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神谷姓のルーツ:琉球王国の宰相「蔡温」と神谷家

私の姓名「神谷」の由来について見ていきます。

ちょうど10年前に神谷さんが密集し、遺跡「神谷家の門」がある沖縄県八重瀬町志多伯と、八重瀬町にある神谷酒造さんには行き、横浜市鶴見区の沖縄タウンにも行きましたが、改めて調べてみると、どうやらルーツは沖縄本島の東に浮かぶ津堅島にあるようです。

神谷姓は愛知県と沖縄県に多い

神谷姓の分布は愛知県と沖縄県に多く、神谷あきひこさんのブログが分かりやすいです。

神谷あきひこ公式ウェブサイト「神谷姓の分布は」

東京の神谷は愛知県三河に由来

1880年(明治13年)に日本初のバー「神谷バー(所在地は浅草1丁目1番1号)」を創業したのは愛知県三河出身の神谷伝兵衛です。
創業時の名前は出身地に因みに「みかはや銘酒店」で、後に三河鉄道の社長も務めています。
神谷伝兵衛牛は茨城県牛久市に牛久醸造場(後のシャトー・カミヤ、現・牛久シャトー)も創業しています。

東京メトロ日比谷線「神谷町」駅は、三河国出身の徳川家康に仕えた、十三州御手廻御中間の出身地三河国八名郡神谷村に因んで命名された港区にあった旧町名の神谷町に由来します。
森トラストが「神谷町God Valley 協議会」を発足させています。

まさか、子供の時に呼ばれていたゴットバレーを神谷町が掲げているとは衝撃です。

東京メトロ南北線「王子神谷」駅は、東京都北区神谷に由来しますが、この神谷は、隅田川あるいは荒川で蟹が捕れたことから蟹庭(かにわ)と呼ばれていたというのが通説で、江戸時代は神谷(かにわ)と読まれ、1926年(大正15年)に王子電気軌道が神谷橋駅を設置し、「かみやばし」としたことから、神谷(かみや)と呼ばれるようになったと言われています。

琉球王国の宰相「蔡温」と神谷家

沖縄県の神谷姓について見ていきましょう。

沖縄県内で神谷姓が多いのは以下の3ヶ所です。
・津堅島(神谷村があった)
・沖縄本島南部の八重瀬町(志多伯村や具志頭村があった)
・沖縄最南端の市「糸満市」(副市長は神谷和男さん)

これらの土地に関連するのが、琉球王国の名君と言われる「尚敬王」の右腕として活躍し、琉球王国の五偉人の一人ともされ、三司官(宰相)を25年間務めた蔡温です。

沖縄の最大の繁華街「国際通り」の東端は安里川にかかる「蔡温橋」です。
蔡温が安里川を運河として整備したことから命名された橋です。

蔡温橋を渡って真っ直ぐ走る道が「蔡温橋通り」です。
安里川沿いのお店が並ぶストリートが新名所「蔡温ストリート」です。
蔡温橋近くにある大きなシーサーは「さいおん うふシーサー」です。

那覇市首里赤平町1丁目には「蔡温旧宅跡」があり、
那覇市首里大名町1丁目には「蔡温の墓」があります。

沖縄県名護市羽地にある県指定史跡の「改決羽地大川碑記」は、羽地の水田と農村を救うために羽地大川の大改修工事を行った蔡温の功績を称えた碑です。

首里と名護の軋轢を解消するために、蔡温が名護に立てた「三府龍脈碑」は有形文化財に指定されています。

沖縄本島の北端近くにある「辺戸蔡温松並木保全公園」は蔡温が植林を行なったことがその名の由来です。

このように沖縄に多くの由来する場所を残した蔡温は、34歳で勝連間切の神谷村の脇地頭に就任して神谷親雲上と名乗ります。
沖縄本島の東に浮かぶ津堅島にはかつて、津堅村と神谷村の2つの村がありました。

