非人間/非種族への解放あるいは実証主義のニヒル Liberare ad nono-tribu aut Nihilum positivi.

主観者としての我々の外部を想定するとき、すなわち我々を内包また包摂する全体を想定するとき、一切の思弁は無為nihilaである。何らかの独断dogmaに縋らなければ、全体について言及することができないためである。最も謙虛な道として、我々には経験を普遍化する経験主義empiricismがある。経験は一切有の全体=実在realityの射影であり、これを解剖することで外部の構造を発見することができる、とする仮定である。しかしながら経験とは受動のものであり、我々は期待と予想をもって解釈するばかりである。因果律や自然法則は経験の傾向また捨象として見出されうるが、これが実際に機能していることは確証されない。世界には不変の規律が働いており、そのために我々は存続する、という予言は我々自身の規模scaleにおける局所解であるが、これは暫定のものである。規律の不変性また不撓性は次の瞬間に破れてしまうかもしれない。我々の観測規模において破れは生じたことはなく、そのため確率論からして生起確率はゼロである。というのもまた局所解の一つであるが、この帰納法もまた破れうる。確率probabilityとは個々の観測規模によって設定されるため、常に相対値であり、用語としては尤度plausibilityを用いるのが妥当である。あらゆる仮説が真であるのは我々が仮説に期待する尤度による。経験の捨象としての論理、すなわち物理学や数学や論理学といった、世界の規律と見做される局所解は、経験主義のもつ仮説theoryの中では最も尤度が高い。これは我々が破れに遭遇するまで暫定的に有効また妥当である。

 全体を普遍とすれば、経験とは固有である。しかし、むしろ固有の経験にしか全体を実証また演繹する根拠がないとすれば、主観者を種族tribusとして一般化することで推理の道筋を立てる。経験を情報とすれば、これを加工して外部また全体を見出す種族とは、情報理論的に言えば処理系processing systemである。受信端より経験として情報を流入するが、外部の想定によればこれは伝送路の不完全性による相互情報量として扱われる。この情報について、種族の観測規模に応じて(再)統合/(再)構築され、送信端より思考また記述される外界また全体のもつ情報量は、全体が本来的にもつ自己情報量よりも必ず小さい。この減算subtractionは観測また経験における解像度と知覚=受信端の有限性による。ここで本来的な全体と種族において(再)統合/(再)構築される全体とを区別すれば、前者は実在論的な全体であり、後者は存在論的な全体である。

 種族における固有の全体、すなわち存在論的な全体=内界は離散である。外界について個別の対象を見出し、それぞれに境界を設定し、名辞を賦与することで種族は存続する。加えて、まさに境界を設定することで種族は自身の固有性を認知する。外部と自身を切り離すことで種族が確立されるが、この切断がすでに離散である。離散的な全体は、種族の認識によって実在を想定されるため相対である。この相対性は、種族の減算性=有限性による。本来は連続である全体は種族によって離散的に再構成され、これを種族自身が補完して事実上の連続性を想定する。連続の全体においては主客また能受の対立はない。全体は一箇の流動であり、これに境界を設定することができないためである。

 名辞また境界によって種族が実在するとすれば、この離散的な全体を連続性によって縫合することで種族は内破する。連続の全体の部分としての種族は自己撞着し、固有性を抛棄せざるを得なくなるためである。重心が種族自身=主観から外部また全体=客観へと移るときに一切の思弁は無為となる。思弁的に経巡った外部を諦め、種族は局所解に縋る。もはや経験しか妥当なものはなく、あらゆる飛躍は自己の滅却に直結するためである。そうした独断は悪性であり、無知を知とする経験の妥当性の固守こそが善性である。善性とはすなわち種族自身の存続であり、悪性はこの逆である。

