半生

特に節目でもないし何があったわけでもないが、需要があるようなので半生を振り返ることにする。

幼児期
1997年10月13日、横浜市内の病院にて生まれる。臍の緒が首に巻き付いており危険だということで、帝王切開による出産が行われた。生まれる前から自殺を試みるとは気合いの入った胎児である。

当初は両親との3人暮らしだったそうだが、物心のつく前には厚木にある父方の実家に移住し、私と両親、祖父母と伯母の二世帯で暮らすことになった。

最も古い記憶は、横浜にある母方の祖母の家に居着いた元野良猫のシロが、居間の椅子の下に隠れているのを這って近付き触ろうとしていたときのものである。これが恐らく2歳か3歳の頃だが、当時既に父は鬱病をこじらせて会社をクビになり、毎晩酒に溺れては壁に穴を空けていた。そのような人間に子育てが務まるはずもなく、また母は無職の父の代わりに働き詰めであったから、私はほとんど伯母に面倒を見てもらっていたのだが、これはあまり良くなかった。

伯母は少しおかしな人間で、若い頃は海外アパレルの輸入か何かでバリバリに稼いでいたらしいが、何かの拍子に目覚めてしまい、仕事を辞めて占い師になっていた。私は彼女に愛されていたはずだが、どうもその愛は人間の子供というよりも愛玩動物に対するそれに近かったように思う。仔細はあまり覚えていないし、なにか決定的な事件があったわけでもないのだが、一時期私は毎晩寝る前に「神様どうか伯母さんを殺してください」と願っていた記憶があるので、そんな感じだったのだろう。

また祖父もこの頃から少しおかしくなっていて、家族全員の行動(起床時間や出勤時間など)を全て事細かにメモしており、そのために私たちは常に監視され、どこに行って何をしていたかの詳細な報告が義務付けられていた。酷いときなどは、遊びに行っていた友人の家までわざわざ様子を見に来るような有様であった。彼は士官学校を首席で卒業し、帝国陸軍解体後も陸将にまで登り詰めた超がつくエリートだが、国のために働くことしかしてこなかったために色々と欠落していたのだろう。私は彼を尊敬しているが、父が壊れたのは間違いなく彼のせいであり、私の人生の苦しみの大半は(今でこそ克服しているが)彼に壊された父のせいなので、複雑な心境である。

幼稚園に入るまではコミュニケーションの相手がほとんど伯母のみで、しかもその伯母が変人であったため、今にして思うと周りの子供より発達が遅れていた。入園式では私だけじっとしていられず大騒ぎした記憶があるが、友人ができてからはそこまで苦労せずに遅れを取り戻せたように思う。近所に雑木林があったためか当時の私は昆虫に夢中であり、ここで育んだ自然や生き物に対する興味は今なお失われていない。三つ子の魂百までとはよく言ったものである。ちなみにこの雑木林は後年切り開かれた挙句に放置され、雑草にまみれた空き地となってしまった。

小学生
低学年の頃の記憶は殆ど残っていないが、相変わらず父は毎晩酒を飲みながらテレビやら扇風機やらを破壊しており話にならず(彼は狂っていたが空手の有段者であり、直接的な暴力を振るわないという一線は守っていた)、やはり伯母に面倒を見てもらっていた。友人は人並みにいたがアニメやゲームの制限が厳しく、あまり会話についていけなかったことを覚えている。

ストレスのためかこの頃から強迫性障害とチック症を併発し、階段の段数が気になって教室に辿り着けなかったり、部屋の物の配置をミリ単位で調整して寝不足になったり、変な音を立ててはクラスメイトに怪訝な顔をされるようになった。当時に比べればかなりマシにはなったものの、これら(特にチック)は未だに完治していない。

4年生(3年生だったかもしれない)になり家族共用のパソコンを使えるようになったが、そのために私はすっかりオタクになってしまった。今でこそ誰もが幼少期からサブカル趣味に触れる機会があるが、当時はまだ一般人とオタクの隔たりが大きく、『電車男』あたりから潮目が変わりつつあったとはいえ、依然としてオタクへの風当たりが強い時代であった。そのような世論を内面化した私はすっかり卑屈なキモ・オタクと化しており、友人も少なく、女子とは目も合わせられないような有様で、ニコニコ動画と2chを周回する毎日を過ごしていた(しかもROM専というのがしょうもなさに拍車をかけている)。

