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戰蹟の栞(16)

石家莊附近の激戦

正太線
 此処から石家莊(シイ・チャイ・チュワン)に行って西へ分岐する鐵道が在る。正太線である。太原まで通じてゐる。この鐵道は、最も完備した運炭鐡道といはれてゐる。河北、山西の省境を北から南に走る大行山脈は重要なる炭田地で、詳しくいふと二壘石炭紀層、支那でも豐富な含有石炭地層である。この石炭搬出の爲の狭軌鐡道が卽ち正太線で全長二百四十三キロ。しかし大行山脈横斷の箇所は標高三千尺の高所を進んでゐる爲に中々難工事であったらしい。そのかはり風光は素晴らしく良い。淲沱河支流の洮河に沿って谷を渡り、山の土手腹を潜り更に汾河の支流に沿って太原盆地に入る。一九〇三年ロシア資本で着工し、その後フランス資本に引き継がれて一九〇七年に竣工、一九一三年に支那側に引き渡された。

 さて、我が軍に撃退された敵は、南へ南へと逃げ延びて、河北省南部の工業都市、石家莊附近を主陣地にし、正定並びにその北方の小都邑を前進基地として、飽くまで皇軍に手向かふ心算で日夜築城を續行しつゝあったのである。此処に於て、保定占領後その附近に在って攻撃態勢の整備に努めてゐた皇軍は、準備全くなるや再び砂塵を巻いて南下、こゝに石家莊會戰の火蓋は切られたのである。先づ數十條に分かれて河北平野を進撃する我が部隊は、分進合撃して途中に屯する敵を撃破、瞬く間に正定城に肉薄したのである。卽ち十月七日朝、早くも石家莊西北方の要地平山附近にあった敵一ヶ師を撃退して、我が騎兵部隊は平山北方八粁の高地を占領したのである。
 同日正定西北方靈壽縣城前面に進出した約一ヶ旅の敵に對し、西方及び東方より之を包圍攻撃して、午後四時頃靈壽縣城を占領、城頭高く日章旗を翻したのである。尚木道構河を渡って一齊に南進した岡崎、鯉登兩部隊は共々平山北方三里の塔上及び長阜安の線に進出してゐたが、折しも平山縣方面から數十隊となって北進中の敵大部隊と遭遇、忽ち彼我の間に一大激戰は繰り展げられたのであったが、我が軍は敵の機先を制して激戰四時間の後、午後一時頃敵を完全に潰走せしめたのであった。
 平山、靈壽の兩縣城を屠った第一線部隊は、敗走する敵を急追して南下し、八日早暁淲沱河の線に進出、同河右岸に蜿蜒と連なる堅壘石家莊陣地と河を隔てゝ對峙したのである。
 先づ我が石黑部隊の装甲列車は八日午後二時新安に達し同驛を占領すると、一方正定攻撃の爲南下した我が第一線部隊は八日午前八時正定總攻撃を開始したのである。河北平原の静寂を破って轟渡る砲聲を合圖に、第一線の神田、岡本、長谷川の三部隊は其々正定城目指して北方、東北方、東方の三方面から一齊に攻撃前進を開始して、敵の前線據點を片っ端から踏み潰して突進突進、午前九時には早くも外濠の線に肉迫、午前十時五十五分、岡本部隊は幅二米突深き四米突餘の外濠を乘り越えて城壁に取り付き、こゝに城壁上の大白兵戰は開かれたが、猛り立つ我が軍の前には物の數ではなく、これを撃退して東北の一角を占領、日章旗を翻した。續いて神田、長谷川兩部隊は北側及び東側を占領、午後六時皇軍は全く正定城を占領したのである。
 陸の荒鷲も連日地上部隊に協力して、各所の敵陣地に猛爆を加へ、八日は正定の敵陣に猛爆を加へると共に、更に石家莊の南方十里にある沙河の鐵橋を午前午後に亙って爆撃、これを大破し敵の退路を絶ったのである。斯くて正定攻撃も僅か半日で我が軍の大勝に歸し、第一線部隊は何れも矛を轉じて淲沱河左岸地區に進出、此処に石家莊の敵主陣地と河を隔て對峙したのであった。
 淲沱河は河幅三百米、水深七八尺に達し、これを渡渉するのは困難で、それだけに敵が力と恃んだ自然の要害であった。更にその右岸には、西は平山縣より東は安平に亘って、蜿蜒卅里の長さに及ぶ陣地を構築してゐたのである。これによる敵は廿數ヶ師、廿餘萬の大軍、現地指揮官は劉峙、總指揮官は参謀總長程潜が當ったとも云はれるが、兎も角、皇軍來たれと手ぐすね引いて待ってゐたのである。
 これを渡渉しなければ目指す石家莊攻撃は不可能なのである。こゝに壯烈無比な淲沱河の渡河戰は遂に開始されたのである。我が軍は淲沱河左岸に百數十門の火砲の砲列を敷き、間斷無く猛火を敵陣に送る。その間を縫って、鈴木、森本兩部隊は九日、日没後平山縣西北方約四キロ王母村附近の敵陣を占領したのである。尚平山縣西北方四里、田興北側地區に於て渡河を敢行した我が鯉登部隊は、十日午前前田興附近一帶の陣地を占領、更に南進すれば正定西方二里の地點でこれも淲沱河を渡河した坂西、石黑兩部隊が十日午後一時頃對岸に進出して、頑強に抵抗する敵軍を猛襲之を撃破する。散を亂して潰走する敵を追って我が軍は矛を揃へて突っ込んだのである。斯くて午後二時坂西部隊の先鋒は遂に石家莊に突入、一番乘りの勝鬨を挙げたのである。
 敵が不落の堅陣を誇った石家莊陣地はかくも迅速に我が手中に歸したのであるが、石家莊がかくも早急に陥落しようとは、何人も想像し得なかった處で、その迅速果敢な行動こそ永く戰史を飾る偉勲である。
 敵軍總潰れの切っ掛けとなったのは、敵左翼を突いた我が部隊が、側面に進出した行動が與って、最も力あったと云はれ、殊に正定攻撃で我が砲撃の威力を眼の邊りに見た敵は、全線既に氣を呑まれ浮足立ってゐたことも石家莊陥落を早めた有力な原因で、折角の堅壘も守るに兵無き状態で、中央軍にとっては嘗て無き惨めな大敗戰であったのである。
 破竹の皇軍は更に石家莊を越えて急追又急追、殘敵を各所に殲滅しつゝ京漢線一帶を席捲、十三日には臨城陥ち、十五日には順德陥ち、十七日には堂々皇軍は邯鄲に進入、遂に彰河附近まで南下して、此処に河北省の悉くを日章旗で埋めたのである。かくして敵の主陣地石家莊大會戰は幕を下したのである。皇軍は更に南に進撃して、河南省に入るので此処で河北省に於ける戰況の筆を止むべきであるが、皇軍と共に今少し筆を進めて京漢線戰跡の結びとしたい。

