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目からビーム!10 金城哲夫と愛国者・小原國芳

 ウルトラマンの創造主のひとり・金城哲夫と、昭和35年、時の社会党委員長・浅沼稲次郎を刺殺した右翼少年・山口二矢は意外な共通点をもっている。ともに玉川学園に学び、初代学長・小原國芳の強い薫陶を受けていることだ。金城は高等部で二矢(早生まれ)の4年先輩で、二矢の事件のときは玉川大学文学部の4年生となっていた。
 亡くなった金城哲夫の書斎の本棚には小原國芳全集が並んでいたという。また、父が自衛官という関係から小学校の頃から転校が多かった二矢は、玉川学園を今まで通った学校の中でもっとも自分に合った学校といい、逮捕後の供述調書の中でたびたび小原への敬慕の念を示している。
 小原が成城高等学校校長の職を辞し、自らの教育理念に基づく理想の学園として東京・町田の地に玉川学園を設立したのは昭和4年のことである。クリスチャンでもある小原の教育理念とは自由主義と平等思想による人間創生で、なによりも生徒の自主性を望んだ。
 小原はこれを全人教育と名付けている。というようなことを書くと、どこか左翼好みの教育者を想像されそうだが、どっこい、小原は愛国の人だった。  
 金城哲夫は塾(寮)の窓から見える丘に毎朝、塾生によって掲揚される日の丸の青い空に泳ぐ姿を学園の原風景としている。山口二矢は小原の口から「日教組の教育は間違っている。教育勅語は復活すべきである」という言葉を聞き、わが意を得たりと強い感銘を覚えている。

小原國芳。二矢の事件後、つめよるマスコミに対して「私の大切な教え子には変わりない」と信念を通している。

 こんなエピソードもある。薩摩男児で武道を好む小原は「テニスなぞ男のするものではない」と公言してはばからなかった。また女子のスコート姿を嫌っていたが、一連の皇太子殿下(今上陛下)のテニスコートのロマンス報道で、美智子妃のスコート着用を知ると、一転、学園でこれを解禁。自らテニス部の顧問となって、生徒たちにテニスを奨励し始めたという。
玉川学園には金城哲夫をはじめ多くの沖縄からの“留学生”がいた。小原國芳と沖縄の関わりについては次回に書かせていただきたい。

(初出)八重山日報

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