しかし小6で転機が訪れた。というか、見事にグレてしまった。我々の世代では既に不良は絶滅危惧種だったが、まだ各クラスに1人くらいは絵に描いたようなヤンキーが生き残っており、まさに絵に描いたようなT君を中心にグループが形成され、いつの間にか私も仲間入りをしていた。当初はT君の家のゴツいウーハーで「もってけ!セーラーふく」を流すなどよくわからないポジションであったが、段々と染まっていき、AK-69やらCHEHONやらINFINITY16やらを聴くようになった。幼馴染とは縁を切られ、クラスメイトの母親には「ウチの子とは関わらないでください」と釘を刺された。

不良とつるむと謎の自信が湧いてくるものである。またクラスの余興で行った腕相撲大会で1位になったことも重なり、「強さ」への憧れが芽生え、この頃から筋トレに励むようになった。(そのために身長が伸びなかったのではないかとよく言われるが、幼児期に観た『千と千尋の神隠し』の冒頭で両親が豚になるシーンがトラウマとなり、満腹になることを無意識に避けるようになってしまったことが原因だと私は考えている)

ちなみに父は相変わらず狂っていて、仲の悪い伯母に刃物を向けたり、義兄(母の兄)の書いた本をビリビリに引き裂いたり(義兄は一橋、義弟は東大を卒業しており、ただでさえ祖父へのコンプレックスを抱えていた父は彼らを目の敵にしていた)、死ぬために家を飛び出そうとして母に必死で止められたりしていた。ハッキリ覚えているがこの際父は「さっさとこんな人生に終止符を打ちたいんだよ!!」と叫んでおり(彼は演技性人格障害の気がある)、それを受けた母は「スイカ!!スイカ切ったから食べて!!」などと頓珍漢なことを言っていた。私はこうした一切がもうかなりどうでもよくなっており、味のしないスイカを頬張りながら無感情でその光景を眺めていた。結局母の静止を振り切った父は翌朝泥酔状態で帰宅し、そのまま鼾をかいて爆睡し始めたため、いっそ殺してやろうかとしばらく本気で悩んだが諦めた。

中学生
私の通っていた中学は8割が同じ小学校からの入学生だったので、体感としては進学というよりも進級に近かった。小6から中1にかけては最も荒れていて、しょっちゅう別室に連れて行かれては説教を受けていたし、親を呼び出されることも何度もあった。時折母は泣いていたが、ハッキリ言って私は両親に育てられた覚えがないため一切心が痛まなかった(今にして思うと母は本当に苦労してきたのだろうが、それは主に父のせいであるためやはりイマイチ心は痛まない)。また父は父で変なので、喧嘩で相手の歯を折ったときは叱るどころか「勝ったなら良し」と褒めてくれたが、彼は食器を運ぶ際に音を立てただけで激高するような人間なので、そのときの気分次第なのだろう。

私の育った厚木市は神奈川の人間に出身を伝えると「ああ、あの厚木ね」と反応されるほどに治安が悪かったが(ついでに熊や猪も出没する)、つるんでいた同い年の不良にそれほどのワルはいなかった。しかし先輩にはタチの悪いのが多く、シンナーでよくわからないことになっていたり、つまらない理由で身内にヤキを入れたりとかなり居心地が悪かったので(ご存知の通り不良は年功序列の縦社会である)、私は次第に彼らから離れていった。

3年になると人間関係が一新し、この頃にできた友人とは今でもよく飲みに行く仲である。彼らは所謂ヤンキーではないがやはり遵法意識が欠落していて、万引きしたヘアワックスやコンドームを安価でクラスメイトに売り捌いたりしていた。高校受験を意識し始めた私は非行を大人に悟られないようにする術を身につけ、教師の言うことを素直に聞いているポーズが取れるようになった。また何故か音楽教師に気に入られ半ば強引に合唱団に参加させられたが、殊の外楽しく自分でも驚くほど真面目に取り組んだ。

