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7.17釜山決起を忘れるな! 李承晩ラインに殺された無念の漁民たち

韓国の非道を忘れてはいけない

1959年(昭和34年)の7月17日――。つまり64年前の今日、何があったか即座に回答できる人はほとんどいないだろう。

韓国釜山で不当抑留されていた日本人漁民128人が非人道的な収容所での処遇に怒りを爆発させ、収容所を抜け出して抗議デモを行った7・17釜山決起の日なのである。

もっとも、僕とて、その事実を知ったのは、大宅壮一文庫で偶然見つけた複数の雑誌記事による。その一部を記しておく。

「釜山収容所の鬼『白相天』/爆発した抑留漁夫の怒り」(週刊読売59年8月2日号)
「生きて帰るために/釜山の日本漁船員」(週刊朝日59年8月2日号)
「『非人間』の記録/血と涙でつづる"釜山抑留"の体験」(サンデー毎日60年4月17日号)

白相天(ペク・サンチョン)とある。この男、当時西釜山警察から出向の形で収容所に派遣されていた警備刑事である。なぜ、収容所に刑事がいるのかわからないが、彼は所長以上の権限と権利をもつ、実質的な独裁者だった。後述するが、7.17決起はこの白という鬼畜男に対する漁民たちの命がけの反乱でもあったのだ。

李承晩ラインとは

1952年(昭和27年)1月18日、 大韓民国初代大統領・李承晩は、日本海上に勝手に軍事境界線を引き、島根県に属する竹島を強奪した。いわゆる李承晩ラインである。同年9月、日本がサンフランシスコ講和条約で主権回復する直前のどさくさを狙っての行為だった。
これによって奪われたのは、領土だけではない。このライン近郊の海域で先祖代々操業している日本漁民が、韓国の国境警備艇に次々と拿捕されているのである。

島根新聞(現・山陰中央新報)

韓国の警備艇は夜間、無灯火で漁船に体当たりしてきたり、「魚は釣れますか」などと日本語で話しかけ漁民が無防備でいることを確認するや、いきなり乗り込んできて銃底で殴打し、船を乗っ取るのだという。漁民がいくら「李ラインを越えていない」「航海日誌や無電記録を見てくれ」と言っても鉄拳が返ってくるだけだ。一度、韓国の警備艇に狙われたら最後なのである。底引き船は足が遅い上に、いざというときは網を切って逃げなければいけない。旧日本海軍の掃海艇を改造した韓国警備艇に狙われればひとたまりもなかった。

船上にあるものは、収穫した魚類はむろんのこと漁具や長靴にいたるまで、その場で押収され監視官の役得になる。中には漁民から奪った腕時計をいくつも腕にはめ悦に入ってる監視官もいたというから、その浅ましさはとても海の警察官と呼べるものではない。
そればかりか、韓国船はいきなり発砲してくることも珍しくなかった。銃撃を受け漁師がとっさに海に飛び込み逃げようとすると、その水面に向かって連射してくる。明らかに殺すことが目的だ。第一大邦丸の戸重次郎氏は後頭部を刺激され即死している(53年1月22日)。

韓国ではこの李ラインを「平和線」と呼んだが、平和とは名ばかりの「殺人線」である。

「平和線死守」のスローガンのもと、日本漁民の生命、財産が奪われた。

拿捕され韓国に送られた漁民は名ばかりの裁判にかけられる。たいがいは有罪である。刑務所に入れられ、ここで服役ののち、帰国を前提として収容されるのが釜山外国人収容所だ。日本でいうところの入管の収容所に近いかもしれない。「外国人」とはあるが、収容されているのは日本人しかいないので、実質は「日本人収容所」といっていい。

刑務所より酷い環境の釜山収容所

刑務所暮らしに疲弊しきっていた漁民たちは誰もが、これで少しは人間らしい暮らしができると思ったという。しかし、その期待はもろくも打ち砕かれる。外国人収容所とは実質的な第二刑務所、いや環境の劣悪さにおいては刑務所よりもひどかった。

