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変態さんよありがとう④~謎のスカトロジスト平山連浣

 このシリーズに登場する変態さんは、基本的に僕が面識のある人物を中心にしているが、この人とは正式に会ったことはない。僕だけではなく、80年代のSM雑誌周辺では、おそらく知らない者はいないほどの有名人なのだが、誰も顔を知らない、まったくの謎の人物が、平山連浣氏である。
 その名のとおり、浣腸マニアなのだが、この人の場合、編集部に手紙を送りつけることで知られていた。僕のいた群雄社では『スカトピア』というスカトロ系の専門誌を発行していた関係から、よく手紙が届いた。ちなみに『スカトピア』の編集長は、田中一策さん。この人は、練馬鑑別所から東大現役合格したという伝説の人物である。
 連浣氏の手紙だが、薄い便せんに万年筆書きの青いインクで達筆な文字が並んでいる。激励の手紙であることはまずない、まずは、お叱りの手紙なのである。要約すれば、――貴誌の変種方針に苦言を呈したい。貴誌は浣腸プレイをどのようにとらえているのか。あまりにも、浣腸に対する認識が低すぎるといわざるを得ない。浣腸に対する愛も熱意も探求心も誌面からは感じられない――あとは彼の浣腸道、いや浣腸哲学といってもいい、が熱く語られ、申し訳程度に「貴誌の今後の発展を望む」とあり、決まって最後は「〇月〇日 東京駅八重洲口喫茶マイアミにて 平山連浣 二十五歳」で締めくくられていた。
 文面、筆致、語彙からして、「二十五歳」、つまり当時の僕と同年代とはまず考えにくい。これを書くにあたって、改めて検索してみたら、『奇譚クラブ』72年9月に平山連浣名義で「SM分野における浣腸の位置」という何やら学術論文じみたタイトルの寄稿が確認できた。『スカトピア』の発刊が82~83年だから、引き算をすれば、14、15、歳で奇譚クラブに寄稿していたことになる。それはありえない話だろう。おそらく、「二十五歳」は実年齢とは別の彼の浣腸歴を意味しているのだろう。浣腸プレイに目覚めて25年ということである。

『スカトピア』。群雄社解散後も、他社が引き継ぎ7号まで続いたらしい。

 マニア本の読者には、雑誌を作っている編集者を同好の士だと半ば思い込んでいる人も多い。ついつい雑誌に対する期待と要求が過度になることがある。こちらも商業誌であるわけだから、一人の急進的なマニアのためでなく、最大公約数の読者を想定した誌面作りになるのは当然だ。かといって、熱心に意見をくれる読者を無碍にもできない。むずかしいところである。
 連浣氏の望むような誌面の改善がなされなかったのだろう。手紙の次は電話がきた。一度や二度ではない。一策さんは明らかにいやそうな顔でそれを取る。あるときなど、まるで汚いものを触るかのような手つきで僕に受話器を押し付けてきた。お前、相手してやってくれよ、一策さんの顔はそういっている。わけのわかないまま、電話口に出た。僕が平山連浣の声を聴いたのは、それが最初で最後だった。やはりというか、60がらみの年配の声だった。やはり怒っていた。スカトロジーの何たるかをわかっているのか、そんなことを言われた。理路は整然としていたが、いかんせん、彼の浣腸哲学は、俗人の僕の理解を超えていた。
こういうときは、適当に相づちを入れながら右から左へと聞き流すしかない。相手が喋り疲れてきたのを見計らい、「…本日は貴重なお電話ありがとうございました。今後の雑誌作りの参考にさせていただきます」と言って半ば強引に電話を切ったが、独特の粘着力のある声がしばらく耳の奥に残った。カンチョウという言葉が、こんな淫靡な響きをもつものとは知らなかった。一策さんはこのときのことを編集後記で触れ、「まるで電話口から浣腸液を注入される思いでした」と皮肉たっぷりに書き、それ以来、連浣氏からは手紙も電話もこなくなった。
『昭和性相史』シリーズで知られる風俗史家で僕の大先輩である下川耿史さんも「週刊サンケイ」の記者時代、さんざ連浣氏から手紙をもらったそうだ。下川さんは連浣氏に興味をもち彼に会うため、わざわざ八重洲口の喫茶マイアミに通いつめ、それらしき客に片っ端から聞いてみたものの、結局本人を見つけることはできなかったという。
 あれから30年以上経っているし、はもう亡くなっているとは思うが、文体やしゃべりから察して、それなりの学識のある人なのは確かだろう。どこかの大学の先生だったかもしれない。となれば、「SM分野における浣腸の位置」という論文調のタイトルもうなずけなくもないか。

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