高校生
何としても徒歩圏内の高校に通いたかった私は、絶望的な内申点を補って余りある学力を身につけ無事に志望校に合格した。後にも先にもあれほど勉強を頑張ったことはなく、そのために入学当初は学年2位の成績であったが、数Ⅲで挫折してからはどうでもよくなり落ちぶれてしまった(それでも国語と英語はトップをキープしていた)。軽音楽部に入ってバンドを掛け持ちし、最終的には部長になったりした。学校外でも時折ライブハウス等で演奏していたが、正直金を取れるレベルではなかったように思う。

この頃から父の鬱病がマシになり復職したが、今度は過干渉が始まってしまった。彼としては今まで父親らしいことができなかった分を取り戻そうとしているのだろうが、こちらとしてはたまったものではない。説教に次ぐ説教、監視に次ぐ監視が行われた。また同時期に祖父が徘徊を繰り返した挙句転んで頭を打って死に、亭主に先立たれ一気にボケてしまった祖母は壁に排泄物を塗り始めた。彼らの介護をしていた伯母は憔悴しきって無理心中を企てるし、母はストレスで記憶障害になった。私は解離症状に悩まされ1時間毎に下痢をするようになり、気が狂って自分の爪を剥がしたりした。

しかし私は友人にだけは恵まれていた。高校内ではほとんど人付き合いをせず、中学の頃から仲の良い連中とばかりつるんでいたが(これは大学進学後も同様であった)、彼らがいなければ本当にどうにかなってしまっていたと思う。釣りに行ったり、真冬の海で泳いだり、ボロのママチャリで10時間かけて山中湖まで行ったりした。精神的に一番キツかったのがこの時期だが(これは19で通院を始めるまで続いた)、一番楽しかったのもこの時期だったと思う。私は今のところ歳を重ねるごとに幸せになり続けているが、刺激的な楽しさと幸福度は必ずしも一致するものではない。

大学生
なんとか受験勉強をこなし、第一志望には落ちたものの納得のいく大学に入学することができた。1年生の頃はかなり順調で、上限マックスで履修を組んだ上にフルで単位を取ることができていたが、2年生の途中から雲行きが怪しくなってきた。朝起き上がることができない。目は覚めているが身体が鉛のように動かない。にも関わらず、「ジェットコースターで落下中」のような脈拍と息苦しさ、更には全身の強張りに見舞われるのである。また以前から続く離人感に加え、露骨な希死念慮と、パニック発作に襲われるようになった。初めて発作が起きた際は「ああ、ここで死ぬんだ」と本気で思ったが、慣れてしまってからは「はいはい、またですか」といった具合である。当時私は満員電車で倒れそうになる度に途中下車し、カフェで一服していたのだがこれは非常にまずかった。私は体質的にカフェインが合わないようで、コーヒーを飲むと不安と焦燥感に駆られ呼吸が浅くなるのだが、まさにそのような状態のときばかりカフェに逃げ込んでいたため、カフェインがそれを誘発ないし悪化させていることに気付けずにいたのである。卒業後しばらくしてからこれに気が付いたときは愕然とした。悔やんでも仕方がないが、これは私の人生で最大の失敗と言っていいだろう。

そんなことだからものの見事に単位を落とし続けた。家庭環境は以前よりは大分改善されたが、既に自然には癒えない傷を心に負ってしまっていたようで、いつの間にか思考の大半を自死が占めるようになっていた。自分では気付かないが当時は顔つきもおかしかったらしく、いつも軽口を叩いていた友人にさえ本気で心配され始めた。

またこの頃からツイッター(現𝕏)で他人と交流するようになった。音楽の趣味が異常に合う人間を偶然見つけたのがきっかけだが、鬱病みたいなツイートばかりしていたら鬱病みたいなフォロワーがどんどん増えていった。彼らにも酷く心配され何度も通院を勧められたものの、この時点ではまだいまいち病識を持てずにいた(というよりも自分が父と同類であることを認めたくなかったのだと思う)。