 京漢線河南省の會戰
 彰德を陥して河南省に入った皇軍は、滿を持した儘、榮ある昭和十三年の正月を迎へたのであった。異境に過ぎ來し約半歳の戰蹟を偲びつゝ春を壽いだ勇士の胸には亡き戰友の上に、在りし日の激戰に、交々の感慨なきを得なかったことであらう。
 越えて二月十一日紀元の佳節、久しく腕を撫してゐた皇軍將兵に、黄河一帶の敵掃蕩の命は下り又も皇軍破竹の進撃は開始されたのである。卽ち彰德一帶の前線地帶に待機してゐた遠山、森田、石黑の各部隊を始め、岩倉、北毛、中尾、今田の俊英部隊は彰德城南方數里に展開して戰陣を敷き、之に呼應して宮川、池田、稲葉、石黑、岡本の各砲兵隊は蜿蜒數キロに亘って放列を布き、十一日午前六時一齊に火蓋を切ったのである。
 この戰に於て湯陰北方一帶の要地に布陣してゐた萬福麟軍約二千が同日午前八時半早くも我が砲彈のつるべ撃ちに一溜りも無く崩れ立ったのを手始めに、各方面の敵は午前中に續々と退却を始めたのであった。之を追って、遠山、森田、石黑各部隊の精鋭が、蜿蜒七八里に亘る大攻撃陣を張って押し寄せ、十二日夕刻頃淇河の線に進出したのである。この兩日の戰闘に敵は屍體二千を遺棄潰走したが、その時京漢線を破竹の勢ひで南進中の今田戰車隊が十二日午前十一時早くも淇縣城に達し、北門から入城すれば、これに引き續いて歩兵部隊も入城を終ったのである。
 更に京漢線に沿うて南進しつゝあった我が遠山部隊は、新鄕と輝縣を結ぶ敵陣を陥れて、堂々輝縣城に入城、息つく間もなく潰走する敵を追撃、十七日森田、遠山、石黑の各部隊は新鄕を指呼の間に望みつゝ新鄕周邊の殘敵を掃蕩したが、同日午後六時我が森田部隊は新鄕に入城するといふ神速振りを見せ、その先頭部隊は更に前進を續け早くも獲嘉に迫ったのである。
 續いて十九日正午頃森田、遠山兩部隊は修武附近の敵後方陣地を突破して西南方に向かって追撃、兩部隊は長驅京漢沿線、敵最後の據點たる博愛に向かって、陣地に據って抵抗する敵に猛撃を浴びせ、敵のひるむに乘じて敢然突撃、廿日正午博愛を完全に占領したのである。此処に於て黄河以北の重要據點は悉く我が軍の手中に歸したのである。

