『「自傷的自己愛」の精神分析』と自分について

(けっこうパーソナルな内容で、気持ち悪いので注意です。また、タグにあるように、日記という体で書いています。内容が内容であり、書評にできる自信がなかったので……)

 最近、いい感じに色々なことがどうでもよくなってきている。
 それは勿論、無力感と虚無感が強まっていることを指すのだが、とはいえ、それは悪いことばかりでもない。無力であることと引き換えに僕は自分に対して少しだけ正直でいられるようになり、そうした傾向の結実として、僕は一つの本を手に取ることができた。
 それが斉藤環の『「自傷的自己愛」の精神分析」である。
 これのどこが正直なのか、と思われる人もあるかもしれない。だが僕はこれまで、少年漫画などの例外を除いて、直近数ヶ月の間に出た本を買うことはなかったのだし、ましてそれを最後まで読み切るということができなかったのだ。それはひとえに傲りのせいである。僕は極力、自分の体験や思想と結びつかないような本を選んで読むように、いつからかなっていた。その結果読書数は大幅に減少し、残ったのは理解できもしない学術書やおよそ自分とは関係のない学問分野の入門書、そして重い翻訳文学だけになってしまったのだ。
 そうした傾向の反動として手に取ったこの本が「よい」本なのか僕には分からない。なぜなら、読み終わった今でも、僕はある種の恍惚というか、自閉した世界から抜け出すことができていないからだ。
 久々に「これは自分の本だ」という感覚をおぼえた。それも新書に。心理学的コラムに。「友だちなんか作るな!」というような本にははっきり言って白々しささえ覚えたし、かといってありがちな自己啓発には何ら心を動かされなかった自分にとって、それは由々しき事態だった。
 だがそんな反発感など問題にならないほど、この本は僕の個人的な経験や思想にコミットしたのだ。繰り返して言うことになるが、本当に、僕はこれは「自分の本だ」と感じたのだ。自分のことが書いてあるのだと。
 それはひどく恥ずかしいことのはずだ。それは中毒的な言明だし、こう言って良ければ自慰的な反応でもあるだろう。それはおよそ公共の場に、インターネットという場に出すべき反応ではないとも思う。しかしそれでも、僕はこれを公開しておこうと思う。ある誠実が激しい不誠実を呼ぶような、屈折した自己認識──ひいては読書体験の枷との決別として。
 この本はサブクリニカルな精神症状としての「自傷的自己愛」が主題となる。それは観念上の、屈折した自己愛の形であり、自己愛ゆえに自己を否定するという客観的矛盾を指し示した言葉だ。だがそれは矛盾ではない。死にたい、という言葉が、言葉以上の──始まって終わる発話以上の意味を持たないような、そんな事態があるのだ。

 昔から、苛立ちを抑えられないことがあった。
 それは発作のようなものではなかった。それにはたいてい、もっともらしい理由がついてまわった。つまるところ、客観的にみれば僕はどこにでもいる、感情の明暗のはっきりした一人の子どもにすぎなかった。しかし僕にしてみればその激情は、明らかに、ある閾値を外れたものであったのだ。むろんこれは弁明ではない。回顧だ。
 僕が激情によって身動きがとれなくなるタイミングは自分にも予測できなかった。普段であればなんてことのない不満にも、その「タイミング」が到来するとたちまちひどい怒りが湧いてくるというのが、僕の感情の、メカニズムを踏み潰したところに現れるメカニズムであった。
 そういう場合、僕は物を壊して一人どこかに閉じこもるのが常だった。胎児のように丸まり、何かに包まることが。
 怒りは大抵、数分でひいていった。だがよくある自己啓発のように、それで終わり、というわけではない。誰もがそうであるように、怒りとは再発する。僕の怒りはそうして増幅し、数時間居座ることがあった。
 しかしそれは数時間なのだ。例えば双極性障害の患者は高揚感とそれに伴う怒りが数週間、数ヶ月間持続するという話だが、僕はその種の破綻を抱え込んではいない。先述したように、僕は客観的に見れば普通なのだ。そしてその事実は、僕をケアとか、あるいはもっとパーソナルな「キュア」なる概念から隔離した。
 話を戻すと、僕はそうした怒りをおぼえた後に、激しい嫌悪感に襲われていた。それは一つの例外もなく自己嫌悪であり、怒りにまかせて壊したものであったり、傷ついた自分自身であったりへのそうした嫌悪もまた、怒りと同じように制御のできないものだった。
 年々、その嫌悪は高まり続けている。
 怒りはいつしか遙か後方に退き、僕の中には嫌悪感だけが残るようになった。立ち上った怒りは間を置かずして嫌悪感へと変容し、自己罰的な観念が立ち上がり、僕は激しい自己否定に苛まれる。
 しかしそうした傾向が、自傷や自殺に繋がることはなかった。呆れるくらい死にたかったのに、僕は一度だって自殺を試みることはなかった。それは精々企図に留まり、その瞬間が訪れることはない。
 僕はそれをある種の不能、不誠実であるように考えていた。僕は言わば「死に損ない」であり、よりかみ砕いた言い方をすれば「いくじなし」なのだと、そう考えていたのである。
 この本は、そうした過激な心性を柔らかく否定し、保護する。正直、僕にとってこの本は件の症状の概略を示した「はじめに」と「一章」でほとんど完結している。僕は承認などどうでもいいし、今のところ引きこもりでもない。
 ただこの本は僕の心の空洞にぴったりとはまったのである。それは危険なことでもあるが(陶酔に結びつきかねないため)、それでもそうした読書体験がまだ可能だったことが、僕は素直に嬉しい。

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