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ケイバの壁:まえがき

 この本(筆者注:暫定)は私が普段から感じている馬や競馬社会の出来事、とりわけ「違和感」を文章化したものです。私は2006年から競馬の学術研究をはじめました。きっかけはディープインパクトの天皇賞(春)と凱旋門賞出走をとおして日本の大衆競馬環境に多くの疑問を持ったからです。なぜ競馬という「ギャンブル」の中に道徳的な存在とされている天皇による「天皇賞」が存在するのか。また、なぜフランスの凱旋門賞で日本の競馬ファンによるマナーの悪さがヨーロッパ中で批判の的とされたのか。当時、不思議に思いました。ああこれは実に研究しがいのあるテーマであるな、と感じました。しかし、その頃の私は大学中退後は半引きこもりの状態でしたから学術研究などまったく遠くかけ離れたものでした。駅のホームから見える地元の大学の広告がとても輝いて見えました。それは今でも変わりません。

 競馬ファンとしての私は2005年の菊花賞前日にたまたまつけたラジオ放送で「無敗の三冠」がかかったディープインパクトの存在を知った瞬間からはじまりました。中学生の頃は漫画「みどりのマキバオー」のアニメ放送があり、またゲーム「ダービースタリオン」も人気でした。競馬ブームの真っ只中で青春時代を過ごしました。その足跡は大変お恥ずかしい話となりますが、私の中学時代の卒業文集にも残されています(他己紹介:「マキバオーをよく貸してくれたやつだった」笑)。

 このように現実感覚としての私と競馬の出会いは「日本近代競馬の結晶」とも呼ばれたディープインパクトの登場以降からです。その後、色々と勉強しました(知識だけなら戦前生まれの競馬ファンのようになりました)。最近ではアニメやゲームのウマ娘が世間を賑わしています。二次元美少女が中心を織りなすウマ娘から実際の「ギャンブル」である競馬に足を踏み入れる若い男女も登場してきた。時代は変わったものです。

 さて、私はどうしても競馬の研究がしたかったので、大学の編入学試験を受けました。それに無事合格し、法政大学でたまたまハーバード大学でも教鞭をとられた偉大な韓国人の先生(外国からの客員教授)と出会いました。そこでゼミ長(秘書)となりました。また通学定期券の範囲内にあったので学部時代は東大(本郷)のキャンパス内で過ごすことが多く(※もぐりはしておりません)、東大前駅から市ケ谷駅付近における大学の先生たち(恩師を慕う東大出身の教授など)との飲み会(食事会)参加率も異常に高かったです。毎週2、3回くらいは出かけていました。一方で、授業にはあまり参加しなかったので、友人は非常に少なかったです。でも、2年の在学期間中に100単位くらい(編入時認定は60単位程度)取得しましたから世間的には真面目で優秀な学生時代を過ごしたと言えるでしょう。そもそも私は入学前から専門科目の勉強をたくさんしておりました。しかも毎年4月には選択科目のシラバスを念入りに読み込み指定された参考文献はほとんど読み終えていた。だから大学の先生が言われた「できる人(=自学のこと)は講義に出なくてもいい(テストだけ受けに来なさい)。たまにそういう人がいる」をバカ正直に実践しました。昔はそういう先生も居た。本当の話です(ただし、2回の中退経験あり)。その影響を受けて20代後半から自分の居場所を求めていった結果、東大や京大の大学院にも所属することになりました。無論、この中でも多少浮きこぼれていました(笑)。それは研究センスという意味においてでもです(良くも悪くも)。

 また、研究者(哲学、政治学、社会学)としての私はディープインパクトと出会った同年夏に小林よしのりの『戦争論』(幻冬舎)やフランスの児童文学作家であるミシェル・ピクマルの『人生を変える3分間の物語』(PHP研究所)と偶然書店で出会い、勉学に対する「自発的な」意欲が高まったことからはじまりました。世の中にある物事の見方は決して一枚岩であるとは限らない。しかしながら、そう固く決意はしたものの本当の意味で頑張ろう!と奮い立ったのは先の菊花賞におけるディープインパクトの末脚をテレビ画面越しに観てとても感動したからです。だから結果的に学生時代も変な過ごし方をしてしまった。

 話が少し脇道に逸れてしまいましたが、本題はここからになります。どうも私が2006年に感じた違和感は日本の馬社会や競馬文化全体を覆っているのではないか、とつい最近になって思うようになりました。かつて若かった私も今や20年近くこの分野に足を踏み入れ(否、踏み外し)、年齢はアラフォー。社会的には何の地位も名誉もなく学問に対する情熱だけしか残らなくなった。この先無用なプライドがあったら生きていけない。今はフラットが大事であると思っています。実際のところ入試もあまり苦労しませんでした(もっと苦労すべきでした。ごめんなさい、汗)。
ディープインパクトはすでに亡くなってしまい、その産駒である父と同様に「無敗の三冠馬」となったコントレイルも現役を引退してしまった。時が経つのは早いものです。

  日本の馬や競馬文化には明らかに「壁」がある。それは多種多様な壁であり、縦横に、膨大に並ぶ壁でもある。私なりに馬や競馬研究に身を捧げた約20年間における研究上の成果や面白みの一端を読者の皆さまにも感じて頂けましたら幸いです。

 
追記)

今、自分用の本を書いています(①自作=自己満足、②自費=キンコーズ、③企画など)。
それが「ケイバの壁」シリーズです。
どのような方法になるかは分かりません。
公表するかどうかも分かりません。
プライベートな部分もどのあたりがタブーになるかも分かりません。
不定期執筆です。
いずれYouTubeで語るかもしれませんし、やらないかもしれません。
基本的にはこっそりとやっていきます。
だから今回はタグもつけません(笑)

これから大学関係の話はたまにするかもしれないです。
これによりショックを受ける人が出てくるかもしれない。
東大の中にはもう1つピラミッドがあった(競争型)し、京大の自由気ままな風土(一匹狼型)は時に大きな悩みを生じさせるものでもあった・・・
といっても、海外の留学生たちはとても謙虚で優秀だった。
プリンストン大学、ハワイ大学、スタンフォード大学、香港大学、ソウル大学、シンガポール国立大学、ロンドン大学、カリフォルニア大学、もちろんハーバード大学(恩師から)の話題もかなり身近なものであった。
研究室には、カナダや台湾、ロシア(サハリン=樺太)、ウクライナ、ハンガリー、韓国(日韓とのハーフ)、中国(漢族、朝鮮族、モンゴル族ほか、もっと居たような・・・)の高校や大学出身の人もいた。
(まともにヨーロッパの競馬史を学びたいのなら東大では何もできない。最低でもオックスフォード大学やケンブリッジ大学に行かなければならない。昔、東大の恩師に言われた。実際、その通りだと思う。)
京大の時は近くに同志社大学があるのに、むしろこれらの大学群の方が親近感がわいた。
東大と京大は仲が良く、東京芸大や京都市立芸大も身近な存在だった。

私はあまり賢い人間ではないと思っている。
(そもそも競馬、ゲーム育ちである。)
田舎に生まれ寂しがり屋だから単に居場所が欲しかった。
それがたまたま「学問」と「競馬」という場であった。
ただそれだけのことだ。

(2022年4月13日)


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