黄河河畔の會戰
 一方、坂西部隊を中心とする皇軍諸部隊は、十一日濮陽南方廿キロの梁門鎮に達し。潰走する敵軍を追撃して黄河に沿って一路南下、十二日正午には濮陽西南約四十キロの老岸鎮に達したのであるが、その時寺田部隊は迫撃砲廿門を有する約三百の敵と衝突して、交戰約一時間の後之を撃破したのである。
 次いで十三日午前十一時坂西部隊は、長垣を占領して入城、敵は遺棄屍體千餘を殘して潰走した。長垣は濮陽の南方十八里で黄河の西方二里に位する要衝である。さながら無人の野を往く如き坂西、高木の兩部隊は何等の抵抗を受ける事無く十六日朝封邱を占領したのである。同地一帶は黄河南岸の要衝で、河南省首都たる開封に對する要害の地でもあり、敵は數ヶ月前から強固な陣地を構築して、これを死守せんとしてゐたのであったが、我が軍の息をも付かせぬ猛追撃に各地とも總崩れになり、全く戰意を喪失し、一戰も交へず封邱を放棄し、潰走したのであった。
 黄河北岸を西進中の坂西部隊は、十六日夕刻より更に西進して、新鄕南方八里の陽武を占領十七日更に急進して、夕刻には京漢線の小吉鎮東南方八キロの地點に進出し新鄕南方の敵陣地を完全に押へて、十九日朝遂に修武を突破したのである。修武は新鄕に次ぐ敵の要衝陣地で、敵は之によって相當の抵抗を試みるものと豫想されたが、殆ど無力で敵は懐慶方面に逃れ去った。こゝに京漢線黄河以北の敵は盡く掃蕩されたのである。
 幾多の勇士が夢に見、黄河へ黄河への合言葉で南進した將兵の勞苦はこゝに酬はれたのだ、あゝ數千年來大陸を横斷して盡きる事無い黄河の水は、この激戰を知らぬ風に、今も悠々として將兵の目前を流れてゐる。轉戰既に半歳を越え、各地に華と散った戰友を思ふ時、黄河々畔に立った勇士の胸には無量の感慨が沸いたことであらう。こゝで京漢線の戰蹟の事を収めて、再び同線沿線各地を記述することにしよう。

石家莊(シイ・チイヤ・チユアン)
 北京から二百八十キロ。正太線はこゝから分岐して。、えっさえっさと大行山脈を登ってゐる。人口五萬、一見、大平原の新開地めく活氣に滿ちた都會だが、しかし、こゝもやっぱり春秋に石邑の名を殘こす古都である。つまり戰國時代の趙の都であったのだ。しかし、それまでは單に歷史上の都會と言ふに過ぎなかったが、京漢線が開通する、正太線が通じる、で、この二線を連絡し山西省太原の咽喉部の役割を務めるやうになり、石炭、鐵、綿花、落花生の集散地として今日のやうに活氣ある繁榮を呈するやうになった。また、天津、滄州へ通ずる自動車道路もあり、商工業も盛んで北支では政治的にも經済的にも大事な地點である。驛の北方に第一革命で刺された呉祿貞の墓がある。呉祿貞は、早くから日本に留學して歸國後は燕晋聯軍の大將軍に任ぜられたが、一九一二年第一革命起こるや、部下の爲に此の地で刺された。彼は第一革命前期よりの立役者であった。
〔滄石鐵道問題〕
  また石家莊の經済上の問題として我々が記憶すべきものに滄石鐵道の問題がある。これ石家莊-滄州を結ぶ鐵道で我が國では嘗て冀察當局との間に我が借款によりこれらを天津迄延長すると、所謂、津石鐵道敷設の調印迄了ったが、南京政府は「龍煙鐵鑛、井陘炭坑の開發、北支の綿花栽培等の問題は別としても、津石鐵道に關する日本との豫約は當分履行出來ぬ」といふ横槍をいれ、當時の責任者宋哲元は東京と南京の板挟みとなって故郷の山東省に逃げてしまった。このことは、日本の北支開發方針に一大ショックを與へたものである。
〔正太線沿線〕
 石家莊から正太線に乘る。この鐵道は石炭を運ぶ目的ではあるが、車室の設備も中々良いので評判である。大行山脈の石炭も、さぞやいいい氣持ちで燃やされに運ばれてゆくことであらう。途中歷史に名高き獲鹿の驛を過ぎると井陘がある。

