「黙阿弥の明治維新」 渡辺保

歌舞伎・演劇評論家 渡辺保氏の「黙阿弥の明治維新」読み終えました。

その感想ほかをつらつらと書いてみたものの、本書で教えられたことや読みながら考えさせられたことが非常に多くて、結構な長文になっちゃってますので、ご興味ある方はお暇な時にでもご笑覧いただければ幸いです。。。
m(_ _)m

本書は幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作家 河竹黙阿弥の生涯をたどりながら、黙阿弥作品への批評を通じて、彼の描いた江戸とはなんだったのか、そして黙阿弥と歌舞伎にとって明治維新はどんな意味があったのかを探る評伝です。

河竹黙阿弥といえば生涯に三百六十以上の作品を生み出しており、「十六夜清心」「三人吉三」「白浪五人男」「髪結新三」「河内山」「播随長兵衛」「加賀鳶」などなどなど、今も頻繁に上演されている作品の大半と言って良いほど多くの作品が黙阿弥によるものです。

ですから歌舞伎大好きな自分にとって、黙阿弥という人はある意味神様みたいな存在でして。

・市川小団次とのコンビで「鼠小僧」「十六夜清心」「三人吉三」「村井長庵」「御所の五郎蔵」他、多くの傑作を生み出した

・いわゆる黙阿弥調、「月も朧に白魚の〜」「知らざあ言って聞かせやしょう〜」ほか、七五調の華麗なせりふや、割ぜりふ・渡りぜりふがスタイリッシュでカッコいい

・浄瑠璃や清元の多用など、江戸情緒たっぷりな舞台が多く、まさに「江戸」を表現した劇作家

・(でも、明治になってから演劇改良運動がさかんになった中で書かれた、いわゆる散切物は地味で華がなくつまらない。。。)

〜と言ったあたりが、自分の中での黙阿弥のイメージだったのですが、渡辺氏は本書の中で次のような、自分の持つイメージとはほぼ真逆な意見を述べられています。

曰く、
① 黙阿弥がもし小団次とめぐり合わなければ、彼はもっと別な劇作家として大成していたはずに違いないし、歌舞伎の運命も大きくかわっていたに違いない

② 割ぜりふが華麗さ流麗さを増す中で、見えなくなってくる演劇的要素がある

③ 黙阿弥のなかに江戸情緒のみを見るのは間違いであり、黙阿弥の評価されるべきは散切物も含めての近代劇の発露である

④ 黙阿弥が描く「江戸」は、彼によってつくられた「江戸」であり、本当の「江戸」ではない

一つずつ見てみます。

① 小団次とのコンビについて

渡辺氏は、上方からやってきた小団次との出会いにより黙阿弥の作風が「音楽的な、粘着質な、しちくどいしつこさ」を持つようになったと言います。

黙阿弥が小団次と出会う前、七代目団十郎のために書いた「舛鯉瀧白旗(のぼりごいたきのしらはた)」について

黙阿弥の「舛鯉瀧白旗」は単純明快、短いせりふに人の肺腑をえぐるような鋭さがあって、歌舞伎のせりふ劇への可能性、現代劇としての進展の可能性を思わせる。南北を極彩色とすれば、黙阿弥には墨一色で庶民の生活の実際を描いた面白さがある。
黙阿弥がこのまま進むことができたらば、歌舞伎は近代劇に移行出来たかも知れない。

おそらく七代目父子ともっと仕事ができたらば、本当の江戸歌舞伎の伝統を生かして、黙阿弥は歌舞伎を変えていたに違いない。

と述べたうえで、「舛鯉瀧白旗」作中主要登場人物である閻魔小兵衛と雪駄直し長五郎二人の共通点として以下を挙げ、

・きわめつけの貧乏人で、どん底の生活をしており小市民的でその日暮らしだがくよくよしない、みじめったらしくない
・性格的には執着心や計画性が全くない。
・暗い過去を背負っているが、その過去に対して特別な感情を持っていない。
・淡白で、ものにこだわらない性格、心理や考え方より先に手が出るタイプで、これこそ江戸ッ子の感覚である。

(これらは)おそらく七代目団十郎と亀蔵の芸風の共通点であり、黙阿弥の戯曲そのものとの共通点でもある。

そしてこの後黙阿弥の作品が

七代目団十郎や亀蔵の江戸風の演技を支えてきた黙阿弥の作風は、この一作(小団次と組んだ「忍の惣太」:北千住註)でしつこい、くどい上方風の装飾的で説明的な言語表現を確立していくのである。

〜としています。

「粘着質」「くどい」「しつこい」とまで言うかどうかは別として、言われてみれば「装飾的で説明的な言語表現」と言うのは、確かに黙阿弥作品にはそう言う面があるよなあ、と自分も思います。

