復讐者

平和な我が国では今日も少女が人を刺し、無職が爆破を予告する。

いじめを苦に自殺した子供に対し、「死ぬ勇気があるのなら復讐すればいい」などと呑気なことを宣う人間は多い。しかしその復讐の対象に、自分が入っていないと一体何故確信できるのだろう。

死刑を望み、或いはそれを顧みずに無差別な殺傷事件を起こす人間は後を絶たないが、思うに彼に対する「死にたいなら一人で死ね」などという発言は、あくまで自分は部外者であるという傲慢な意識が生み出した、全くもって的外れなものだ。彼にとって部外者などというものは存在しない。誰でもいいとは裏を返せば、誰もが復讐の対象であるということなのだ。世界の全てを恨んで生きている人間が自身の命を顧みることをやめたとき、最早彼を止める手立ては存在しないのである。

とはいえ当然ながら、現実に彼による被害を受けた人間の立場からすれば、到底彼を復讐者などと認めることはできないだろう。被害者にとり彼は不条理そのものであり、明確な悪である。しかし法律はその構造上彼の凶行を未然に防ぐことが出来ず、また我々は彼の復讐の対象から逃れることが出来ない。

ならばどうするべきだろうか。けだし、彼のような不条理に対抗し得る唯一の手段は、自ら不条理を体現することである。つまり我々は彼の復讐を受けても納得出来るほど主観的に悪人であるべきであり、誰からの同情も得られないほど客観的に悪人であるべきなのだ。それは何も無差別な殺傷事件に限った話ではない。是非に及ばず悪人であることは、不条理に溢れたこの世界の在り方に納得するための、おそらくは唯一の処世術である。

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