井陘
(ツイン・チン)
 井陘の曰く因縁はあと廻しとして、名にし負ふ炭坑としての井陘を見ると、井陘炭坑は大戰前、獨支合瓣による經營で、ドイツ側は「井陘鑛務公司」を設け、支那側は「井陘鑛務局」を置き合同して「井陘鑛務局」となり、ドイツ人ハンネッケンが實權を持って經營してゐたが、大戰で支那が參戰するや、直ちにこれを支那側に没収、河北省の省營炭坑となった。炭質は有煙炭、採炭額は通常四十萬トンといはれ、骸炭も作ってゐる。
 今度は歷史上に見ると、こゝは春秋戰國以來著名な戰略の要害である。つまり井陘縣の東北にある井陘口の隘路が險要の地なのである。戰史に殘る『井陘の戰ひ』といふのは紀元前二百四年楚漢紛争の時、股をくゞった韓信が、こゝに於て大いに趙の軍を破り趙王歇を擒にした。戰ひと言ひ、安禄山の亂の時も、こゝが戰場となった。ところが支那事變では、さすが歷史に名だたる要害も何でもなく突破し、寧ろ、この少し西の娘子關に激戰があった。

娘子關(ニヤン・ツ・コワン)
 正太鐵路が大行山脈を横斷する處に娘子關はある。最高三千尺の天險。トンネンルの長さだけでも七百三十フィートもある。閻錫山は娘子關を難攻不落と偁して、數年前から天險を利用して山腹に無數のトーチカを造り、頑強に抵抗したが、勇猛小林、鯉登兩部隊は惡戰苦闘、六十度の急坂を攀じ登っての猛攻八日間で昭和十二年十月廿六日午後一時、遂にこゝを陥したのである。この大行山脈の險しさをうたった曹操(三國志で叩かれてゐるあの大將だ)の詩がある。姦雄でも文字の國だけあって詩は上手い。我が軍の奮闘を偲ぶに足るものである。

  北、大行山に登る
  艱い哉、何ぞ巍巍たる
  羊腸坂は詰屈して
  車輪之がために摧く
  樹木何ぞ簫瑟たる
  北風、聲まさに悲し
  熊羆我に對して蹲まり
  虎豹路を夾さんで啼く
  谿谷人民少なし
  頸を延べて長太息す
  遠行、所懐多し
  我心何ぞ怫鬱たる
  一たび東歸を欲せんと思ふ
  水深くして橋梁絶ゆ
  中路正に徘徊す
  迷惑、故路を失ふ
  薄暮宿棲無し
  行行、日已に遠し
  人馬同時に餓ゆ
  囊を擔いて薪を取る
  氷を斧いて持して糜を作る
  悲しい哉かの東山の詩
  悠々我をして哀しましむ。
 こゝで石家莊に戻って、又も京漢線を南下すると、棉の産地高
邑がある。それを過ぎると順德である。

順德(シュン・トゥ)
 「虞や虞やなんぢを奈如せん・・」と泣いた悲戀の青年英雄項羽が、張耳を常山王に封じ、此処に都せしめた。北京から三百八十七キロの古への所謂「鉅鹿の地」で、城は宋代に建てられたといはれて、周圍四哩半の中々堂々たるもので、今は人口約七萬、城外北部には巨大な水濠をもち、城壁は高さ十三米突、幅八乃至十米突で正方形をなし二段の城廓を構へ、廓外には幅三十米突に深さ四米突の外濠をまはしてゐる。河北省南部の政治的、軍事的中心地であり、山西、河南に對する各種經済活動の要點でもある。羊毛皮,麻蓆、竹器、油、棗、果實、緞通、石器細工など物産の集散が盛んである。附近の勝地としては、鼓樓、豫讓祠、開元寺などがある。さて、次驛「沙河」は語るほども無いから省くことにする。

