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料理の鉄人陳建一死去 料理をエンターテイメントにした、フジTV『料理の鉄人』

鉄人陳建一死去。

人気テレビ番組「料理の鉄人」の「中華の鉄人」として知られる料理人で、四川飯店グループ会長の陳建一(ちん・けんいち、本名・東建一=あずま・けんいち)さんが11日、間質性肺炎のため、死去した。67歳だった。

世間の人が知ったのは、料理の鉄人に尽きる。

この頃未だフジTVが元気だった頃。1993年10月10日1999年9月24日
企画のセンスも時代を捉えていたのかもしれない。
今は??


■陳建一が明かした『料理の鉄人』への思い…「鉄人の中では一番弱かった」と話す理由 「料理は愛情」

週間現代 取材・文/丸山あかね 2023.03.15

3月14日、料理人の陳建一氏が亡くなっていたと報じられた。テレビ番組『料理の鉄人』に出演したことで一躍有名になった陳氏は、四川飯店グループのオーナーシェフとして、四川料理の普及や後進の育成に努める一方で、講演やイベントなどにも精力的に参加していたという。

今年1月に『週刊現代』に掲載されたインタビューから、その半生をたどってみたい。

皿洗いから始めた
本格的に赤坂の「四川飯店」で働き始めたのは1978年のこと。ただ、父は僕に甘くて早い段階から料理を覚えさせたかったようで、いきなり調理場を担当しろと言われました。
オーナーである父から言われたら料理長は断れないので困っていたと思いますよ。だけど僕は「先輩達と同じように皿洗いからやらせて欲しい」と父に頼みました。将来、オーナーになるなら、すべての仕事を体験していないとダメでしょう? 下働きをしていない人間が人を育てられますか? 優遇された結果、苦労するのは目に見えていると思ったんです。

実は父から料理を教わったことはないんです。父や先輩達の姿を見て、味を覚え、見様見真似で腕を磨きました。
それに母の影響も強いです。母は「環境に甘えちゃいけない」「裸の王様になったら終わりだ」「人間はどんな時も質素に生きなくてはいけないよ」と言っていました。ただ、言っていることとやっていることは違っていて(苦笑)。自宅の下駄箱の中には高級ブランドの母の靴がズラリと並んでいました。まるでイメルダ夫人みたいでしたね。

時を同じくして『料理の鉄人』もスタートしました。出演のお話をいただいた時、最初は断りました。でも段々と面白そうだなと思うように。だって原価計算しないで料理を作っていいだなんて夢みたいな話です。

約6年間で94戦68勝。19連勝という記録は作りましたが、鉄人の中では一番弱かったんです。忘れられないのはある若い女性の挑戦者に負けた時。悔しいやら情けないやらで、まっすぐ家に帰る気になれなくてねぇ。多摩川の河川敷で石ころを投げながらボーッとしていました。

人気番組の影響もあって店は大繁盛したけど、僕は怖くてしょうがなかった。スタッフに「これは俺達の実力じゃない、勘違いするなよ」と再三伝えていました。

ですが鍋を振る回数が増えれば、その分、センスや技術は磨かれます。そういう意味では、自分にとっても、後進育成においてもいい経験となりました。『料理の鉄人』はいろんな意味で僕を成長させてくれた番組です。感謝しています。



■その勝敗は国民的関心事となった! いまこそ伝説の人気番組『料理の鉄人』を語ろう

週刊現代 道場六三郎×坂井宏行×陳建一    2015.12.13

道場 
毎回、挑戦者が鉄人の一人を指名して勝負を挑む。プロの料理人としてお互いの店の看板と、己の腕を懸けて戦う「真剣勝負」こそが、あの番組の売りだった。漫画『美味しんぼ』の世界をテレビで実現したわけだ。


道場 
『鉄人』は、エンタメとしてショーアップはされていたけど、料理人の「本気」と「本気」がぶつかり合っていたからね。だから視聴者の心を掴んだのだろう。


【概要】

料理の鉄人』(りょうりのてつじん)は、1993年10月10日から1999年9月24日までフジテレビ系列などで放送されていた料理をテーマとしたバラエティ番組。


料理・グルメ漫画などのフィクション作品で描かれる「料理人同士の対決」を現実に行うというコンセプトで始まった。架空の団体「美食アカデミー」の主宰が美食への追求とそれを生み出すに相応しい料理人を求め、美食アカデミー所属の"料理人=鉄人"と挑戦者を対決させると言う設定で番組は構成されている。