20畳ほどの板張りの施設に40名が押し込められる。一人半畳のスペースだ。汲み取りトイレと飲料水用の井戸は数メートルしか離れておらず、漁民は目をつぶってその糸虫が泳ぐ不衛生な水を飲んだという。雨が続くとトイレが氾濫し汚水が床下に沁み込み悪臭が漂った。食事は日に2回。砂利の混じった麦飯に紙のような沢庵2切れ。それにナイロン汁(ナイロンストッキングのように透き通っているところから、漁民がそう呼んだ)。これだけでは体が持たないから、漁民たちは売店へ行き市価より3割りも高いソーセージや野菜を買って自炊する。あるいは日本にいる家族たちが送ってくれた差し入れの缶詰を分け合う。入浴は年に数回(!)。夜具は軍払い下げの薄汚れた毛布2枚で、これはシラミや南京虫の温床だった。恐ろしいことに、昭和31年まで電気も通っておらず、看守は石油ランプの灯油代まで収容者からむしり取っていたという。

「釜山外国人収容所」看板。当時はまだ漢字表記。

収容所内で腸チフスが流行ったこともあった(55年7件)。病気を訴えても放置されることがほとんどだった。栄養失調が原因で亡くなった漁民は2名に及ぶ。仲間によって火葬にされた。その他、精神に異常をきたす者や帰国後も何等かの後遺症に悩む者も続出している。

日本にいる家族は、収容所から届く手紙の行間からおおよその状況を把握していたが、なす術もなかった。それどころか、一家の働き手と財産である船(家一軒分ほどの価値がある)を失い路頭に迷いかけた家族、酌婦に身を落とす新妻もいた。それでも愛する夫や父のため、仕送りだけは続けるしかなかった。現金もそうだが、収容所あての物資の中で特に喜ばれたのは、味の素とポマードだったという。これらはそのまま現金代りになったし、看守の袖の下に使えたのだ。

朝鮮の冷麺に味の素はかかせない。

「看守なんか早く辞めてせめて交通巡査になりたい」
ある漁民は、看守からそんな愚痴を何度も聞かされている。獄卒は韓国では代表的な賤業のひとつである。交通巡査になりたい、というのは、交通違反を見逃してやるということでいくらでも賄賂が取れるということらしい。すべてがコネと賄賂の社会なのだ。

すべては韓国側の匙加減で決まる

56年5月、ジュネーブの国際赤十字から視察団が釜山収容所にやってきた。そのときばかりは、黄ばんだ麦飯の代りに白米のご飯が出され、理容師が主張し漁民が髭を剃られてさっぱりしている図を写真に撮らせたという。APなどの通信社が訪れたときも同様だった。滑稽なのは、李承晩の視察団を迎えたときのことだ。収容所前の道路は急ごしらえで舗装され、両脇に花壇が並んだ。収容者(漁民)はその日用意されたこざっぱりとした服を着て、笑顔でこの反日独裁者を迎えることを強要された。そしてその図は外電となって日本にも伝わった。「大韓民国は抑留者を人道的にあつかっている」と。

抑留漁民たちがそんな苦痛と屈辱に耐えてきたのも、一日でも早く家族のもとへ帰りたいという一念からだった。しかし、韓国政府は、李承晩は、そんな漁民の思いも家族の苦しみもすべて政治利用したのである。すでに日韓国交へ向けての外交交渉は始まっていた。韓国は抑留漁民を半ば人質にとって交渉の材料としたのである。日本側が交渉に強気の態度で臨むと、韓国側は報復として、漁民たちの帰国を先送りにするという策に出た。北朝鮮への帰還授業が始動すると(帰還船第一号は59年12月)、韓国はこれに反発。むろん、とばっちりを受けたのは釜山の日本漁民だった。

食事する抑留漁民。白米が出るのはマスコミの取材が入るときだけ。

鬼畜の獄卒・白相天

59年6月、西釜山警察署から一人の男が釜山収容所に派遣される。冒頭に紹介した白相天である。

面白いことに56年の国際赤十字による報告書に書かれた、釜山収容所の所長の名が「白海鎮」(ペク・ヘチン)、同報告書の釜山中央刑務所(抑留漁民が収容所入りの前に刑期を過ごした)の所長は「白興沫」(ペク・フォンス)で、ともに白(ペク)姓だ。ただの偶然か、それとも刑務官系を白一族が利権としているのか、それとも階級的職業(白丁)なのであろうか、もし白真勲センセイにお会いすることがあれば、ぜひお聞きしててみたいものである。

白相天は残忍かつ凶暴なる男で、彼に目を付けられ理不尽なリンチにあった収容者はあとを絶たなかった。最初の餌食になったのは福岡第二蛭子丸の川村広人氏で、川村氏は全身打撲の重傷で生死をさまよい、帰国後もしばしば、その時の恐怖でうなされる夜が続いたという。現在でいうところのPTSD(心的外傷後ストレス障害)である。

