能動的3分間

僕の使命は9月から入塾した人間として、どのように課題と向き合って、どのように課題と向き合ってこれなかったか、を書くことだと思っているので

・・・と、ここまで書いて「向き合ってこれなかった」回数を数えると、挫折と怠惰な日々が蘇ってきてうおおお(これ最後まで書けるのかな・・・)

さて、最終講義の課題は「この一年間で学んだ上で考えるあなたなりの編集の定義と、あなたが編集力を使って、いかに世の中に貢献出来るかを説明せよ」

課題は案の定提出していません、え、土日何してたん、なんで提出せえへんの、なんで関西弁、聞かないで!聞かないでください!というか、11月から課題出してません、言い訳だけど、12月は会社の部署異動があり、環境の変化、最後くらいはちゃんと提出しようと気持ちあったんです、あれ、でも書けない、そりゃそうだこの半年ロクに課題出してないのに編集について書けって、無理無理、この1年で圧倒的成長、した皆さんとは違う、皆さんの最後の集大成的プレゼンみながら、うわすごいと感心しながらその100倍悔しかった。

悔しいならなんで書かないんだよ、ってほんとごもっともで、ぐうの音も出ない、これは毎回の課題どこを切り取っても葛藤の渦で、資料作りの技術的なところは時間さえあれば真似できるけど、課題に取り組むパッションや課題を通して実現したいミッション的な何かが、自分には決定的に不足していた。

そこに自分をどう寄せていくか、他の皆さんも一番苦労されたり努力されたりした部分だと思うのだけど、僕には無理。書けない、書けない、思いつかない、程度の差はあれ、大体の僕の企画はこの時点で「ワタナベ リタイア」

今一番苦しいところ、ここを乗り越えたらきっといい企画が生まれる、みんなはそこを乗り越え、僕はそこを乗り越えられなかった。まぐれヒットした新潮社の矢野さんの課題も、「売れない男性誌の企画」と酷評もいいとこで、そのあとはオリンピック関連の課題が続いて萎えた。そういうメンタルで左右される27歳どうなんでしょう、本当に弱いね、弱すぎるね、意志が。

意志、で思い出したけど、最近『中動態の世界』というケア本を読んだ。イケメンのフランス哲学者、國分功一郎氏の久々の著作で、医学書院から。

内容を少し説明すると、僕たちは能動と受動が当たり前に機能している世界に生きている。何かをするのが能動で、何かをされるのが受動。そして能動には意志と責任が伴う。って思うでしょ? しかしだ、例えばアルコール依存症の人は本当に自分の意志だけでアルコール依存になったのだろうか、受動と能動で二分するような解釈は実は相当に危険な社会ではないか、著書にある「中動態」は今回新しく発明された言葉ではなく、実は古代ギリシャからすでに能動態と受動態の真空地帯を中動態として定義されていた(実は昔・・・という筋立ては文化人類学者が好きそうな話だ)なーのーで、スパルタ塾の課題と向き合ったとき、僕は中動態の世界をずっと彷徨い続けていた。

ただ一つ、後悔の大部分を占めるのは、能動的に課題に取り組めなかったこと。それは、周りの人の発表を聞いていて、ただその完成度には感心させられっぱなしでしたが、聞いててすごい影響受けたし、そこに自分も立って良くも悪くも影響を与えられるようでありたかった、あの場所に立つことが意味するのは、ゲストや菅付さんに聞いてもらうだけにあらず、同じく受講生間でのフィードバック、つまり「よかったね」「悪かったね」みたいな会話、これが活力になって、という好循環、に僕は乗れなかった。

今回このノートを書くことも、本当に遅くなってしまった、けど書いた!書いたよ!課題をほとんど提出しなかった人間が最後にちゃんと書きました!

負け惜しみじゃないけど、悔しいと思ったもん勝ち

けどできたらなんでもいいから課題を出しましょう。シンプルにしんどいけど

僕はここでたっぷりと悔しい思いをしたのでもう大丈夫。だと思う

渡部遊






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