とかげ よしもとばなな

この記事読み返した私が、作品読み返してくれたらいいな。
らせんがお気に入り。


新婚さん

確かに私の知っている顔だった。気にいっている芸能人や、初恋の子や、いとこや母や思春期に性欲を覚えた年上の人や、そういう「いつかのだれか」に似ている気がした。

「どうして?」
女が私の目を覗き込んだ。胸元の花が揺れた。大きな瞳にまつげがびっしりとはえているのが見えた。深く、どこまでも遠く、子供のとき初めてプラネタリウムを見たときのあの丸い天井を思い出した。こんなに小さな空間に大宇宙を閉じ込めている。

そういうものすべてがかもしだす何かで部屋全体のトーンが一段明るくなっていて、どうしてだか『うわーっ、やめてくれ』と叫びたくなる。暴れそうだ。」

帰る家や続いてゆく仕事などを電車という機能とごっちゃにしなければ、ここに乗っているほとんどの人が、そのかばんの中の財布に入っている分のお金だけでいますぐに、驚くほどとおくに行くことができる。」

隣にいるものは、何か懐かしい感触を持っている。生まれるよりも前、嫌悪も愛情もごっちゃになって空気に含まれている場所の匂い。しかしその反面、近寄り難く触れたら危険なものであることも同時に伝わってきた。

「住んでいる駅になんて、もう二度と降りなくっていいのよ。充分ありうることだもの。」

もう二度と訪れることがないと思うと、そららの場面はすべてがまるで古い映画のように意味のある映像として、胸の奥底に響いてきた。目に映るすべての生き物が愛おしい。いつか私が死んで魂だけがある夏の夜に帰って来るとしたら、きっと世界はそういう感じに映るのだろう。

とかげ

違う皮膚に違う内臓を包んで、夜寝るとき違う夢を見る遠い遠い他人を意識した。

そのひとの整った立ち居ふるまい、私のために装われたスカーフの柄とかコートのすそとか笑顔とかをみていると、まるで遠くの美しい風景を見ているように、自分の心までもがきれいになったような気分になれる感じ、ずっと失われていたそういううきうきするものがそのとき、香るようにふっとよみがえったのだ。

彼女の手に触れることができたらもうなんでもする、神様

初夏の匂いが、街じゅうにあふれていた。
穏やかで力があって、苦しいほどの草の匂いがする。

とかげがとかげから何かしたいと、他でもない私に言いだしたことが誇らしかった。嬉しかった。

そういうこと、話したい、言葉にしたくない何もかものこと。

私はそれをしばらく眺め、2人の子供時代のために数分間泣いた。

らせん

でもとにかくその日は、ずっとベッドに寝ころんで秋空の透明を見ていた。ほんとうにどこまでも透明で、どうしてだか、何だか裏切られているような感じがした。

わかる瞬間はいつも怖い。
心臓が止まりそうになる。これまでにわかってしまってうまくいくことなんて、ひとつもなかったからだと思う。

暗い街角には人がいない。秋風が一番の主役だ。道を曲がっても曲がっても同じ月光に照らされた淋しい夜だ。透明の空気の中で、時間が変なよどみ方をしている。行き場のない考えごとを涼しい風がさらってゆく。ビルの谷間にそれは暗くよどんで闇をつくる。

そんなふうに何かと何かの境目が溶けそうなものが好きだ。夜と昼、皿の上のソース、カフェにまで流れ込む雑貨たち。それは、彼女を愛した影響だ。彼女は夕月に似ている。淡い青のグラデーションにいまにも消えそうなあの白光。

彼女はいつにもましてにこにこと微笑み、その靴音は遠ざかって行くように大きく響いた。いやな予感がした。

「あなたのことをみんな忘れてしまいたいと思っている自分を忘れたい。」

彼女がそういうことを言うと、その明るく深い声の響きのせいで一瞬それが真実のように思える。

「夏で、草の匂いがしてたわ。」

キムチの夢

今日一日が終わる。つぎに目ざめると朝日がまぶしくて、また新しい自分が始まる。新しい空気を吸って、見たこともない一日が生まれる。子供の頃、例えばテストが終わった放課後や、部活の大会があった夜はいつもこういう感じがした。新しい風みたいなものが体内をかけめぐり、きっと明日の朝にはきのうまでのことがすっかりきれいにとり去られているだろう。そして自分はすっかりいちばんおおもとの、真珠みたいな輝きと共に目を開くのだろう。いつもお祈りのようにそう思ったあの頃と、同じくらい単純に素直に、そう信じることができた。

血と水

私の家は私だけで、私のいるところがいつもここで、それでもまるですばらしく美しい青い夜明け前もすぐにまた別の美を宿す朝焼けになっていくように、何ひとつとどめることができない。そんなようなこと。

生きているかぎり続くそのかなしみをひととき忘れて、それが決してなくならないということを忘れて、そうやってもうすぐふたりで出かけることにした。

大川端奇譚

あの、後ろめたい青空。光、緑。何もかもに後ろめたくて消えいるほどせつなくなる真昼。

彼が嬉しそうなことが、何よりも嬉しかった。

何もかもにむやみに体ごと飛込んでいるのに、基本的に何も見たり聞いたり肉にすることができない。それを私は何か美しいことで誤魔化そうとしてきた。

でもあんまり優雅にその頃のことを言うので、その母の様子がきれいすぎて聞く気になれなかった。

いつかそんな日が来るに決まっていたしまた東京で会って情事を重ねたりするにはその日々は完璧すぎた。こういうことってあるんだなあ、と私は思った。完璧で、そのままもう終わってゆくしかないことが。

人に運ばれ、守られ、世話され、甘やかされ、この日本の中で平和にひたりながら、いっぱしの何かを生きていてそのうえ自分がどこか優れていて、人よりいろんなことを知っているような気になっている。セックスに溺れていたつもりになって、その実身元のわからない人と単独で交わるリスクはおかさなかった。

私は立ち上がると、川に面した窓辺にすわってとにかく気を落ち着けようと思った。そしてひとを取り巻いている目に見えない悪意や、記憶の外にある死について考えようとした。けれども夜の川は暗く恐ろしく光っていて、ものすごい速さで流れ去っていくので、いつの間にかぼんやりして考えが止まってしまった。

私は本当に言葉を失い世の中は私があれこれ考えているから動いているのではなく、大きな渦巻のなかに私もこのひとも誰も彼もがいて、何も考えたり苦しんだりしなくてもただどんどん流れては正しい位置に注ぎ込まれていくのかもしれないと思った。
自分が世界の中心だと思っていた世界からわずかに一歩をはずした瞬間だった。それは歓喜でも失望でもない感覚で、ただ今まで余分な筋肉を使っていたのを緩めたような妙にこころもとない気分だった。

「ひとを見る目だけは、育ててきたんだ。君は面白いよ、一緒にいると映画を観ているような感じがするんだ。」

この窓から朝見る川面、まるで金のくしゃくしゃの紙が何万枚も流れていくみたいに光っている。
そういうにに似たゴージャスな光だった。
もしかして、昔のひとはこれを希望と呼んだのかもしれない、とぼんやり思った。