白とその子分の刑事どもは「共産主義分子の不穏文書がまぎれているのを監理する」という名目で、漁師たちが命の綱としておる家族からの小包を勝手に開け中身(缶詰の他、当時韓国では貴重な薬品など)を着服した。漁師に小包を渡すときも「郵便局までタクシーで取りに行った」といって手数料までまきあげる鬼畜ぶり。まさに獄卒という言葉がぴったりくる地獄の番犬である。

彼が赴任してから、日本の家族へあてた手紙もとんと届かなくなった。なんと白一味は封筒から切手を剥ぎ取り、小遣い銭にしていたのだ。売店で抜き取られた小包の中身と思われる日本製の缶詰と糊の剥がれた切手が売られているのを見て、漁師たちは声を失った。それでも彼らは命を繋ぐため、愛する家族へ近況を伝えるため、それらを再び買うしかなかったのである。

劣悪な環境の下、重度の皮膚病に冒された漁師。

ペク、どこだ! 抑留漁民が命がけの決起

そして、その時がきた。7月17日夜半である。白の横暴に耐えかねた収容者たちがついに蜂起したのだ。いつものように些細なことで白の機嫌を損ねた収容者が所長室に連れ込まれ殴る蹴るの暴行を受けていた。漏れ聞こえてくる仲間の悲鳴に、漁師たちの怒りが沸点に達した。もとより、舟板一枚下は地獄を生きて来た海の男たち、乗る船は違えど仲間意識は強い。一同はまず看守を払い腰で床にたたきつけ、所長室のドアを蹴散らすとリンチにあっていた仲間を救出、「白、出てこい」と怒号を挙げる。だが、当の白は既に窓から逃亡を図っていた。無抵抗なものにはとことん強く出るが、相手が怒ると尻尾を撒く、ある意味、韓国人の気質そのままの男だったのである。

拉致が明かぬと判断した収容者128人全員(当時)が収容所のバリケードを突破、釜山市長と警察署長に直接抗議に向かうため隊列を組んだ。蜂起とはいっても実質、武器を持たぬ平和的なデモだった。にわかに雷音を伴って降り出した大粒の雨がデモ隊の痩せた頬を叩いた。彼らを待っていたのは装甲車と消防車の放水、そして棍棒や洗濯棒を手にした青年団たちだった。悪鬼と化した高麗棒子どもの襲撃に、無抵抗なままデモ隊の約半数67人が重軽傷を負う形でデモは1時間たらずで鎮圧されてる。

白相天の悪行と漁民の決起を伝える記事。「釜山収容所の鬼『白相天』/爆発した抑留漁夫の怒り」(週刊読売59年8月2日号)

しかし、蜂起自体は決し無駄ではなかった。その後、白は解雇され以後、荷抜けも無くなり、食事面の待遇も少しだけ改善された。

大人しい、草食系、といわれる日本人。しかし、やるときはやるのである! 

こんな非力な漁師さんたちだって理不尽な暴力にはNOを突きつけ立ち上がる。一方、軍艦島で奴隷労働させらたという朝鮮人炭坑夫が待遇改善を求めて決起したという話も残っていない。不思議なものだ。

われわれ日本人は2月22日の「竹島の日」とともに、7月17日を「717釜山闘争」として後世に語りつぐべきである。(了)

収容所の別棟には、日本人妻とその子供ら600人が収容されていた。 韓国人に嫁ぎ、朝鮮動乱で夫を失い帰国を希望する女性とその子らである。 この子らが無事日本に帰国できたかはさだかではない。無邪気な笑顔に胸が痛む。 (アサヒフラフ1954年12月9日号)
李承晩ラインをテーマにした東映映画『あれが港の灯だ』(今井正監督/1961年)。ストーリーはこちら

▲当時のニュース映画。抑留漁民の家族の声。

▲当時のニュース映画。李ライン撤廃を訴える漁民たち。

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(追記)
抑留漁民の帰国に際して、もっとも尽力を果たしたのは、日本弁護士連合会である。抑留漁民の家族を連れ、ジュネーブの赤十字本部でスピーチさせたこともある。すべて彼らの手弁当だった。
1953年(昭和28年)には、「李ライン問題に関する日本漁民拉致に対し韓国の反省を求める件(宣言)」を発表している。この宣言は、現在も日弁連のHPで読むことができる
悪名高き日弁連だが、当時は日本人のために働いてくれる団体だったのである。


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