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何も成し遂げては来なかったけど、限界を体感してきた僕が自分に優しくなれた経緯などをば。

僕は、自分を展開していくとき、宣伝を展開しようとしたとき、悩むのがストーリー作りです。

いつも僕はこれに躓く。

なんでかって、僕は生きてきた中で長く継続していることはとても少ないから。

思いつくのは、僕が生きてこられたことがその証明です、みたいなアバウトなことや、せいぜいが「死ぬことを諦めた方法」とか「挫折の経歴」とか、ネガティブな宣伝文句しか浮かばない。

ので、今はこれといった宣伝活動はしていないが、このネガティブな宣伝文句を記事にしてみたらどうなるだろう?という自己探求を詰めてみることにした。

今回はそんなお話。

僕は生きてくる上で人生や世の中や様々を少しずつ諦めてきた、少しずつ少しずつ生きる屍になり腐りながら生きるつまらない大人になっていっていたと思う。

そんな僕を反面教師にして、そのままだとこうなるぞコイツみたいにはなるまいと奮起してくれたり、死ぬことを諦めたりしてくれる人がいてくれたら、僕のこの記事も意味があるのかもしれない。

僕は10代になりたての頃、この国やこの世の中の醜さ・大人の醜さは僕には変えることが出来ないと諦めた。

それから、友達を心底信じることや家族に素直に甘えることも諦めた。

大切なものは無くしたくなくて、どれも手放したくなかったし縋ったし執着した。

頑張りたいこと、やりたいことは、経済的や環境や努力してる人の愛には敵わないなどと理由を並べ立てては諦めて手放した。

やりたい仕事や満足のいく職場選びも気力のなさや経済的圧迫感から挑むこと・諦めないことを手放して、受かる職場を選んだり見通しの良い職場ではなさそうだと思っても受かったらそこにそのまま就職した。

自分のメンタルや体調が壊れないように気遣うよりも、仕事をこなすことや日々を終えることばかりで、残業もしたし休日には体調を顧みずに遊んだりもした。

食事中に力尽き、口の中に食べ物がある咀嚼中に寝落ちたこともあるし、丸1日眠って起きられず無断欠勤なんてこともあった。

仕事を辞めるときは大抵が耐えて耐えてお祓い箱か、突然ぷっつりとエネルギーが切れて床に伏せてしまうかだった。

高校を休学するのにも鬱では体裁が悪いからと医師が配慮する時代であったし、診断書を突きつけねば親権者はねじ伏せられなかった。(納得はしてもらえなかったのでこう表現する)

高校を卒業後、専門学校の入試に落ちた私は単願だったこともあってアルバイトをした。

非正規が増え、それがまだ認められる世の中ではなかったから、大学どころか短大も専門学校も行かずにアルバイトのみの生活を転々と続ける私はプー太郎だと蔑まれ、私自身も自分をそう貶めた。

母の紹介で面接をしてくれた職場になんとか正規で雇ってもらえることになった私は、鬱と過呼吸と付き合いながら日付が変わるまで働いて、休日出勤をし、腰を痛めてペンギン歩きでコルセットをし通院しながらも続けていたが、独り身であり通院で度々半休を取る私はリーマンショックであっさりと求職者に戻った。

金属部品の加工工場での事務であったけれど、同じように独身であった他の女性は試作品やレース部品など責任ややりがいのある仕事をしていて、私は安定供給される量産パーツの処理の殆どを一人で担当していたが、社内で量産担当の扱いは軽視されていたのでそれも解雇の理由だったろうと思う。

後任は家庭があり、働かなくてもいいけれど社会参加はしていようと思って…と公言していた人に任された。

やる気はないようだったので一生懸命教えたが、なかなか覚えてもらえずに苦労していたけれど、その後その人が一人で量産全てをどう処理したか、できていたか、などはもちろん知る由もない。

