労働

私は労働を嫌悪する。学生時代より鬱病とパニック障害を抱えていることや、そのために教職に就く夢を諦めてしまったこと、或いは労働で壊れてしまった父親を見て育ったことなどそれらしい理由はいくらでも挙げられるが、私はもっと根本的に、労働というシステムそのものを嫌悪している。

少し話は逸れるが、風俗業従事者や援助交際を行う人々に対し、「自分の身体を大切にしなさい」という旨の発言がなされることは多い。また同時にそれらを利用する客に対して、性的搾取であるとか、公然と行われる犯罪であるといった批判(尤もこれは事実である)が向けられることも、人権問題の提起が盛んな昨今においてはとりわけ目にする機会が増えたように思う。ともかく私の知る限り、売春行為は少なからず不純であり、危険であり、卑しいものであるという認識が、世間では昔から当たり前のようになされている。

しかしどうしてそのような行為が不純と言えるのだろうか。労働とは本質的に、個人の尊厳と時間と体力の切り売りである。これはどれだけその個人が自身の従事する労働に誇りを持ち、またそれがどれだけ広く社会に受け入れられていようと揺るがない事実である。そしてそうであるならば、売春行為は極めて正当な──事実人類最古の職業は娼婦とされている──労働であり、これを不純とするのであれば、同時に労働と名のつく全ての行為を不純としなければ辻褄が合わないだろう。

思うに、売春行為を卑しいと非難する手合いは、自身の従事する労働の売春性から(自覚せずとも)目を背けようとしているのではないか。身を削った努力が美徳とされる世の中において、直接身体を用いて金銭を得る行為が不道徳とされてしまうのは大きな矛盾である。実の所、全ての労働者は娼婦なのだ。そして同時にほぼ全ての労働者は、その事実に気付かないまま懸命に働いている。更にはそのような行為が、我が国ではあろうことか国民の義務とされているのである。私はこのグロテスクな現状を、労働そのものを嫌悪する。

しかし現実的な問題として、資本主義社会に生きる我々が労働から離れて暮らすのは至難の業である。私は心の底から働きたくないので、学生時代に就職活動なるものの一切を放棄した結果、順当に無職になってしまったわけだが、今日に至るまではとあるフォロワーに紹介された「金の成る木に水をやる作業」に勤しむことでなんとか食いつないできた。しかし先日この木が不可逆な枯れ方をしてしまい、正直言って途方に暮れている。こうなれば当然何かしらの労働を始めなければならないわけだが、重ねて言うように私は労働そのものを嫌悪しているので、大変な苦痛である。既にある程度は観念して時折求人サイトを睨めつけたりしているものの、時給に換算して約1万円の「水やり」を3年も続けてしまった代償は余りにも大きい。これまで必死に見て見ぬ振りを続けてきたが、何も積み重ねずに楽をして生きてきたツケを、払わされる時が遂に来てしまった。


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