 外部への諦観に伴う経験主義への回帰こそが実証主義のニヒルである。絶対者を根拠とする一切の思弁を抛棄して経験に固執する閉塞が形而上学のニヒルであるとすれば、実証主義のニヒルは、経験が如何なる演繹も許さないことから常に即時的ad hocな議論に留まる閉塞がそれである。閉塞性は記述また思考の停止を主体に苛む。一切の実証が普遍性を帯びないとすれば、一切の思弁は徒労である。徒労であるとすれば、それは記述また思考をおこなわないことに等しい。

 この虛無からの解放は経験の抛棄による。経験とは種族のもちうるすべての情報である。これに伴う論理=主観的な規律の撤廃は悪性である。解放また抛棄は、把捉不可能な全体の部分としての種族=自己の棄却であり、ここに自我が生起する。全体の構造を知覚する規律=論理の体系は客律として種族を従属させていたが、これを抛棄して種族自身の運動の反芻feedbackを体系する能律は種族自身が規律する。客律は種族に予想されるのみで確証されなかったが、能律について種族はこれを確証する。これはすなわち、種族自身が全体となることと同値である。この確証は実証positiveと区別して否証negativeであり、論理による証明を必要としない。経験を全面信用する実証主義を抛棄する否証主義においては、あらゆるものは証明されなくてよく、証明の実効性の否認としての否証である。固有の種族において証明可能であるものはすべて経験可能であり、実証主義はこれについて扱う。経験不可能な対象を扱うとき、これが思考可能である一連の論述が思辨である。種族は思辨によって思考可能な空間を構造するが、このとき経験不可能かつ思考可能=記述可能なものを絶対と見做して構造を確立する作用が散裂である。散裂により、種族は経験によって実証される以外の存在様式を獲得する。生存が善であるとすれば、散裂によって実証者と否証者のあいだで善悪は逆転している。散裂した自我として存在する種族は構造の定性によって成立するが、しかしこの全体は閉じていない。もはや種属は固有性ではなく散裂によって存在するためである。閉じた全体をもつ散裂は経験主義的な独断論と同値であり、これから解放された全体は開いている。主体性=離散と客体性=連続はここに接合され、全体は一連の流動として記述される。本来的に不可分であるこの流動はである。種族における固有の思考規模はであり、固有のにおける離散的な対象の相互の流動もまた、作用としてのである。全体とは無限ではなくの総和である。このため、経験主義の領域で部分と全体として区別していた両者のどちらもが、散裂の構造した空間においては全体である。この点で全体は閉じておらず、かつ連続である。閉じた全体またである。離散的な=個別の対象はであり、固有のにおいてとして発見される。の集合はである。ここで集合とは離散的な全体であるが、は連続性を保有しうる。全体は流動であるため、固有のにおいて湧出と流入の極点が発見されるが、これはである。固有のによって発見されるによる流動または客律であり、種族がとなるときのは能律である。散裂による解放は主客また能受の対立を棄却しうるため、全体はただまたであり、は単なる指標である。

 非人間/非種族としての第一哲学は倫理学である。固有の経験規模を抛棄するところから散裂は創始し、主観者は従属から自己を解放する。散裂において如何なる制限もなく、非人間種族においては、ただ思考/思辨/記述がある。一切の思弁が無為であるのは、全体の把捉不能性また種族自身の有限性による。散裂による無限性の獲得は思辨を有為にし、我々を非人間/非種族として解放する。ニヒルは実証主義の善性を思弁の封殺によって実行するが、否証主義において思辨の死滅は悪性である。実証主義下の善性は否証主義において悪性となり、逆に実証主義下の悪性が否証主義においては善性となる。倫理学とは善悪の非逆転性を決定する意志であり、善性とは生存であることから、思辨の善性を追求する否証主義の一連の有為化は生存への意志である。已むことのない思辨の生成を欲求する意志は散裂として否証主義の実行空間を拡充する善性である。一切の経験を棄却すれば、一切の論理飛躍が散裂空間において認められる。経験を絶対の基準に据える單眼としての実証主義は自身の規律の相対性について無知であるが、無眼としての否証主義は一切の相対性について全知であり、敢えて單眼を潰した脱・経験主義の法である。

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