ちいさな相棒といくミュージアム巡り 徳川美術館『徳川文房博』展と名古屋城の『家康とごはん』展
徳川美術館
徳川美術館内の蓬左文庫での企画展『徳川文房博』に行って来ました。
地元静岡の久能山東照宮博物館にも家康所用の鉛筆が展示されていたり個人的に文房具が大好きと言うこともあってこの企画展楽しみにしていました。
蓬左文庫 企画展『徳川文房博』
文房具の文房ってそもそもどういう意味?
文房具って、文房具屋さんに売っている筆記用具って認識しかなかったんですけど、そもそも文房って語源はなんだろうって考えたことも無かったんですけど…
文=文字や書体のこと。遡ると土器につけられた縄文模様を描いた象形文字
房=表座敷に付属する小さいな部屋。
合わせると、文字を書く部屋=書斎と考えていいのかしら、具は、常にそなえておく器物って意味だから、文房具は、書斎に必要な物。
なるほど、その通りなネーミングだね。
徳美のTwitterでかろやかにわかりやすく呟いてくださってました!!
語源は中国からなんですね。
このツイートから分かるように、文房博での展示は主に文房四宝を中心とした尾張徳川家が所用していた文房具の展示がされていました。
中国と日本での文房具の違い
中国では、文人の書斎で筆記用具として使われていた道具ですが中国から入ってきた唐物文房具は、日本では、室町将軍家が書院に飾り付けした事からお武家様の政治の空間には唐物文房具を飾ることが良しとされたんだとか。
当時、日本では希少だった唐物文房具を手に入れ、飾り付けることで格に差をつけるなんて事あったのかもしれませんね。室礼のようにキッチリと決まった飾り方があったそうです。
それとは逆に、中国は自由に飾っていたそうで其々にこだわりがあるのだろうけれど、型にハマるのをよしとするというか、誰かを手本にせよというか、そうゆうところは日本人っぽいなと少し思ってしまったり 笑
飾っていたってそれじゃあ…何で書いてたのよってところですが、それは和物文房具が日常的に使う筆記具だったんだそう。
飾り付け専用というだけあって、どれも豪華な装飾が施されていて確かにこりゃ芸術品だわと、思う反面、キャプションに"実用には不向きであり〜"と、度々書かれていてああ、見るからに…これじゃ書けないよ〜っていう、ど太いちくわ(よりぜんぜん太い)みたいな筆や、いったいどこに墨を入れるんだろう…なんてものもあって美しい筆や硯など見ているのにそりゃそうだ〜なんて、面白くなっちゃってきちゃったりもする展示でした笑
室礼については、いままで何となく観てしまっていて文鎮が可愛い〜とか水差しが〜とかしかメモをとっていなかった常設展にある第三展示室の大名の室礼エリアが次から違う視点で観れるようになる事が何だかとっても嬉しくなってしまう。
こういった文房具(主に書道の文房四宝)に焦点を当てた展示ってあまり無いから初めて知ったこと多すぎて興味深い展示でした。
そうそう、徳川義宜(尾張16代)自作の雁行筆架と冨久良雀形文鎮が、なんとも言えないゆるキャラ風味な作品でですね、すんごい可愛いかったんですよ。
時々話題になる、いろんな殿様達の画伯作品あるじゃないですか!!元気ない時見るとなんか浄化されちゃうみたいなあの作品達の中に入るくらい可愛いもんだから、ストレス溜まったら殿の鳥思い出そうねぇなんて一緒に行ったお友達と話したりして、画像出てこないかなぁってさがしてみたけど出てこなかったのでいつか常設展に展示される事があったりしてバッタリまた会えたりしないかしらとか思ってます笑
常設展
徳川文房博が唐物文房具の展示が多かったという事もあってか名品コレクションも唐物が多く展示されていました。
お能エリアの唐人相撲関連の楽器や装束とかなんかサーカスのピエロの衣装みたいで面白かった。
名品コレクションには、名物展の時に出ていた南泉の付属品の鍔も展示されていました。
あけぼのとか残雪とか…刀剣は国行(太刀)、助真(刀)、繁慶(脇差)、吉光(短刀)が展示されていました。繁慶さん展示長いですね〜!!名物展の時もお目にかかった気がします。
あの繁慶めちゃくちゃかっこいいんですけど、家に帰ってから図録引っ張り出して探してみたのですけど、持っている図録に掲載されていなくて下唇噛んだのはここだけの話…どの図録にいらっしゃる???