邯鄲(ハン・タン)
 こゝは例の『邯鄲夢の枕』ー盧生の夢であまりに有名である。むかし盧生が道士呂翁の枕を借りて假寝をする間に、四十年にわたる富貴榮華の夢を見たーが、眼が覚めてみれば、まだ炊いだ粟飯も煮えてゐない短い時間であった呂翁は「人生の事、またなほ是なり」といって笑った。この話は日本の謡曲にもなってゐる。このロマンスの主人公盧生が、まだこの邯鄲で夢を見ているーウン十年。邯鄲驛の北王仙堡の小驛で下車して東へ五百米突、朱色に輝く屋根瓦の呂祖廟へいって御覧しろ、正門右手に『蓬來仙境』 のうれしい扁額があり、境内には鳩が遊んでゐる。最後の堂の所まで辿り着くと、これが盧翁祠で、その中には盧生が右肘を曲げて樂しそうに居眠りをしてゐる。勿論、臥像なのだが、祠の入り口には呉偑孚將軍の筆になる「塵縁皆夢幻、黄梁熟待枕中人」の句の聯がかけてあり、碑文の「夢醒黄梁方悟道、心同名月河尋梅」の石摺るりを賣っていゐる。
 夢の枕ばかりでなく、こゝは正に戰國時代の中心地點であったのだ。だから、戰國時代の策士もこゝを中心に天下を遊説して廻ったから、『戰國策』などには屢重要な舞臺として扱はれtゐるし、詩にもこゝを謳ったものは高適の『邯鄲少年行』を始め非常に多い。此処から先は愈々南のどん詰まりである。

磁州(ツゥ・チォウ)
 其のどん詰まりの街に磁州がある。縣城の西に磁山といふ山が在って、こゝから磁石が採れる。人口一萬、といふから、こゝの磁石は金を吸い付ける力が無いのかも知れないが、南方には磁州の炭坑があり、また農産物の集散も相當活溌である。宋代からこゝから磁器を出したので磁州の名が起こったのだともいはれている。附近には『疑塚』といふのがある。これは一面の累々たる古墳である。なんでも北魏時代の古墳だといふことだ。宋の王安石が、この古墳をみて、感傷のあまりこんな詩を作っている。
 青山如浪入漳州銅省台西八里邱
 樓蟻往還空隴畝麒麟埋没幾春秋

