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心と言葉のすり合わせ

大学の講義で、あるひとりの人物にフォーカスしたドキュメンタリー映画を見たときのこと。その講義では自分以外の学生の書いたレビューシート(リアクションペーパー)も見ることが出来るのだが、ある学生が、

「主人公はとてもやさしい人だと思いました。~さん(映画の主人公)はいろんな人に影響を与えていました。わたしも~さんみたいになりたいと思いました。」

と書いていた。それを見て、わたしは、とても悲しい気持ちになった。

なぜなら、その学生の本心でないように感じたから。「教授が書けと言っているから」「書かないと単位がもらえないから」という理由で書いているように感じたから。

映像を通して、授業を通して、なにも感じなかったなら感じなかった、でいい。なにも考えられなかったならなにも考えられなかった、でいい。ただ、何も感じなかったことだけを感じていなければいけない。心にもないことを言うことになんて、慣れなくていい。


別にどの授業でも、他の学生に対していちいちそう思っているわけじゃない。その授業は、文化人類学の授業で、岡崎体育の「MUSIC VIDEO」を扱ってみたり、水曜日のカンパネラ「桃太郎」を分析してみたり、アメトークを文化人類学的な見方で見てみたり…(詳細はいずれnoteに書きたい)

そして、レビューシートに書くことはなんだっていいのだ。今日考えていたことでも、映像を見て思い出したことでも、バイトの愚痴でも。なにを感じたって、どんな考えがあったっていい、それを示すために、いろんな学生のレビューシートを教授は見せてくれている。「心に従って書くこと」に慣れるにはもってこいの授業なのだ。だから、悲しかった。

言葉は思考そのものだから、「思考を心に合わせる」ことかもしれない。


(むしろわたしの思考が凝り固まっていて、わたしのなかでは共感できない、わたしの本心では絶対に書けないコメントだっただけであって、その人にとっては心から出た言葉、とても豊かな気持ちで、心とすり合わせて書いた言葉かもしれない。だから、こんなのただの憶測で、その人に対してとても失礼かもしれないのだけれど。)


それにしても多くの人が、(特に学校や組織のなかで)言葉を、表現を、評価されることに慣れすぎている。

その典型例、「道徳の授業」を思いだした。先生の求める正解を必死に考えて、思ってもいないのに主人公の気持ちに寄り添おうとする、あの授業を。(少なくともわたしにとってはそうだった。)

なにより、読んだ(見た)作品を絶対に否定しない。本当なのだろうか?と疑うような考え方ができない問いしか与えられない。

(以前フィルターの話をしたが、)「どうしたらいい評価がもらえるか」「どうしたら先生に褒められるか」「どうしたら怒られないか」というフィルターをすでに通したうえで、物語を読んで(見て)しまっている。

その思考やフィルターはなかなか消えず、「本心かどうか」より、「無理してでも書くこと」「なにか感じたふりをすること」「評価されそうなことを書くこと」の方が優先される。

学校で評価されてきた思考、いわば「学校的な思考」だ。わたしたちの思考自体が、「学校的に」なっているのだ。

今もその後遺症が、残っていないだろうか。


そして、逆に言えば、わたしが本当に思っていることしか発しないことを、ものすごく意識していることに気づかされた。「心からそう思っているか?」という厳重な審査を潜り抜けた言葉しか発しないし書かない。このnoteだってそう。

そういう瞬間、矢印はつねに自分に向いている。相手がどう思うか(=外側へ)じゃなくて、自分の心はどう思っているか(=内側へ)。

「あ~これ本当は思ってないわ、消そう。」とか。それに莫大な時間を費やす。でもそれは読む人のためじゃない。自分のため。何度も見直して、心で思っていることがその表現でいいのか考える。

いわば、心と言葉のすり合わせだ。


本心じゃないことを言うことに、書くことに、慣れすぎていないか?
学校的な思考の後遺症は残っていないか?
意識が外側にばかり向いて辛くなっていないか?

心と言葉のすり合わせを疎かにしていないか?


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