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わが青春、自販機江口本の世界⑬

 いよいよ、この連載も最終回を迎える。最後はやはりこの人物について触れよう。明石賢生群雄社社長である。明石社長の人となりを知る人は、「太っ腹」という言葉で彼を評する。確かに、「金は出すが口は出さぬ」「儲けたぶんはみんなで分ける」を地でいった人だった。ビニール本で大儲けした年の忘年会は、ドラム缶に入った札束のつかみ取り大会があったなんて逸話も残っているくらいだ。それから、「来る者は拒まず」の人でもあった。僕なんかが同社に草鞋を脱げたのもその恩恵だったろう。もっとも、既に自販機本も美ニ本もブームを過ぎていたので、札束つかみ取りの方は経験せずじまいに終わったが。
 赤塚不二夫からヤの字の方面まで交遊も広く、荒戸源次郎との関係から、鈴木清順監督『陽炎座』のスタッフを引き受けて、日本初のアダルトVメーカーとなるVIPエンタープライズを旗揚げしている。そう、日本のAV第1号は清順組が撮っていたのである。
 自販機本やビニ本の出版に手を染めたのも、大局的には、出版の流通革命の可能性をそこに感じていたのではないか。ご承知のように、多くの出版物の流通は東日販という取次大手に牛耳られている。その独占を壊したかったのだ。僕は社長と気安く口をきく立場ではなかったが、今にしてみれば、言葉の端にそれが伺えた。アマゾンやブックオフが出版流通に一石を投じている現在の状況を天の明石社長はどのような思いで見ているだろうか。

山崎春美による明石賢生インタビュー(Billy)

「江口本で自社ビルを建てるんだ」ともよく言っていた。群雄社の窓からは天下の小学館のビルが見えた。ご承知の方も多いかもしれないが、旧小学館ビルの屋上は百科事典の形のオブジェになっている。
「小学館が百科事典ビルなら、スカ●ロの群雄社のビルの屋上にはウンコの置物を置こう」。会議のとき、誰かが言った。一同爆笑。むろん、冗談なのだが、その後、何度か明石さんがつぶやくように「ウンコビル」という言葉を口にしているのを僕は聞いている。結構その気でいたのかもしれない。

こちらは浅草名物ウンコビル(アサヒビール本社)。幻の群雄社ビルもこんな感じだったのかな。

初出・東京スポーツ(若杉大名義)

(追記)新宿三丁目に、椎名誠のエッセイでも有名なマスコミ・映像関係者ご用達の「池林房」という居酒屋がある。群雄社時代は仲間に誘われ、毎日のようにここに通った。もっとも、「池林房」は居酒屋といっても高級なほうだから、僕ごときがそうそう行けるものではない。そこには仕掛け(?)があった。実はこのお店のオーナーと明石さんが友達で、明石さんもお店に出資しているということだった。社用という名目で、群雄社関係者は池林房では、明石さんのツケでいくらでも飲めたのだ。今思えば、滅茶苦茶な話である。
おそらく、月の請求書だけでも何十万円だろう。

 荒戸源次郎の名前が出てくる。荒戸氏はアングラ劇団・天象儀館座長を経て、映画製作会社シネマ・プラセットを設立。同社は、移動式のエアードーム式の上映館をもち、製作・興行を一体化したユニークな会社だった。製作第一作にあたる鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』で、これは日本アカデミー賞を受賞し、大いに話題になった。続く清順復活第2弾が『陽炎座』。この映画の特製パンフレットを群雄社が製作したことが縁で両者の関係を深めていく。このパンフレット、出版物の芸術品ともいわれた贅沢な装丁の本で、これについては、いずれ稿を改めたいと思う。シネプラ第3弾が遠藤賢司主演の『ヘリウッド』で、これには群雄社も製作費を出しているという。しかし、大ゴケで現在ソフト化もされていない幻の作品となってしまった。シネプラは解散、その製作スタッフを引き取って作られたのがVIPであるのは、上記の通り。

シネマプラセットの移動式エアードーム。やはり、テント芝居からの発想だろうか。「まるでプラネタリウムのよう」。ちなみに天象儀とはプラネタリウムのこと。

 荒戸氏はその後、内田春菊原作『ファザーファッカー』で監督デビューするが、試写会の席で淀川サンから「アンタ、なんでこんな中学2年生のような映画撮ったの」と面と向かって酷評されたそうである。その淀川サンだが、映画関係者に会うたびに「彼(荒戸氏)はこれからの人、長い目で見てやって」と言っていたとも聞いている。はたして、荒戸氏は後年、寺島しのぶのデビュー作である『赤目四十八瀧心中未遂』で、日本アカデミー賞をはじめ各賞を総なめし、監督としての名声を得るのである。

売れば売るだけ赤字になるという伝説のパンフレット。製作・近藤十四郎。明石社長は「カネのことは気にするな。好きなように作れ」
『陽炎座』パンフの中身。箱入り、観音開き。YMOや沢田研二のジャケで知られる羽良多平吉のデザインワークが冴える。このパンフに関しては、言葉では説明しきれない。機会があれば、現物お見せします。

 これも30年近くのなるが、群雄社解散後、フリーの物書きに戻った僕は新宿でばったりとオムさんに会った。オムさんは本名・近藤十四郎。やはり群雄社の先輩で、VIPエンタープライズの初代社長。彼こそが荒戸氏と明石さんを引き合わせた人である。仲間うちから「オム、オム」と呼ばれていたので、僕も自然と「オムさん」と呼ぶようになったが、その由来はわからなかった。なんのことはない、苗字と続ければ、近藤オムだ。
 再会を祝してオムさんと飲んだ。場所はなつかしの池林房。
「明石と荒戸の二人の話をそばで聞いていると、まるでザルとドンブリの会話だったよ」には笑った。目に浮かぶようだった。
「今日は久しぶりに明石さんのツケといきましょうか」
 僕が茶目っ気を出した。最後のすねかじりとしゃれこんだわけである。しかし、それが本当の「最後」になってしまった。
 明石さんの急逝を聞いたのは、その2、3週間あとである。それにしても、享年48とは、あまりにも早い旅立ちだろう。
 僕もその歳をはるかに越え、今は還暦である。明石さんの人生の密度から比べれば、僕の60年なんて薄い薄い水割りである。
 そんなことを思いめぐらし、この稿をまとめていたら、今度は川本耕次さんの訃報が届いた。同じく群雄社OBで僕の大先輩である。
 当たり前の話だが、過去はどんどん遠くなる。人もまた。
 ノスタルジーといえば、それまでだが、80年代というのは、江口本が真にカルチャーだった時代だと思う。
 母一人子一人、高校時代にその母を失い、10代にして社会に放り出された僕だが、その僕を拾ってくれたのが江口本の世界である。とりわけ、自販機時代は今の僕のベースを作ってくれたと思っている。
江口本大学自販機学部特殊性欲学科。これが僕の最終学歴である。

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