァオ・ティン)の側の白洋淀に寒々と流れ込んでゐる。
 易州は、石炭、石綿、藥草を産することでもまた知られてゐる易水から梁格莊だ。こゝまで來ると、河北省も西のはづれで、あともう一跨ぎで山西省である。萬里の長城も近い。もっとも省境が長城なのだから。

西陵(シイ・リン)
 さて、梁各莊の西八哩の地點に西陵がある。こゝは太平峪(タイ・ピン・ユウ)またの名を永寧山(ユン・ニン・シャン)と言ひ、山紫水明の勝地。この山一帶を四區に分けて、淸朝の世宗(雍正帝)の泰陵、仁帝(嘉慶帝)の昌陵、宣帝(道光帝)の墓陵、德宗(光緒帝)の崇陵があり、其の他世宗皇妃の泰東陵、仁宗皇后の昌西陵、宣宗皇后の慕東陵もこゝにある。この他所謂妃嬪の墳瑩に至ってはその數幾つ在るか知れない。一歩内に踏み込むと樹林は鬱蒼として繁って夏なほ涼しく、樹林内を漫ろ歩けば幽邃なる石徑あり、潺々たる淸流あり、さながらに一大自然公園である。支那事變に於て、京漢線進撃の我が軍が、此の西陵を兵火から免れしめ、淸朝の陵墓を保護したことは、支那國民を非常に感激させた。
 此処で京漢線の本線に戻って保定目指して南下すると先づ固城鎮(クウ・チョン・チオン)がある。この附近に觀音寺と鐵瓦寺と言ふ妙な名の寺があるが、この寺の屋根が鐵の瓦で葺いてあるがためである。
 


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