現在、沖縄本島と津堅島を結ぶのは有限会社 神谷観光が運行するフェリーです。
島内の宿泊施設には神谷荘があります。

その後、蔡温は具志頭間切の総地
頭に就任し、具志頭親方文若と名乗ります。

具志頭は現在の沖縄本島南部の八重瀬町を構成する地区の一つです。

蔡温の父・蔡鐸(志多伯10代)は、東風平間切の志多伯の脇地頭(志多伯親雲上)で、志多伯天将と名乗った琉球王国の歴史家です。
蔡鐸は琉球王国の外交文書を記録した漢文史料「歴代宝案」を改訂しています。
また、蔡鐸は羽地朝秀が編纂した琉球王国の正史「中山世鑑」を漢文訳した、「中山世譜(蔡鐸本)」を編纂しています。

蔡温は志多伯に残る「神谷家の門」を建築しています。

志多伯も現在は八重瀬町の含まれています。

この蔡鐸の志多伯、蔡温の具志頭を含む八重瀬町の東隣が糸満市です。
八重瀬町には泡盛を作る神谷酒造もあります。

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蔡温が治めた津堅島の神谷村の人たちの中から、蔡温とともに沖縄本島南部にも行った人たちが住んだのが八重瀬町や糸満市だったのだと思います。

蔡温は分家の分家から大出世

蔡温の本家は、小禄間切儀間村(現・那覇市小禄)の脇地頭職を代々務めた蔡氏儀間殿内。
元祖は福建省泉州府南安県出身の蔡崇で、久米三十六姓と言われた人たちです。

久米三十六姓は、1392年に明の洪武帝より琉球王国に下賜されたとされる閩人(現・福建省の中国人)の職能集団です。
現在の福建省からの渡来人であったため閩人三十六姓と呼ばれていました。
三十六姓は当時の中国で「多い事」の意味です。

現在の那覇市久米は、かつて3つの川(安里川、久茂地川、国場川)と海に囲まれた浮島で、そこに閩人三十六姓が住み、中国・東南アジア諸国との貿易に関わっていました。

久米には福建省の州都・福州市と那覇市との友好10周年を記念して作られた中国式庭園「福州園」があります。

久米は、古代大和朝廷で軍事的な役割を果たしていた久米部に由来し、やがて閩人三十六姓が住んだ場所が久米村と呼ばれるようになります。

蔡氏の分家である志多伯家の養子になったのが蔡温の父・蔡鐸です。

蔡鐸は久米村の最高実力者である総役にまでなり、蔡温が生まれたのも久米村です。

志多伯家は長男の蔡淵が継ぎ、蔡温は学問を究め、19歳で通訳になります。
その後、父や本家よりも出世し、代々具志頭間切(現:八重瀬町(具志頭地区))の総地頭を務める蔡氏具志頭殿内の祖となります。
蔡温は47歳で琉球王国の宰相に当たる三司官になり、多数の著作を残しています。

京浜工業地帯と沖縄・南米・韓国からの移民

横浜市鶴見区仲通りには「鶴見沖縄県人会館」、「おきなわ物産センター」があり、その周辺には沖縄料理屋が点在し、沖縄タウンを形成しています。

そして、私の父の実家はこのあたりにあります。
私の曽祖父は8人兄弟の末っ子で、沖縄から鶴見・川崎に渡ってきました。

仲通りの西側にはブラジル、ペルー、ボリビアなどの南米料理屋さんが点在する南米タウンがあります。

横浜市鶴見区の東隣の川崎市川崎区セメント通りには「コリアンタウン」の門が設置されています。

鶴見・川崎に、浅野財閥が京浜工業地帯を作り、太平洋ベルトの中核となり、工場がどんどんと作られ、多くの労働者が集まったという経緯があります。

鶴見・川崎についてのお話はまた来週に!

参照

神谷あきひこ公式ウェブサイト「神谷姓の分布は」
島宝見聞録「蔡温」
志多伯集落の散歩(2) 神谷家の門構え
志多伯集落の散歩(3) 志多伯集落と津堅島
美ら島物語 島人インタビュー 津堅島出身の歌手神谷千尋
平敷屋 朝敏
蔡温
蔡氏具志頭殿内
蔡氏儀間殿内
沖縄の新名所!蔡温ストリートでおしゃれな時間を過ごしましょう。
沖縄の水田の里を拓いた蔡温(さいおん)
辺戸蔡温松並木保全公園
三府龍脈碑
久米 (那覇市)
久米
久米一族のルーツ
久米氏
琉球の地頭一覧
沖縄タウン鶴見マップ
4万の沖縄人が大移住した鶴見周辺へ
かわさき区の宝物シート「コリアンタウン」

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