ある寒い日、首を吊るのに手頃な木を探して近所の雑木林へ歩く道すがら、路傍の鉢植えで育つサボテンを見て何故だか涙が止まらなくなってしまい、そこで初めて自分が病気であると認めることになった。通院を始め診断が下りてからも母以外の家族には隠し続けていたが、昼過ぎになっても起きてこない私に腹を立てた父に叩き起こされた際、いよいよ耐えられなくなって打ち明けてしまった。このとき、彼の第一声が「俺のせいかよ?」だったことには正直かなりのショックを受けたが、むしろこの一言のおかげで私はようやく目を覚まし、彼に父親としての在り方を求めることを完全に諦めることができた。今の私がもはや彼を恨んでいないのはそのためである。

治療は上手くいった。そしてこの頃から私はフォロワーと実際に会って遊ぶようになった。年齢も育った環境も掛け離れた人間と触れ合うのは新鮮で、ここにきて世界が一気に広がったように思う。大学生活も何とかこなし、ギリギリ留年せずに卒業することができた。元々勉強は嫌いではなかったので卒論などはかなり真剣に取り組んだが、そのために指導教授には「君は就職とか向いてないから院進して好きな研究をしなさい」とまで言われてしまった。(これは文学者としては最上級の褒め言葉だと認識しているが、既に彼はサバティカルで数年間海外に行くことが確定していたため、あまりにも無責任だと思う)

3,4年次はリソースの全てを留年の回避に費やしていたので、就職活動などをする余裕は一切なかった。実のところ私は当初高校教師を志していたが、教職課程の授業中に発作を起こし嘔吐して以来色々と諦めてしまい、そもそも就活のモチベーションが皆無であったことも相まって、大学構内で行われる説明会にすら一度も参加したことがないという体たらくであった。当然卒業が確定してからも進路は決まらず、適当な派遣で食い繋ごうかと考えていたところ、とあるフォロワーに仕事を紹介された。

無職
大学を卒業してから3年間、私は無職を自称していたし実際に書類の上では無職だったが、フォロワーに紹介された"履歴書に書けない仕事"を続けることになった。無論そのような職場に集まる人間などはどいつもこいつもロクなものではなく、仕事中にブロンをODして動けなくなってしまうポン中(元強盗犯で同僚の元看護師に注射を打たせており、最終的にはその同僚から金を借りて飛んだ)や、住所も保険証も持っていない170kgの上司、ホストにハマって同僚の金を盗んだ挙句自殺した後輩に、自身が行った拷問の動画を笑いながら見せてくる地下格闘家などめちゃくちゃであったが、基本的には気さくな連中であり、中には素直に尊敬できるような人間もいて居心地は良かった。そして何より楽に金を稼げた。時給に換算すると8000円ほどになり、マトモな仕事をするのが馬鹿らしくなってしまった。しかしこんなことをいつまでも続けるわけにはいかないとは常々思っていて、一刻も早く履歴書に書ける仕事をしなければと焦っていたところ、またもやフォロワーに仕事を紹介された。

フリーター
そうして去年の6月からラブホテルの清掃を始めた。勤務日数は以前の4倍、手取り額は半分以下になったが、負い目なく金を稼ぐのは気持ちの良いものだ。マトモな社会人に比べたら大きく出遅れてしまったが、着実に人生が好転している実感があるので、この調子で前に進んでいきたいと思っている。当面の目標は、週5日で働くことを苦としない体力と、精神力を身につけることである。

改めて人生を振り返ってみると父による影響の大きさを痛感して苦しくなるが、今が幸せなので全ては些事だろう。私はあまり向上心がないので、現状に甘んずることを是としているのだが、無論その現状を維持するだけでも絶え間のない努力が必要不可欠である。ようやく手に入れた、というよりはほとんど与えられた今の幸せを、私は絶対に手放すわけにはいかないので、そのための努力に関してはなるべく嫌な顔をせず、懸命に続けていこうと思う。


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