1995年には23時台の放送でありながら20%弱の平均視聴率を稼ぎゴールデンタイムの番組にも勝る結果になった。
最高視聴率は、1995年3月31日に放送されたスペシャル「完全なる料理の鉄人 香港決戦」で23.2%。
同年にはATP賞グランプリを獲得したほか、海外での放映もスタートしエミー賞にもノミネートされるなど番組は絶頂期を迎える。


★中華の鉄人

陳建一(ちん けんいち)
鉄人在任期間…1993年10月-2002年1月
対戦成績…94戦68勝23敗3分 連勝記録19 勝率72.3%

★フレンチの鉄人

初代:石鍋裕(いしなべ ゆたか)
鉄人在任期間…1993年10月-1994年1月
対戦成績…8戦7勝1敗 連勝記録4 通算勝率87.5%(現役時代の勝率は80.0%)

二代目: 坂井宏行(さかい ひろゆき)
鉄人在任期間…1994年2月-2002年1月
対戦成績…87戦70勝16敗1分 連勝記録8(3回達成)[注 9] 勝率80.4%

★和の鉄人

初代:道場六三郎(みちば ろくさぶろう)
鉄人在任期間…1993年10月-1996年1月
対戦成績…39戦33勝5敗1分 連勝記録11[注 13] 通算勝率84.6%(現役時代の勝率は87.1%)

二代目:中村孝明(なかむら こうめい)
鉄人在任期間…1996年3月-1998年2月
対戦成績…37戦24勝11敗1分1無効試合 連勝記録6 勝率64.8%

三代目:森本正治(もりもと まさはる)
鉄人在任期間…1998年2月-2002年1月
対戦成績…26戦17勝8敗1分 連勝記録3 勝率65.3%

★イタリアンの鉄人

神戸勝彦(こうべ まさひこ)
鉄人在任期間…1997年6月-2002年1月
対戦成績…23戦15勝7敗1分 連勝記録4 勝率65.2%



番組の開始から終了に至るまで

元々はフジテレビ局内で「プライムタイム枠で、従来の料理番組(レシピ紹介)のスタイルとは全く異なる新しい料理番組を作ろう」というアイデアが持ち上がり、同時期に田中経一から本番組の企画が持ち込まれたことが番組誕生のきっかけとされている。

当初はキッチンスタジアムのセットや鹿賀丈史の大袈裟な衣装、ミシュランガイド等に代表される既存の料理界の権威に対するパロディ要素を多分に含んだ企画となっていた。

1993年10月放送開始。この当時は日曜日22時30分からの30分の放送であった。その後、1994年4月、『ワーズワースの庭で』(後に『ワーズワースの冒険』として改題リニューアル)と放送枠を交換する形で、金曜23時からの45分の放送となった。
1995年には23時台の放送でありながら20%弱の平均視聴率を稼ぎゴールデンタイムの番組にも勝る結果になった。最高視聴率は、1995年3月31日に放送されたスペシャル「完全なる料理の鉄人 香港決戦」で23.2%。
同年にはATP賞グランプリを獲得したほか、海外での放映もスタートしエミー賞にもノミネートされるなど番組は絶頂期を迎える。

当初「既存の料理界の権威のパロディ」として始まったはずの番組が、人気の高まりにつれ番組自体が権威と化し、多くの料理人が出演を希望するようになるという、番組スタッフにとっては皮肉な、そして、嬉しい悲鳴を上げる程の現象も起きた。

しかし1996年の年明け早々、番組の看板の一人である和の鉄人・道場六三郎が降板。1999年に単独スポンサーだった日産自動車の経営不振と、これに伴うルノーとの資本提携・カルロス・ゴーンの最高執行責任者就任・経営再建計画「日産リバイバルプラン」の発表により単独スポンサーを降板(その後は筆頭提供)し、番組の制作費がシビアとなったことや出演者のスケジュール調整の問題もあり、番組継続に頭を抱えるようになった。

視聴率的には以前と比較し落ち込んではいたものの二桁をキープしてきたが、1999年9月に6年にわたるレギュラー放送の終止符を打った。
その後は特番という形で不定期放送することになったものの、2002年の特番が最後の放送となった。
その後2012年10月より、タイトルを海外版と同じ『アイアンシェフ』に改めて、13年ぶりにレギュラー放送で復活した。解説の服部以外メンバーは総入れ替えとなった。しかし前評判とは裏腹に視聴率は伸びず、わずか半年で終了した。

最初の企画と違った展開に転がって行って成功した様です。
この時期は、躊躇なく手数をたくさん出す事が重要だったのかもしれない。
今は、そういう訳にはいかないかもね。


終わり

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