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自然

物心つかぬ心が
答えの決まった無数の問いに
呑み込まれ

後々、はっと気づいたら
化けの皮がぴたりとついて
あれれれれ、脱げないぞ

慌てず騒がず、落ち着いて
深く深〜く、深呼吸
さて、呼吸するは誰ぞ

そんなことも知らないのかい
と自然が目を丸くする
たじたじになった
心が笑顔を取り戻す

おひさま、おかげさま
そんなこんなで時は巡る
無数の色に彩られ
透明な心が踊りだす

 自然について、人間はどう考えて来たかは、哲学や思想の歴史を辿り、何冊かの本を読めば、その概略を知るのはそう困難とは思えない。私もそれを試みたことはあるが、今ここに述べてみても意味がないし、受け取り方によっては望ましくない方向へと考えが行き着き、諦めの境地が出来てしまう虞さえある。例えば、人間が好んで自然に対立し、支配しようとしているわけではなく、そういう行動を現にしている人間も自然のうちに包含されている、という考えである。何だか急に空高く舞い上がって、人間の営みすべてを鳥瞰しているような気分にもなれるだろう。

 だがそんな境地に安住して、なるようにしかならない、人間はすべて自然のままに生かされ、操られているなどと思ってしまっては少々困るのである。人間はどんどん贅沢になり、尊大にもなり、不必要なものを捕ったり作ったりして、それが余れば惜しげなく捨て、勝手気儘な行為を次第に増幅して行くが、それは自然である。こういうことになると、人間はどうすればいいのか。

 私としての願いを書かせて戴くとすれば、結局は私達一人一人が自然との対話の出来る様な心を持つことである。詩や童話の中では、人間が動物や植物に語り掛け、流れる雲に呼び掛けるが、その気持ちでいい。そしてこの対話は無言であるがために自由である。ただ動植物も雲も水も、呼び掛けや語り掛けに対して答えてくれないからと言って、その返答を勝手に創ってしまうことは慎まなければならない。辛抱強く待ち、またこの対話を習慣とするようになれば、問うものには必ず答えてくれる。それは特別の技術を必要とするものではない —— 自然からの答え ——  串田孫一