日記のはじまり、『秒速〜』のおわり

 つい先日用事で神戸まで遠征し、その際に購入した本の中に『伊藤計劃記録』がある。これは14年前に物故したSF作家、伊藤計劃のブログを本としてまとめあげた本なのだけど、相当に読み応えがあり、こう言って良ければ文学的な価値に満ち溢れているように思う。
 Twitterの方では繰り返し書いてるが、僕は若造にすぎないので、ブログが全盛期の頃、それがどのように利用されていたのかを知らない。そのためブログという形態については漠然としたイメージしか持っていなかった。過剰な改行と、毒にも薬にもならない日記。それがブログのすべてだと思い込んでいたのだ。
 しかしそれが思い込みにすぎないことをこの本によって突きつけられた時、僕の中には、昔から持っていた日記という表現形式への愛着が去来してきた。小学生のとき、宿題で延々と日記を書いていた時のあの気持ちが、愛着が、情熱が、ありありと思い出され、指を突き動かすのだ。
 日記は自由なメディアだと思う。ここで言う自由とは面倒な権利や義務の付帯した「Liberty」としての自由というより、よりフリークな色彩を帯びたものである。日記は構成もなにもなく、どこまでも自由な統語文の連鎖関係だからだ。前文を絶え間なく参照することで紡がれる連鎖としてのコンテンツ。そう言えば、小説家AIはそのようにして作品を仕上げているらしい。
 より噛み砕いて言えば、日記はパーソナルな連想ゲームであり、ここに書かれているのはそのシミュレーションの帰結なのだ。
 ……このままでは日記論に終始することになりそうなので近況、というより最近見た映画の話でも。
 久々に新海誠監督の『秒速〜』のラストシークエンスたる3話を見返していた。やっぱり何度見ても凄まじい絶望感というか、『ほしのこえ』で出した結論を根底から覆してやろうという後ろ暗い衝動を感じる。いやしかし、本人はたしかそんなに暗い作品としては描いてない、というような話をどこかでしていたような気がするので安直な断定に対しては後ろめたさもある……。
 ともあれ、完成し公開され鑑賞された作品であるところの『秒速〜』は、そのラストにおいて『ほしのこえ』を否定したのである。二人の声は重ならず、少女(だったもの)は振り返らない。そしてその予感は、この3話のそこここに漂っている。
 3話にはとかく「不在」のカットが多い。誰もいない部屋、人の座っていない椅子、空のエレベーター──そしてなにより、ミュージッククリップ演出で多用される風景のみのカット。コンテを見ると写真をそのまま絵にしたようなカットも多々あり、そしてそれらは、いかなる感情も象徴してはいない。それはあくまで風景であり、ディティールであり、それ以上のものではない。後年、監督が「桜」を、個人のやるせなさと断絶したモチーフとして見出したように。
 「いつでも探しているよ/どっかに君の姿を」と井上陽水は歌う。しかしそれを聞いている人々は、既にして知っている。いくら探そうが「君」はどこにもいないことを。その予感、心理、そして事実を、この映画は最後に、言葉でなく映像で伝えようとする。
 『君の名は。』『天気の子』のミュージッククリップ風演出はしばしば、キャラクターの心理を挿入歌が代弁する、という形で意味づけられていた。(そのことについての解釈は一旦置いておくとして)しかし、この『秒速』における『one more time, one more chance』は「代弁」としては機能していない。
 それはモノローグを、言葉を阻む壁として用いられ、フィルムを漂っていく。無論その壁のいくらかは主人公タカキの心理を表現してはいる。だがそれは一方的なものだ。ここには断絶がある。
 断絶の表象の、その最も美しい結晶として、この映画は監督のフィルモグラフィーにおいて今もなお、燦然と輝き続けているように思う。
 と、そんなことを考えていたら日が暮れてしまった。日記ってこんなんで良かったっけ……。

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