「本屋」の affordance を捨てたのは本屋自身だ

私は、もう全く本屋に行かなくなった。雑誌は e-book またはコンビニで買える。どうせ本屋に行ったって最初に行くのは検索コーナーだ。それなら Amazon でポチるほうが確実で簡単じゃない。ゼノフォビアな方々には業腹だろうけど。

本の力、本棚の力|塚本 牧生|note

同じ記事が「マガジン航」に上がっている。というか「マガジン航」の記事で知ったのだが。 note は現在、休眠中です。すみません。現在は Medium に活動の場を移しています)

学生時代は図書館や本屋に入り浸っていた(あまりに利用頻度が高いので高校卒業時に図書室から記念品をもらったこともある)。広島大学が県庁所在地から逃げるまでは、キャンパス周辺に個性的な本屋さんがたくさんあった。

本屋には何らかの affordance がある。いや、あったと思う。そうでなければ貧乏学生時代に休日を丸々潰して広島市内中の本屋さんをはしごするなんてしなかった。それを壊したのは、他ならぬ本屋であり出版社である(古本屋や図書館は除く)。

本の読み方も変わった。本を読んでて分からないことがあったら、まずネットで調べる。ネットで分からないこと(たとえば複数の知識が絡まる知識大系)は別の本で補う。オンラインとオフラインの区別など意味がない(オンラインだと邪魔が入るという人もいるが、通知を切れば済む話だし、まともなアプリであれば snooze 機能があるものである)。

もはや本屋に「発見」の楽しさはなくなった(むしろ発見の楽しさはネットにある)。かつて本は知性と教養を象徴するものだったが、 e-book が登場し、自己出版などで有象無象が爆発的に増殖する中でブランドイメージをはぎ取られ、今や本は知性と教養の要件ではなくなりつつある。

本屋が、そこにあった affordance を捨て、ただの「本を売る店」に成り下がったとき、本屋の使命は終わったと思う。代わりにその affordance を継承するのは図書館やネット上の空間になっていくと思う。

(同じものを Medium に掲載しています)