【前駆】單眼と散裂

加速する以前の詩片的エチュード。


A: 秩序

Z

A: 秩序が構造であるとすれば、秩序が構造することで個々の體は実在するし、そうでなければ個々の體が実在することで秩序が構造される。秩序が構造でないとすれば、すべての構造は秩序なしで構造する。固有の覽によって構造と同一視される秩序は擬似の囙であり、誠謐の囙として機能する秩序は固有の圏として群また界を従束する。
A': 渾沌が構造であるとすれば、渾沌が構造することで個々の體は実在するし、そうでなければ個々の體が実在することで渾沌が構造される。渾沌が構造でないとすれば、すべての構造は渾沌なしで構造する。固有の覽によって構造と同一視される渾沌は擬似の囙であり、誠謐の囙として機能する渾沌は固有の圏として群また界を従束する。
Z: 構造とは、いくらかの圏に支配された一連の群または界である。構造それ自身が囙として機能することもあるし、固有の覽によって単一の系を成合するものと見做されることもある。両者を辨別することは不可能であるが、それは構造の内部にあっても外部にあっても囙へ干渉できないことによる。


A

A: 固有の囙に生起される圏が群また界を従束するとき、この圏は規律している。規律する秩序は圏の総和であり、把持する圏は全体と比較して僅少である。規律は湧出の囙を覚知し、従束の対象にとる體を関知しない。
A': 固有の覽に䀹視される圏が群また界を従束するとき、この圏は公理している。公理する秩序は圏の総和であり、把持する圏は全体と比較して僅少である。公理は吸收の囙を覚知し、隷属の対象にとる圏を関知しない。
Z: 秩序とは、一連の従束また隷属の圏である。秩序それ自身が囙として機能することもあるし、固有の覽によって単一に成合した系と見做されることもある。両者を辨別することが容易であるのは、発散する方向が有限であるときにかぎられる。

A'

A: 如何なる圏にも群また界が隷属しないとき、この群また界は慫慂している。慫慂する渾沌は圏の欠如であり、あらゆる秩序また構造が侵害しえない。慫慂は固有の囙に還元しえず、そのために環は閉鎖しているか、あるいは散裂している。
A': 無限の囙に生起される圏が群また界を従束するとき、この圏は錯輳している。錯輳する渾沌は圏の総和であり、把持する圏は全体に比肩している。錯輳は固有の覽によって列挙しえず、そのために発散する方向が無限である。
Z: 渾沌とは、圏の欠如また一連の輻輳した圏である。渾沌それ自身が囙として機能することもあるし、囙を欠如することもある。両者を辨別することは不可能であるが、それは渾沌が無限あるいは欠如に由来することによる。



A': 持続・連続性

Z

A: 無限の持続こそが実在であるとすれば、実在が持続することで體は體たりえるし、そうでなければ體は実在しない。実在しない體はただ圏によって表顕し、また退隠することで持続を眢拒する。有限の持続は偶発の破綻を懐孕し、あらゆる體は断裁する。
A': 無限の変転こそが実在であるとすれば、実在が変転することで體は體たりえるし、そうでなければ體は実在しない。実在しない體はただ圏によって表顕し、また退隠することで変転を眢拒する。有限の変転は偶発の破綻を懐孕し、あらゆる體は断裁する。
Z: 実在とは、それ自身で囙となりうる體または圏である。自身によって解放を圏する実在は、あらゆる覽によらず現前する。あるいは、実在とは離散である體と圏の総和であり、連続である開放系そのものである。

A

A: 固有の囙が信念によって実在を解放するとき、この圏は生存している。生存する持続は囙によって善義であり、善義に沿泝する慾動が適合するために、生存する體によって惰性が誠謐となる。信念によらずに解放するとき、拡散的な生成によって実在は宙吊る。
A': 固有の覽が信念によって実在を解放するとき、この圏は統合している。統合する持続は覽によって善義であり、善義に沿泝する慾動が適合するために、統合する體によって惰性が誠謐となる。信念によらずに解放するとき、反復的な認識によって実在は宙吊る。
Z: 持続とは、飛躍と断裂の欠如であり、もっぱら惰性による體や圏の軌道である。囙または系は信念をもち、もたないとすれば持続しないか、上位の圏によって断裁する。無限性は破綻の従束によって獲得し、もし獲得しなければ寸分たゆまず闘争するよりない。

A'