津浦鐵路(チン・プゥ・テイェ・ルウ)
 支那が河の國であることは幾度か説いた。河を中心にした文化の發達の後を調べ、支那の經済地理學を勉強してゐる若い支那の學者さへある(ただし米国で)。しかもこの津浦線の沿線にある大運河こそは、實に支那の歷史の動脈だった。とさへいへる大工事であるのだ。まづ津浦線を語るまへに、この大運河の一場の物語がどうしても必要である。
〔支那の運河〕
 大運河と唯一口に言っても、歷史的に見ると、色々な大運河が在って、必ずしも津浦線に沿って南下してゐるもののみを指して呼んではゐない。
 よく津浦線の大運河は隋の煬帝が開鑿したなどといはれるが、隋運河といふのは河北省の涿州附近を揚子江に結びつけた曲折したもので、こゝの大運河は元朝になってから、南方の税物を運ぶ爲揚子江と白河を結ぶ水運を考へて開鑿し、それを淸朝康德の代に運河の水流を利用してさらに開鑿往時を進め乾隆五年に浚成したもの、と言った方が正しい。この大運河は、河北省から山東、江蘇兩省を南北に縦斷して、北方の萬里長城と共に支那の二大土木工事といはれるものである。天津で白河と岐れ、まっすぐ南に流れて、滄州、德州の兩都をすぎ、稍西方にふくれて臨西にいたり、再び東南に向かって黄河に合し、煬運河に合する延長八百哩、支線を合わせるときは一千二百餘哩となり、長さにおいては正に世界第一の大運河だ。
 ところがこの大運河の河幅、河深などはところによって一定してゐないので、文化の速度に伴って近代的交通動脈としての役割をしなくなった。また、他の河川を見ても、大小淸河、馬頬河、徒駭河、淄河、瀰河、易水など色々水運はあるが、いづれも東流して渤海に注いでゐる省内横斷の水路ばかりである。こんな運河は不便でどうにもならぬ、といふことは淸國政府でも心在るものは痛感してゐた處だったに違いない。
〔津浦線由来〕
  そのうちに日淸戰争だ。そしてナポレオンをして『支那は眠れる獅子だ。その獅子が目醒めたときは、世界を揺るがすであらう』といはせてゐたこの大國は、東洋の一小島帝國に大敗した。かうなると弱り目に祟り目で、列國は一齊に支那の利權獲得に觸手を伸ばし始めた。國内では富國強兵論が旺んになった。この時に當ってアメリカにいた華僑の容閎といふ男が『日本が勝ったのは鐵道によって富源を開發したからだ、淸國も須らく鐵道を敷設しなければならぬ』といって天津、鎮江間の鐵道敷設權を政府から得たーこれが津浦線の濫觴である。だから、津浦線は或は抗日鐵道だともいひ得るのである。
 さて容閎は敷設權は得たが、資金が中々集まらず、結局ドイツとイギリスが乘りだして一八九九年、支那政府と英獨兩國の間に借款契約が成立した。借款は第一次、第二次を合わせて九百八十萬磅、ドイツは天津より山東南部まで(これを津浦線南段といふ)山東以南全部をイギリスが(これを津浦線北段といふ)工事を行ふことになって、北段は一九一二年七月、南段は一九一三年三月から開通して正式に營業を開始した。
 ドイツの手になる北段は天津、韓莊間六百廿六キロで、線路は殆ど坦々たる土の平原地帶を走ってゐるので、工事は黄河の大鐵橋工事を除いては、概ね平易であった。イギリスが工事をした南段は韓莊、浦日間三百八十キロ、その難工事は淮河の鐵橋であり、大工事は淮河、徐州間の百六十キロの築堤であった。南、北の兩段合して延長一千三百五十二キロ、次の支線がある。
  濟寧支線=兗州ー濟寧(三一・四キロ)
  棗莊支線=臨城ー棗莊(三〇・七キロ)
 この支線は棗莊において更に中興煤礦公司の運炭鐵道に聯絡して臺兒莊にいたってゐる。
  運河支線=德州ー運河碼頭橋(四キロ)
 さて沿線の街の説明に入るが、この沿線は殆ど毎年水害に見舞われてゐる。
〔津浦線天津附近〕
 天津を出ると、汽車は大運河を左にみて進むが、やがて次の楊柳靑の驛を出ると、運河を渡って良王莊の驛に近づくと運河は津浦線の左右に流れてジャンクの帆などか時折のんびりと見える。この邊りはその名の示す如く、楊柳が多く線路の兩側には鬱蒼と茂ってゐるので、敗殘兵の襲撃には誂へ向きの場所で、それが掃蕩には我が軍も悩まされたのである。八月下旬、良王莊に於て、敵敗殘敗兵のために列車の顚覆が圖られたが、此の時、一人の伍長が部下の一名を傳令として二哩ほど離れた鐵橋警備中の部隊に救援を求めさせ、自らは負傷せる兵を勵まして列車を死守したのも此処であった。良王莊のすぐ次に獨流鎮がある。

獨流鎮(トゥ・リゥ・チオン)
 此処は事變當時は大洪水で、そのまゝ冬を迎へたものだから、部落の家々は水浸りになったまゝ氷漬けになってしまった。支那軍が大運河の堤防を切って逃げたので、良民は大変困った。そこで我が軍の宣撫班は此処を中心として、避難民救濟に大童の活動をしたのである。全く獨流鎮ならぬ濁流鎮となってしまったのであった。

靜海(チン・ハイ)と其の附近
 靜海を過ぎてまっすぐ南へ、大運河は相變らず線路の右側(つまり西側)に併走して陳官屯、唐官屯の驛を過ぎる。このあたり、津浦戰線に奮戰の我が將士の英靈眠れる處で(長野部隊激戰之地)などの記念碑が立っている。そしてやがて汽車は津浦戰線地馬廠に入るが、その前に靜海から馬廠に至る皇軍戰績の模様を語って、この邊りに建つ英靈碑に合掌しよう。



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