他者性・共感力・距離感 「友情とファン心理から見えてくる輪郭線」うつ病闘病記

ここ数日、「放っておいてほしい」「わかってほしくない」といったような感情について考えています。今日はそんなお話。

どうも、下書きが増えて更新が滞りがちなクエッショニングのりゅうです。

人間力をつけようとレッスン中の俺ですが、わかることが増えてきた分、わからないことの『わからなさ』もぼやけていた輪郭が以前よりもはっきりとしてくるようになりました。

自分は幼児やワンコのような、聞いて!構って!遊ぼうよ!ワンワン!なことが多く、上記のような感情を持つことは少ないなと思います。

けれど、そういった感情は確実にこの世界に存在していて、そういうニュアンスを感じ取って一歩引くことも出来るようになりたいと思っています。

過去の友人からの拒絶であったり、ふわっと縁遠くなる知人だったり…という経験を思い出しながら、自分の癖を感じてわざわざ拒絶を示してくれる友情に優しさを感じたり、悪いことをしたなぁとか…今更ながら実感を持って反省したり。

けれどやっぱり自分にはない感情で、共感のない感情を輪郭を持って感じるにはどうしたらいいだろう。

また同じような…例えるなら地雷を踏んでしまったときにどうしたら互いに良いだろうと、考えていました。

そんなことを思っていたら、好きなアーティストグループについて語る記事も手が止まってしまったり。

(実際に手直しに詰まった下書きのままの記事があります)

自分はずっと、ごく近い存在の人間にしかそのアーティストを好きだという様は見せてこなくて…そのファン達と交流をしたり様々な角度の愛を持って応援する他の方のブログを読んだり感想を見たりするのは最近になってするようになったことで。そうすると、今まで「世間の声」「一部の声」とぼんやり聞いていた声の輪郭がはっきりしてきて。

それに対して痛む心もはっきりとしてきて、何か言いたくなってしまう。

苦しさやわかってほしい思いにかられてしまう。

けれど、ここで「彼らはこうなんだ!」と断言することは出来ないし、自分が確信していることでも状況証拠からの推察でしかない。

データやソースのないもの、というか他者の感情であるものを、決めつけてはいけない…と思うようになると、自分目線の愛を綴ることも躊躇いを持つ。

アーティストや他のファンの方との距離感とか、友人知人それぞれとの距離感のはかり方を模索するというか…。

一言で言ってしまえば『他者性を持つ』ということに集約されるんだけども、それを模索している感覚。

『葵井柳宇』という存在を自分がまだ捉えきれておらず、輪郭を際立たせる作業中な俺。

この輪郭がもっとはっきりと手に取れるようになったとき、きっと自ずと他者性もはっきりとしてくるのだろう…と、道筋がぼんやりと見えるような感覚。

まだ実感も実践もないけれど、もしも今後相手が歩み寄って話してくれたなら、自分はもう一歩引いて、冷静に引いた場所から愛情深く接することが出来たらいいなと思う。

好きなグループについても、やっぱり余計なものは書かずにただ好きを綴っていけるように自戒していきたい。


放っておいてほしい、わかってほしくない…それは、私が理解出来るとするならば、過去に感じた「ひとの人生を勝手に面白がらないでくれ」とか「勝手に辛かったねと決めつけるな」と感じたことが共感になりえるのかもしれないと思った。

僕は自分の歩んできた人生を波乱万丈だと言われることはいいけれど、それを

面白そうとか羨ましいとか、辛かったねとか、って……あぁ、そうか。

僕は自分の人生に感情でモノを言って欲しくなかったのか。


カウンセラーキラーな発言だなと思うけど、そうか…そもそもその「共感」がいらないんだね。

感情で語るなら、その分大きな前書きや枕言葉が欲しいんだ。僕は。

そしてきっと、そこまで大きな前書きが必要なものは、敢えて伝えるには相当な理由があるときだけでいいのかもしれない。

どんな理由だって敢えて伝えなくても良いのかもしれない。


あぁ…今日も沢山考えたなぁ。

今日も沢山レッスンしたなぁ。

そんなこんなな毎日を、明日も変わらず過ごしていこう。

ではまた。

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