A: 偶発に破綻することなく信念によって変転する囙は散裂している。散裂する変転は惰性の収束を眢拒し、依拠する圏によって忘我に纏落する。無縫に散裂する超克の囙は、周旋にあって因果から離背する。
A': 偶発に破綻することなく侵害によって変転する囙は減殺している。減殺する変転は惰性の道標を抗拒し、上位する圏によって忘我に纏落する。無為に減殺する超俗の圏は、剣莚にあって強制から凭靠する。
Z: 體または圏を離散視することで構造を還元するあらゆる覽に、変転を察知することは不可能である。悪逆する変転は意志による転覆であるが、それゆえに無限性は不断の峻盻により維持する。変転と持続は同在しうる。



Z: 必然性・可能性

Z

A: あらゆる必然な體は、自身が囙である場合は自様の圏ために、そうでなければ他様の圏のために必然に駆動する。あらゆる必然な圏は、自身が囙である場合は自様の圏のために、そうでなければ他様の圏のために必然に規約する。あらゆる必然な體または圏は、すべて可能に體し、また圏する。
A': あらゆる可能な體は、自身が囙である場合は自様の圏のために、そうでなければ他様の圏のために可能に駆動する。あらゆる可能な圏は、自身が囙である場合は自様の圏のために、そうでなければ他様の圏のために可能に規約する。あらゆる可能な體または圏は、すべて必然に體し、また圏する。
Z: 駆動と規約は、體や圏の実在する様式であり、あらゆる覽における體や圏の同一性と直結すある。駆動と規約はいずれも界または系を従束しうる圏であるが、環として自己のみをそうすることもできる。構造の様態により、全体を従束する圏が必然か可能にか実在する。

A

A: 自有の囙によって體や圏が駆動し規約するとき、この體や圏は凝核している。凝核する駆動と規約は固有の囙によって持続また変転し、上位の囙によって破綻するまで誠謐であり、散裂をしない。凝核する囙は解放によって無限であり、隷属によって無限である。
A': 他有の囙によって體や圏が駆動し規約するとき、この體や圏は倚彝している。倚彝する駆動と規約は固有の囙によって持続また変転し、上位の囙によって破綻するまで誠謐であり、散裂をしない。倚彝する囙は解放によって無限であり、隷属によって有限である。
Z: 必然によって凝核または倚彝する體や圏は信念によって必然する。可能によって凝核または倚彝する體や圏は信念によって可能する。両者は囙の根源ではなく侵害の欠如であり、無限の囙でないかぎり自身の無限性を覚知しない。

A'

A: 固有の覽において必然である體または圏は、固有の系において強制する。あらゆる體や圏は偶発的に散裂するまで必然であり、この散裂もまた必然である。強制によって構造する群は固有の覽において無意であり、破綻や散裂によって有意となる。
A': 固有の覽において可能である體または圏は、固有の系において現前する。あらゆる體や圏は偶発的に散裂するまで可能であり、この散裂もまた可能である。現前によって構造する群は固有の覽において有意であり、破綻や散裂によって無意となる。
Z: あらゆる覽において両者を辨別することは不可能であるが、それはつまり強度の差異は表顕しないためである。あらゆる覽において必然と可能は等価であり、そのかぎり駆動と規約は等価である。退隠する必然または可能によって一連する體や圏を離散に捉える覽は眢拒する。