それからまた私はアルバイトと潰れて引きこもりを交互にする生活に戻り、家に来た生命保険の担当者に連れられるままに保険のおばちゃんになった。

数ヶ月の座学の後、担当区域を営業して回る日々が始まった。

よそ者をなかなか受け入れてはもらえず、未婚で高卒の私、両親共に中卒の私、よそ者である私、は契約者でもなかなか話を聞いてもらえずにいた。

私は毎日ひたすらに地域を歩き、チラシを配りながら地域の人に挨拶をした。

商店の方には商品の話を伺い、気になる商品はそこで買ったし、学歴で私を蔑む方のところへはお子様の自慢話を聞きに行った。

今思えば、まっすぐに罵声や物を投げられるなどした中学のいじめを受けていた頃よりも何倍も苦しかったように思う。

またその頃、祖母と叔母が立て続けに他界し、父が依存症を患った。

私は契約者様がお手隙の夜間・土日以外は企業回りと地域のビラ配りをする他の時間の多くはそういった家庭のことに費やした。

鬱が酷くなり、気づけば私は上司と支部長に呼ばれた部屋で言われるままに退職届けにサインをしていた。

このままではいけないと働くことよりも自分を見つめることを選んだ私は福祉施設に通うことにした。

待っていたのは穏やかな自然風景などではなく、過重労働に疲弊するスタッフとピリつく空気に過敏な利用者の破壊や構って、過呼吸で倒れる人などの介助サポート生活だった。

それに疲れたときは外で何もせずひたすらに音楽を聴いて世界を遮断した。

私自身も過呼吸が頻繁に起こるようになった。

過敏である私は、彼らを放ってはおけずに自らストレスを溜め込んでいった。

そうしてサポートする中で、職員になりたいと思うようになった。

そして非正規で雇ってもらった私は、施設内ではなく別の部署に移動になる。

移動先はフードコートのたい焼き屋だった。

ベテランの60代のおばちゃんと店を切り盛りする日々はそう長くも続かず、背中が痛いと言っていたおばちゃんはガンで休職し、そして他界した。

独りで店を切り盛りするなど到底出来ないので他の部署から応援をしてもらいながら続けてはいたが、正規の施設長や理事など手伝ってくれる方々も忙しく、また法人全体としても新規事業で忙しい頃だった。

非正規の私は、ほとんど最低賃金のような金額で平日は一人・土日は手伝いの管理職さん達と2人という日々が続いた。

引き継ぎもなかったのでおばちゃんの動きを思い出し、店舗の携帯の発信履歴から推察し、どうしてもわからないものは事務などに聞きながら手探りで発注をした。自分で勤務時間外に消耗品や材料を買いに行ったりもした。

やがて私は眠れなくなり、疲れが取れなくなり、起き上がることが出来なくなった。

そうして私は、施設の利用者として通所を始めてから7年以上お世話になった施設を結局辞めてしまった。

失業保険の期間中、私は好きに生活しようと決めた。

自分を癒すためにハンドメイドや文字書きを再開した。

毎日毎日飽きもせずにアクセサリーを作り、小説を書いた。

回復してきたかに思えた矢先、共依存と化していた友人と仲が抉れ、威圧的な態度に疲弊した私はまた簡単に無気力の闇に落ちた。

通話などで気力をサポートをしてもらえる創作活動や食事はそれなりに行ったが、それ以外の通院や書類・求職活動などの肝心なことは放置して、私は障害者が受けられるサポートも失業保険も期日を過ぎて無収入になった。

べったりだった友人と収入を失った私は、いっそう無気力になってついには書くことすらしなくなっていた。

通院をしていなかった私は、睡眠を取れずに気が触れていった。

失意と自責から逃れるように、助けを求めるみたいにして、好きなものを見聞きするだけの生活になった。

毎日毎日飽きもせずに見ては泣いた。

生きなくちゃ、そう思うようになった。

自分の過去や、辛いときに支えられた歌や、様々に過去を旅した。

気が触れていた私は、1週間か1ヶ月か…期間は定かではないけど奇行を繰り返し、何かを感じたのか家族が支えてくれるようになった。

私は家族の支えによって通院を再開し、部屋を片付け、不用品を売って小遣いを作り、自分が気が触れていることを自覚していくようになった。

休もう。

書こう。

そう思うようになった。

それからの私は、今の私です。

この時作った小遣いで辞められないでいるタバコを買い、散歩をし、部屋の片付けや家事をしながら、文字を書き、自分を癒し休めている日々を始めてそろそろ一ヶ月くらいにはなるでしょうか…。