吉光の短刀も上品で好みでした。
とくび喫茶室
さて、徳美行くとまず最初に向かってしまう喫茶室なんですけど、新しくお目見えした『竹千代』を食べるのを楽しみにしていたんです。
いちごや柑橘系フルーツの下に白玉や水ゼリーが隠れていて、あんこもこしあんだしわらび餅もさっぱり系なので黒蜜をかけると程よい甘さで美味しいんですよ〜!!
わたし、パンチの効いた甘さだともう胃もたれしちゃうからちょうど良い甘さでわたくしとても好みの味でした。
大河放送期間中は提供してくださるのかな?
飲み物をMJにするとMJセットとして完璧になるらしいんです 笑
…が、
甘い×甘いが食べれないもんだから、お!!抹茶って単品もあるじゃん和スイーツにちょうどいいかもって、今回は抹茶と共にいただいたのでした。
Lunch cafe iwase
お昼に食べたcafe iwaseのハンバーグがやたら美味しくて、地元がハンバーグ王国なものでハンバーグにはこだわりがございますが、わたし史上最高に美味しいハンバーグで正直3回くらい美味しくてひっくり返りました。
ちなみになんですけど、地元静岡での推しハンバーグ店はスパーゴで、さわやかではありません(真顔
名古屋城
さて、徳美の後は名古屋城へ向かいました。
名古屋市営地下鉄では2023年1月から4駅、駅名が変更されたそうで、その中のひとつが名古屋城の最寄駅の名城線 市役所駅が名古屋城駅に変更になったんですって。
その他は、神宮西駅→熱田神宮西駅、伝馬町駅→ 熱田神宮伝馬町駅、桜通線の中村区役所駅→ 太閤通駅にそれぞれ変更されました。
名古屋城、7年ぶりに来たのですがお堀にいた鹿たちの姿が見えないのですがどこに行ってしまったんだろう。
今回の目的はただひとつ。
初詣に行った時に久能山東照宮で見かけたこの展示を観たいがためにやって参りました次第ですので、時間も残りわずかという事もあり、本丸御殿や天守閣は完全スルー…それはまた、改めてという事で。
家康とごはん展
自他共に認めるくいしんぼう故に興味があったのですお殿様の食にまつわるあれこれが。
入り口すぐにあるこちらの豪華な食器達、
銀のお茶碗って重いのでは??って思ったんですけど、これ木を挽いて作られたお椀に銀板が貼られているそうで意外と軽くて温かみがあるんですって。
ご飯と汁物、煮物に膾、香の物といった本膳用の器だったのではないかとのこと。
おっ??ラーメンの器とかにある雷紋もあるよ。
様々な模様があしらわれていて本当に豪華なお椀ですね。
祝膳複製
そんなわけで、ごはんです!!
こちらの豪華なお膳は、寛政十年五月に一橋徳川家の愷千代が九代尾張藩主宗睦の養子になり尾張上屋敷にお引っ越しされた事をお祝いする宴がお屋敷で開かれた際の祝膳。
私、もりもり食べますけど本膳だけでお腹いっぱいになっちゃいそう。
配膳表には、鯛と赤貝、ぼうふう、金柑に白栗……の、御なます。
鯛と赤貝の刺身と細かく切った栗にぼうふう(葉もの)、金柑を添えるとあるのだけど、昔の膾は、こういった魚やお肉などを細かく切ってそこに調味料を混ぜたものを膾と呼んでいたそうなので、今で言うマリネ的なものだったんでしょうか。
刺身にしか見えないお酢でしめたやつとか……しめさばみたいなやつ??適当に言いました。
個人的に凄く気になっていて、再現料理があるならばものすごーく食べてみたいです。
ご、豪華〜っっ。
ちなみにこの祝膳、一部を再現したものなんだそうで………い、一部??一部なの??