もちろん渡辺氏は、小団次が黙阿弥に与えた影響を単に悪影響だとのみ言っているわけではなくて、下記のような指摘もしています。

もう一つ、黙阿弥が、小団次から学んだことがある。
「金」である。
黙阿弥の描く「金」が単なる小道具ではなく、さながら生き物の如く多くのドラマを生んでいくのはよく指摘されることである。たとえば後年の傑作「三人吉三」では、百両の金が転々とする間に、そこに殺人、強盗、恋、近親相姦がおこることは、多くの人々のいうとおりである。この「金」のもつ劇的な力は、黙阿弥が小団次との提携によって身につけたものであった。

(人間関係のからみを金が解きほぐしていくような、黙阿弥のこの帳尻の合わせ方は)
小団次のもっていた合理性に導かれたものだろう。小団次は大阪育ち。天下の台所といわれた経済都市大阪のもつ合理性と金への執着。なにごともきちんとしないと気がすまぬ癇性が小団次にはあって、それが黙阿弥の生真面目な性格をさらに引き出して、そこにこの金が人間関係をときほぐしていくというドラマツルギーを生んだに違いない。

② 割ぜりふなどの音楽的で華麗な表現について

黙阿弥が小団次と組んで最初のヒット作となった「忍の惣太」は、黙阿弥作の特徴の一つでもあるいわゆる「割ぜりふ」(複数の登場人物がそれぞれの想いを交互に述べていき、最後に同じセリフを同時に述べて締める形式)が最初に効果的に使われた作品でもありますが、その割ぜりふについて渡辺氏は

そこには登場人物の気持の現実性とは別に、人物の内面や状況から離れて、その音楽的なリズムから、だれのものとも知れぬ一つの詩がつくられ、役者は一人の人間であるよりも、その詩の音律の演奏者にすぎなくなる。だから言葉だけが舞台の空間にうかんで、人間はその抒情を支える存在になってしまうのである。

言葉のメカニズムが人間の存在を稀薄にし、詩や音楽につながってくる。

〜と評しています。

う〜ん、なるほどねえ。。。

よくよく観劇中の自分の内面を思い返してみても、確かに割ぜりふや渡ぜりふが始まると、自分の中でドラマを観るモードはいったんストップして、歌か何かを聴くようなモードに切り替わってますもんね。。。

(ただ、この件に関しては、「それの何がいけないの?」と言う想いも正直言いますと自分の中にはありまして。人間やドラマを描くことだけが演劇の役目ではないだろう、抒情や音楽にただ身を任せてしまう演劇空間があってもいいじゃないか、みたいな。。。)

続けて③④について触れる前に、黙阿弥の来歴を作劇に関連する点を中心にざっくり見ておきますとー

文化十三年(一八一六)二月三日、黙阿弥は、日本橋通二丁目式部小路に生まれました。
生家は湯屋株を扱う裕福な商家、黙阿弥はそこの次男坊です。

十四歳にして柳橋で芸者あげての遊びを見つかるなど、若いうちから道楽が過ぎて勘当され、貸本屋の手代、俳諧の点者、茶番集の作者など経験したのち、五代目南北(四代目の大南北の孫)に弟子入りします。

二十八歳の若さで立作者に抜擢され河竹新七を襲名するも、しばらくの間は旧作や小説の脚色のみで代表作もなかったところ、小団次と出会って以降「忍の惣太」「三人吉三」「十六夜清心」など次々とヒット作を飛ばしたのは、先述のとおりです。

明治維新後、小団次が亡くなってからは、団菊左(明治の歌舞伎界・劇界を支えた団十郎・菊五郎・左団次)のために「河内山」「魚屋宗五郎」「幡随長兵衛」などの作品を提供し、これまた次から次へとヒットさせます。

欧化政策を進める中で歌舞伎を海外にアピールするものに改変したい明治政府、産官学の要人とつながりを持ちたい座元の守田勘弥、役者の地位向上を図りたい団十郎、歌舞伎座開設に執念を燃やしていた福地桜痴などの思惑により始まった、いわゆる演劇改良運動が盛り上がる中、新七も率先して散切物や活歴物と呼ばれる作品を生み出してはいましたが旧弊だと非難されることも多く、名を黙阿弥と号して一度引退をします。

が、当時の歌舞伎界に黙阿弥ほどの実力がある劇作家は他におらず、演劇改良運動自体も成功とは程遠い状況に失速する中でやはり黙阿弥は求められ続け、以前にも増して活発に創作活動をし、明治二十六年一月、七十六歳で亡くなりました。