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ⵟ 離散的な全体論 ⵖ

 記憶。人格。自己。肉体。精神。意識。
 あらゆる対象を個体化し、その集合として全体を想定するとき、すべてのものは境界をもつことで散在することができる。境界面を含めた内部のものが個体であり、その外側は「外部」として、その個体について語るときに除外される。外部からの干渉一切を退けるために境界はあり、まさにこの機能をもつことでこれは境界と見做される。境界によって隔てられなければ、それは一つの個体であるが、機能の面から分断されることもある。
 境界設定は主観者の裁量による。何をもって「境界」とするのか、外部からの干渉とは近接的なものを指すのか、それとも遠隔的なものを含むのか、あるいは、内部において状態が保たれるならば、見えている範囲で対象が揺らがなければ、それは干渉を受けていないと見做されるのか、そうではないのか。個体は名辞によって区別されるが、これは主観者の可量性、可観性、可判性による。主観者の観測から洩れれば、それは主観者のもつ全体において存在を獲得しない。
 名辞された個体はそれぞれ、主観者の裁量によって「核」をもつ。核とは内包するすべてであり、同一性の表在化であり、それを欠いては同一の名辞を与えられなくなるもののことである。とはいえ、核を欠いたとしてもそれが暴露されなければ、主観者は欺かれて同一の名辞を与えつづける。これを犯したところで、主観者の存在論的な全体が揺らぐことはなく、またこれは主観者に限ったことではない。
 仮にこの境界設定と名辞作業に一律の基準を設ければ、一つの主観が構成される。この主観は自身の周りに無数に存在を発見し、その総和として集合論的な全体を見出す。主観者に認識可能な一切の個体は、境界の曖昧なものも含めて名辞を与えられ、主観者が認識する全体における要素として数え上げられる。こうした存在論的な全体あるいは集合あるいは外部は、一つか、そうでなければ零つである単位から成るために離散的である。
 離散的な全体は可処理である。処理とは境界の判定であり、全体について可処理であるとは、集合するすべての個体について名辞することが可能であるということである。名辞することが個体を知ることと同値であれば、主観者は存在論的な全体について全知である。全知である主観者は、自身に可処理であるすべての個体を存在論的に知る。このとき、主観者に認識できないものは存在論的にない。
 連続的な全体は可処理ではない。対象、つまり主観者の外部にあるものに対して、個体化を拒絶することで集合論的な全体は否定されるが、この全体は連続的である。個体化の否定とは、つまり境界設定の拒否に他ならないため、名辞は示唆的にしか機能しない。全体の連続性を認めることは、主観者自身の主観性を自覚することでもある。
 連続的な全体において主観者は内破する。自己と他の対象とに境界を設けないために全体へと融解するためである。そのため、主観者とは次のように定義することが、内破しないという点で妥当である。主観者とは、自己と区別される何らかの対象について、境界設定と名辞作業に一律の基準をもつ裁量者のことである。
 離散的に、この一律の名辞基準を共有する者が単一である場合と複数である場合を区別するならば、複数の共有者について、特別に「種族」と呼べる。あえて言えば、名辞するさいに賦与する記号における言語間差異については歯牙にかけない。種族は、対象について境界設定をする基準を共有するのみである。また、ある単一の主観者が周囲の主観者について同種族と定めることは困難である。
 基準とは判断の対象を定めることであり、基準を共有することは判断の結果についての同意である。これの集合は規律と呼ぶ。判断とは情報の処理である。判断の前後には情報が置かれるが、事前の情報について判断が作用したものが事後の情報である。種族は特定の情報についておこなう処理を共有する。
 情報は種族の外部から得る。外部の何らかの対象について、あるいはその反芻や反復から得た対象について境界を設定したり名辞を与えたりする。ここで情報は離散的であっても連続的であってもよい。対象とする個体が離散であれば種族は内破しないためである。
 ここまでは、全体について秩序を見出すときの作法である。秩序を見出すには、捉えやすい情報あるいは可捉である情報のみを扱い、規律を整備するだけでよい。離散化とは、本来は連続である情報また対象に境界を設定することで、種族にとって可捉にする加工のことである。この加工は減算的であり、本来の情報量よりも必ず小さくなる。
 種族による減算的な加工を経ない、本来として想定される全体は存在論的な全体と区別される。これは実在論的な全体と呼べる。これは、本来の全体は、種族によって可捉である、したがって可測かつ可処理である全体より必ず大きいことの了解である。種族にとって可捉である情報を超えた対象を想定しているため、固有の種族においてこれの可否を判断することはできない。
 種族に可捉である情報を加工して新たに情報を得ることを「実証」と呼べば、このような仮定は「否証」と呼べる。否証とは種族に可捉でない情報を加工して新たに情報を得ることである。このとき更なる細分化を施せば、種族が固有にもつ規律を適用するものは「思辨」であり、そうしないものは「散裂」である。