宗睦は実子や孫、甥まで後継者全てに先立たれてしまう不運の御人なんですけでも系図見た時、ええっそんな事………あるの?という悲惨さ。
正直、なにかあるんじゃないかとすら思ってしまうくらいです。
■長男 治休1774年没(享21)
■次男 治興1777年没(享21)
■甥 治行1793年没(享34)
※五代高須藩主 松平義柄養子(治行と改名)
■孫 五太郎(治行の子) 1794年没(享14)
■甥 勇丸 1796年没(享3)
※弟 松平勝長の次男を養子
で、ここまでが尾張家の血族で、もう血族の中の後継者が1人もいなくなってしまったわけで……5人立て続けですよ。屋敷の下になんか悪いもん埋められてるんじゃないの?って思ってしまう位なんか怖い。
で、十一代将軍家斉が次元が違う子沢山だったからなのかはわからないけれども、家斉の息子を養子に迎える分けですが……
■敬之助 1797年没 (享3)
お亡くなりに…………えぇ…………
そして、翌年、
□愷千代 1798年 養子となる。(当時6歳)
1799年 第十代尾張藩主斉朝( 7 )
愷千代→徳川斉朝
※一橋治国の息子(徳川家斉の甥)
ここでやっと後継が出来たんだ良かったねと、思いつつ、養子になったのが1798年、藩主になったの1799年ってその間たったの1年なんですよ。なんと、七歳で藩主に……
愷千代を養子に迎えた九代藩主宗睦が1年後亡くなったんだそうです。生きているうちには一族からでは無いとはいえ何とか後継を見つけることができたんですね。
それにしても、7歳までは神のうちといわれていたくらい乳幼児の死亡率が高かったが故に極端に平均寿命が低かった江戸時代(30〜40歳が寿命)ですけど、この立て続けの不幸……宗睦の身になってみたらたまったものではなかっただろう……息子に先立たれ甥に孫までですよ。
愷千代が尾張上屋敷に転居した時に行われた祝いの宴ですが、宗睦と愷千代、亡くなった宗睦の養子治行の正室聖聡院と宗睦の養女琴姫のたった4人、本当に内々での宴だったけれど三汁十菜という正規のお料理が供されたそうです。
この子を、なんとしても十代藩主にするんだという、強い思いがきっとあったのでしょうね。
この祝膳複製ですが、現在閉鎖中の名古屋城の大天守閣の3階に展示されていたもので今回の展示は5年ぶり。
徳川宗睦は、この祝膳を目の前にした時何を思ったんだろうか。先立たれた息子や一族の後継候補の人々を思い悲しんだのだろうか、安堵したのだろうか、このこは長生きしてくれるだろうかと心配しただろうか、色々な思いがきっとあったのだろうと思う。
※ここら辺から、押付け養子なんて言われていて初代の直系は九代までで以降は紀伊家が十〜十三代、十四代以降は水戸家の血筋だったそうだ。
江戸時代後期の御菓子見本帳
干菓子や焼菓子、練り切りなどの見本帳の展示もありました。華やかで実際にお菓子として出されたら自然と笑みが漏れてしまうのでは?なんて思ってしまう。
作り方の指南本もあり作り方や材料も今とほとんど変わらないので、江戸時代後期のお菓子の水準ってものすごく高かったんですね。
蓬左文庫(徳美敷地内)所蔵の史料が多数展示されています。
家康関連では坐像や肖像画、東照宮絵巻等の展示もあり撮影もOKですよ〜(動画NG)
欲求×欲求のハシゴ鑑賞満足すぎて最後の方電池切れしてしまいましたが、今年は大河で家康巡りに余念がないわたくし、次はどこに行こうか思案中です。
とはいえ今回は家康〜というよりは、尾張徳川家のあれこれでしたが。
徳川美術館での展示は終了してしまいましたが、
名古屋城での展示は3月5日まで開催中です。
では、また!!!
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