ざっくりざっくりではありますが、こんな感じで黙阿弥の生涯について振り返ったうえで③④について見ていくことにしますと、

③ 黙阿弥作に見る近代劇の発露

渡辺氏は、明治維新以前の、まだ小団次と組んでいた頃から、黙阿弥作品には近代劇につながる新しさがあったと述べています。

劇場へ踏みとどまった黙阿弥は、演劇よりも演劇のなかの言葉を信じた。

劇場(室内)にこもり、鋭敏な言語感覚によって言葉のみの世界をつくり、しかも典雅な古典的な世界を日常化し、卑俗化していく。これはあきらかに近代的な意識の所産であり、古代、中世から近世の江戸時代までうけつがれてきた演劇の呪術的な力を放擲否定して、新しい空間をつくろうとする改革であった。

バルザックが当時の貧民を描き、ゴーリキーが「どん底」に生きる人々を描いたように、黙阿弥もまた当時の社会の「どん底」を写実的に描いたところに新しさがあった。

「三人吉三」は、たしかに古めかしい因果噺としての側面をもっている。しかし「三人吉三」がすぐれているのは、単に因果噺としてよく出来ているからではない。家族のドラマ、それも「家」が崩壊していくさまを克明に描いた芝居だからである。

重要なのは生き残った三人の吉三が一つの家族をつくったという事実である。そこにこそこの芝居のポイントがある。

黙阿弥が興味をもっていたのは、世間や体制が「悪」とするもののなかにひそむ矛盾であり、人間性であった。それは決して人間は「性は善なる」ものだとか、「悪に強きは善にも」といったことではない。社会の体制のなかでやむなく、「悪」とされるものを抱え込んでしまうメカニズムなのである。

そして明治維新を迎え、黙阿弥は率先して新しいタイプの作品を生み出していきます。

黙阿弥は、だれよりも早く、新しい時代を描くことに意欲的に手をそめ、それを「繰返」したのである。

それは、近代劇の先駆となったエミール・ゾラの戯曲「テレーズ・ラカン」が「東京日新聞」と同年に上演された(原作の小説は一八六七年に発表された)ことを思えば、単に日本文学史ばかりでなく、世界の文学史のなかでも注目すべきものだったのである。ストリンドベルヒはまだ活躍していないし、チェーホフは子供にすぎなかった。それを思えば、黙阿弥のこの二作がたとえ歌舞伎色のつよいものであったとしても、そこにこめられた新しい現代劇をつくろうとした意味は、今日私たちが想像する以上に大きかったといわなければならない。

黙阿弥がそれまで生きてきた歌舞伎の世界の真実は、美しさ、色気にあって、現実の「実説」のリアリティではなかった。「実説」をひっくりかえしたところにあらわれる虚構の美しさ、面白さが舞台の上の真実だったのである。「狂言綺語」の世界とは、そういう虚構が真実である世界であった。だからこそ歌舞伎は色気を大切にした。
(しかし黙阿弥は「東京日新聞」でその色気を捨て、「実説」の真実を描いた。)
この黙阿弥のとった選択は、ほとんどのちの近代劇の思想の原点であり、これが黙阿弥にとって現代を描こうとした意図の結果であったことはいうまでもない。

しかし演劇改良運動が盛り上がる中で、運動の推進役だった学者の依田学海他から馬鹿だの旧弊だのと非難され、歌舞伎界の人たちも黙阿弥を援護しないばかりか、学海らのもとに足繁く通うようになります。

黙阿弥の挫折感は大きかった。
折角新政府の方針にしたがって新しい市井の現代劇を書こうとしたにもかかわらず、その新政府への期待は裏切られ、座元の守田勘弥をはじめ、市川団十郎らほとんどの役者たちが貴顕紳士に近づこうとし、黙阿弥の努力をかえりみる者はいなかった。『学海日録』は、黙阿弥をのぞく新富座の人々がこぞって学海邸の門をくぐったことを記録している。その流れがやがて演劇改良運動に発展し、黙阿弥糾弾になる。

こう言った流れを受けて、

④ 黙阿弥の描いた「江戸」とはなんだったのか

を考えていくことになるのですが、渡辺氏は、上野で開催された内国博覧会にぶつける形で上演された「天衣紛上野初花(河内山)(直侍)」のセットや衣装、劇中に流れる新内などを検証し、そこに江戸の生活の細部、リアリティが省略されてしまっていることや、逆にステレオタイプな江戸情緒的表現が埋め込まれていることを見たうえで、

黙阿弥は自分の描いた「江戸」がもはやつくりものでしかないこと、そしてつくられた「江戸」であることが意味を持つことを十分に知っていた

むろん黙阿弥はノスタルジイで、そんなことをしたのではない。第一には「江戸」を後世に、なによりもこの文明開化の近代社会にのこそうとしたのであろう。しかしそれは表向きの理由である。そのかげにかくされた本当の理由は、博覧会のために上京してくるお上りさんへの批評であり、その博覧会を主催して国内の安定を計ろうとしている新政府への、そして自分を追いつめている演劇改良運動への、なによりもそういう時代への批評であった。