一月半?ふた月?ぐらいになるのかもしれません。

気が触れたあたりから正気になるまで、はっきりといつなどがわからないのでその辺は曖昧です。

まぁ、気狂いしている時にそんな冷静さはないからはっきり記憶していないのも当然なのかなとも思いつつ。

気が狂う前の、無気力になる前の、ハンドメイドと文字書きを飽きもせずしていた頃の感情を思い出した私は、その願望をどう叶えていこうかと思うようになりました。

この生活を続けたい。

書いて書いて毎日書いている日々を続けたい。

そう思って、気狂いから抜け始めの今に、今と将来の為になにが出来るだろうと考えました。

僕が今最優先すべきは、休養をして心と体の余力を取り戻すこと。僕が今したいことは書くことと自然と戯れること。

だった。

ならばと僕はタバコをまとめ買いせずに1〜2箱づつ買うようにして、なるべく億劫な日でも外へ出るようにした。

元々投稿していた文字書きサイトの公募に応募するようにし、それ以外にも応募をするようにした。

以前は閲覧数やいいね・ブックマーク・フォロワーなどの数をチェックしていたが、週ごとにどれだけアップ・応募出来たかにチェックリストを切り替えた。

日中仕事で出ている家族に私の日中が見えるように、そして自分も出来たことを増やし自分を褒める事を増やし習慣化を進めるためなどに、『今日の日中の私』というチェックリストをホワイトボードに作成した。

朝飯や歯磨きなどの身支度、掃除洗濯などの家事、執筆の進捗など、目に見えるようにした。これは工場勤めの時に得た『見える化』と施設で得た『発達障がい者の忘れん坊防止・優先度を決めてあげる』というものから生まれた私のためのリストである。

散歩は、今はもう灼熱の中に徒歩で何十分と出かけるのは怖いので、明け方にたまに出かける程度だが、模様替えや洗濯などで体を動かしたり少しは日を浴びるように代替えている。

以前の記事でも書いたが、家事をして散歩をして書き物をして、休息を取り、そんな日々が始まった。

読んでもらえる記事やペースを保つこと・交流することから、テーマを膨らませていかに期限内に面白いと思えるものを書くか・どれだけコンスタントに書いていけるか、と目標が自分のモチベーション・対外的なものから内面へ切り替えられたことで、焦りが減りのびのびと好きなものを書けるようになったと思う。


私は短文ばかりで長編小説を苦手としているけれど、こうしてnoteに好き勝手綴ることで書く文量を鍛えられると思うし、大好きなヘッセも賢治も芥川も短文や詩を多く残しているから、長編であることよりも文量書けるようになれればいいよねと自分の向いている方面を素直に認められるようになったと思う。

毎日書いて、少しずつ元気になって、毎日書く。から少しずつ毎日アップする。になっていけたらいいなと。

筆が遅い自覚もあるので、毎日書く習慣と速度上げの訓練を、好きなことをして自分を癒しながら出来ているのかなぁと思います。


まだまだオチをつけるのは苦手だけれど、今日は下書きにしまい込まずにアップしようと思います。

というか、そこも吹っ切れてきたのかもしれません。

ぐちゃぐちゃでもいいじゃん、書いたんだもん。

仕舞い込んで見えないよりは、ひっどい文章でもアップしてくことを続けたいじゃん、的な変化があった感じなのかなぁ。

日々様々に学び変化している俺なので、多分そうなんじゃねぇかなーって感じですが、そんな風に少しずつ自分を楽にしてやりながら、安心出来る環境を作りながら、スキルアップしながら、健康的にエンジョイ引きこもり生活を続けていきたいなぁと思います。

んではまたー。



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