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わが青春、自販機エロ本の世界⑨

 自販機本に限らず昭和のエロ本屋さんで、一度も”真鍋のおっちゃん”の世話にならなかったという人はおるまい。本名・真鍋二郎。ヌードモデルの仕出し屋・真鍋プロの社長さんである。社長といっても、社員はおっちゃん一人。新宿東口、三越裏にあった喫茶店「白十字」がおっちゃんの事実上のオフィスである。俳優の下條正巳を塩揉みして縮めたような風体は、「白十字」に巣食う地縛霊といった雰囲気だ。
 昼前ともなれば、おっちゃん、モデル嬢たち、それに各社編集者、カメラマンで白十字はごった返す。ここでモデルと待ち合わせて、そのまま撮影に向かう隊もあれば、モデルにすっぽかされ、急遽おっちゃんに代替えの女の子を探してもらっている編集者もいる。
「いい子いるよ~」。猫撫で声で発せられるこれがおっちゃんの十八番のセリフ。安物の合皮の黒いショルダーバッグから取り出した写真の束から抜き出した一枚は、なんと、お祭りかなんかの仲間うちのスナップで、その端っこにボケボケで写っている女の子を指して「この子だよ」とくるのだ。「おっちゃん、この子のどこがいい子なの?」「気立てがいいんだよ」「あのねー、気立ては写真に写らないの」。おっちゃんと編集者のこんなやり取りも白十字の名物だった。

真鍋のおっちゃん。僕の知る真鍋さんよりも写真は若干若い。エロダクションは無数あれど、労働大臣の認可を得ているのは真鍋プロだけだった。おっちゃんもそれを誇りにしていて、女の子のギャラから5割もハネるダクションも多かった中、絶対1割しか取らなかった。「労働省の規則がそうなっているから」というのが、その理由だ。

 こんなおっちゃんだが、早稲田の法学部卒である。もっとも本人に言わせると、途中で学徒兵に取られてしまい、学校で教わったことはすべて忘れてしまったそうだ。それでも白人モデルと英語で会話していたし、それなりのガクはあった人だったと思う。戦後は得意の英会話を活かし、進駐軍の通訳をやったり、ストリップ劇場のコントの台本を書いたりしていたという。70年代初頭、新宿を中心にゴーゴー喫茶が流行し、そこで踊るゴーゴーガールの仕出しを頼まれたのが真鍋プロ発足のきっかけだった。
 真鍋プロのモデルは、ほとんどが新宿にたむろする家出少女である。無宿、無職のそんな愛すべき不良少女たちをヌードで更正(?)させる、それもおっちゃんの重要な仕事でもあった。

(追記)実は、おっちゃんの最初の根城は『白十字』でなく、その隣にあった『テレホン喫茶マジソン』だった。その名のとおり、各テーブルに電話があり、テーブル同士内線でつながっていたし、もちろん外線も使えた。携帯電話などなかった時代、業界人にとってはとても重宝な喫茶店だったのである。しかし、フォーカス誌におっちゃんが紹介され、「まるでうちの女性客がみんなビニ本モデルのような書き方をされた」と激怒した店側から突然出入りを禁止されてしまう。仕方がなく、モデルや編集者ごと、『白十字』に大移動したというわけである。その直後、『マジソン』は潰れてしまった。フォーカスの記事は大げさではあったが、間違いではなかったのだ。『マジソン』はエロ本関係者でもっていた喫茶店なのである。その後、おっちゃんは『白十字』も追われ、やはり東口の『しみず』、『じゅらく』へと居を移す。おっちゃんの去ったあとの喫茶店は決まって潰れていく。罰当たりなことをするからだ、と思った。
 僕は生前の真鍋さんに一度、亡くなった後、ご家族(夫人・娘さん)に一度インタビューをしている。そのとき伺ったエピソードなどについては、現在執筆中の回顧録で語りたいと思っている(周りからは、早く出せとせっつかれているが。なかなか米びつ仕事の合間となると💦)。

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