私たちが今日「江戸」だと思っているものは、こうしてつくられたものが多い。全てがそうだとはいわないし、その全てが黙阿弥がつくったともいわないが、少くとも「直侍」に「江戸」を感じるとしたらば、その一半はこのつくりものによっていることは事実である。
黙阿弥は「江戸」をつくり、その歴史をつくった。その幻想の歴史こそ「直侍」の本質であり、それを「江戸」として受けとった近代に対する、これは黙阿弥の復讐であった。

と述べています。

これねぇ。。。
自分も薄々そう感じてたんですよねぇ。。。

一人黙阿弥に限ったことではないのですが、明治以降現代に至るまで、後世に描かれた「江戸」と、実際に江戸時代に書かれた本などを読んでいて感じる「江戸」との間にずいぶんと乖離があって、おそらく自分たちは後から作られた江戸観でしか「江戸」を見ていないのではないかって。

とは言え、「江戸」そのものは今に残っていないし、江戸時代の人たちと全く同じように「江戸」を感じることもおそらく今の自分たちにはできないわけで、つくりものだったとしても、江戸情緒や江戸趣味を楽しむしかないじゃないか、それのどこが悪いのさ!
と、そう思っていたところ、渡辺氏の次のような指摘にぶつかりまして、

近代に出会い、生きた黙阿弥の営々たる苦闘を否定したのは、さきに演劇改良論者たちであり、のちに永井荷風であった。そういえば、読者には荷風こそ黙阿弥の賛美者ではないかという疑問が出るだろう。たしかに荷風は、黙阿弥は古いという世間のなかで黙阿弥を認めた数少ない文学者の一人であった。問題はその認め方にある。荷風は黙阿弥の部分を認め、全体を認めようとしなかった。つまり黙阿弥の生きた苦闘の全体を認めなかったのである。
荷風が愛したのは極端にいえば江戸の黙阿弥であって明治の黙阿弥ではなかった。この視点こそ荷風がパリやニューヨークで得たものであり、その後に進展した近代の思想であり、そして現在の私たちまで規制している視点なのである。こういう心酔者を得たことが黙阿弥の不幸であったことはいうまでもない。

これを読んで、自分、ガツン!と殴られたような衝撃受けました。

確かに確かに、自分、まさに荷風が大好きでして。

自分の江戸好み、江戸趣味の何割かは荷風の影響受けてるんです、実際に。

黙阿弥は江戸に生き、しかし一度は江戸を捨てた人間である。荷風は江戸ではなく日本全体を捨てようとし、結局は江戸(東京ではない)におのれのアイデンティティを見出した人間である。

荷風の主張したのは黙阿弥のなかに黙阿弥の捨てようとした虚構の美しさ、色気を発見することであった。黙阿弥の転換しようとした百八十度の方向を、全く逆の方向へ百八十度転換してもとへ戻す逆コースである。

問題なのはこのような近代的な荷風の黙阿弥享受の態度が一つの典型として、今日の黙阿弥評価の中核をなし、それを支配しているという現実である。実に一世紀にわたって私たちは荷風の視点をもって黙阿弥を見、その視点からのがれられなかった。

ああ!もう、これは降参するしかありません!

もう本当に渡辺氏仰るとおり、歌舞伎、落語、お相撲、邦楽、戯作、浮世絵その他、自分の江戸趣味江戸好みは、荷風同様になんかしっくりこない、そしていけ好かない現代社会からの逃避です。

そしてそのために都合のいいものの都合のいい面だけを都合よく解釈しているー
そのとおりだと思います。

歌舞伎や浮世絵のカッコいいところ、江戸のカルチャーの凄いところばかりに注目し、江戸の良くない面や未開なところ、あるいは江戸の闇については見て見ぬ振りをしているー。。。

確かに、そうかもしれませんね〜

正直、これだけガツンと言われても、逃避としての自分の江戸趣味は変わらないですし、荷風への敬愛も今までどおりではあります。

ですが、「江戸」に逃げ江戸情緒に淫し江戸趣味に溺れても、江戸の、歌舞伎の、落語の、その他江戸的なものたちの、本質が何なのかと常に考える、全体に対する視線は必要だな、とか

大好きな江戸を終わらせた、そして自分にとっていけ好かない現代のもとを作った、明治時代ってあまり好きじゃなかったんですが、「江戸」を相対的に把握するためにも、明治時代に対する理解って必要だな、とか

バーン!と視野を広げられ、学ばなきゃいけないこともドドーン!と増やされたような、そんな読書体験となりました〜!(^ ^)


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北千住 艸

その角曲がってすぐの江戸

歌舞伎、落語、浮世絵、和服、端唄、都都逸、戯作、相撲、蕎麦屋飲み。江戸に関わる好きなものや趣味をあれこれと。
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