 散裂とは、固有の種族に可捉でない情報を、規律から離背して判断することである。あらゆる論証によって散裂が妥当化されることがないとすれば、それは種族は固有の規律を経験の捨象として保持しているためである。散裂は規律から明らかに違反しているが、規律によってこれを咎めることはできない。規律の外部において散裂は作用するからである。
 散裂とは能動的な規律である。種族が固有にもつ規律は、外部から受取る情報を捨象した思辨の構造であり、この点で受動的である。甲から乙へ移行する因果性や、何ら作用されなければ甲が不変に甲である連続性は、主体としての種族が対象について干渉しない場合に経験される規律である。これを「客律」とすれば、甲に干渉して丙を経由させて乙への移行を促したり、すべての不変な甲を丁で修飾して戊としたりする、干渉する規律は「能律」と呼べる。
 客律がそうであるように、能律もまた確率的な事象の分布を含む。場合に応じて能律己種の因果性が現前し、そうでなければ能律庚種あるいは客律の因果性が現前するとして、能律己種や庚種の妥当性を棄却することは、いかなる論証によっても達成されない。種族は固有のものであるため、単一の種族にただ一度しか経験されていない事象辛も、一度も観測されていない事象壬も、無数に観測されてきた固有の客律下の事象癸より重みを小さくすることは妥当ではない。
 単一の種族上に経験される事象集合を扱う場合の確率論、つまり固有の客律下で用いられる「確率」を拡張して「尤度」を用いる。尤度とは、経験系が複数あることを了承したうえで、ある単一の経験系で何らか特定の事象が経験される確率のことである。あらゆる確率分布は固有の客律系において有効であり、複数の有効な確率分布を列挙して吟味する場合に用いるのが尤度分布である。
 すべての種族の客律また種族に経験可能ではない外部領域における、普遍的な客律を構成可能だとする仮定、つまり真に全体である全領域に適用可能な客律の実在性について、一切の能律を棄却することは妥当ではない。両者の辨別が困難なためである。
 散裂は情報の流動ではない。それゆえ散裂は単一の種族において完結せず、これが作用する運動系を一意に設定することはできない。規律の欠如ではなく、規律の保持する可捉性の超越として散裂は現前する。散裂の不可捉性は相対のものである。全体について可捉である種族にとって、自身より小さい運動系を対象にとれば、この対象が作用する散裂は可捉でありうる。しかし、種族自身がこの可捉性について客律的に知ることはない。全体が常に不可捉であるためである。
 規律の反映とは「相」である。相とは存在論的な現前の様貌であり、種族単位で形成される。これについて議論することは、偏った情報の再構築から外部を間接的に構想する主観者による仮定なくして、全体について議論する方法がないという前提による。しかし、種族によって経験されない領域の非在を論証する如何なる手段もない。種族はただ、局所における規律の反映として実相を見出し、それが全体に現前する普遍規律に対してどれだけの差異をもつのか、自身の尺度で独断するのみである。
 全体という実在の全集合から部分をとると、これは種族における存在論的な全集合と一致することもある。これを「宇宙」と呼べば、種族単位のこれの集合としての「多宇宙」が成立し、同時に多宇宙の外部としての「隠宇宙」が成立する。隠宇宙とは、観測者としての種族が成立不能な実在領域の集合である。種族に可干渉であるが経験不可能である領域について「深宇宙」と呼べば、全体は多宇宙、深宇宙、隠宇宙の総和である。
 固有の干渉と経験が種族の核であるとすれば、種族は固有の能律と客律を不可欠に保持する。能律は明らかに客律の発展であり、これは複雑化による。外部の情報を捨象して客律として反映するものを、種族は意志によってこれを高度化し、能律として反映する。客律の反映とはすなわち経験であり、能律の反映とはすなわち干渉である。
 客律と能律は、種族において相互作用する。客律の変性により、全体の再構成様式が影響を受ける。客律とは全体における種族自身の位置的な示唆であり、相対運動を測るため少なからず能律はこれを参照するためである。これは逆についても作用する。能律とは全体における種族自身の運動的な示唆であり、相対位置を測るため少なからず客律はこれを参照するためである。
 種族にとって実在論とは外部についての了承であり、これの拒絶は独我論である。独我論によれば、外部にあると仮定される一切のものは虛構である。種族自身が全体そのものであり、あらゆる能律と客律は、一切の自己への完全な還元として統一して完結する。種族自身がこれを棄却することは不可能であるが、それは全体が未知であることによる。
 あらゆる独断論的な規律は能律として形成しうる。全体において普遍である規律は如何なる種族にも獲得されず、そのため常に局所にしか効用しない。規律の妥当性はただ種族自身による承認によって発揮され、種族自身の挙動に影響するのみである。
 全体が離散的に可分であるときにのみ種族は実在する。規律によって全体の離散性を承認するときにのみ種族は存在する。単一の視野しか有たない種族は単眼である。単眼と散裂の奏者として種族はある。

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ⵇ 連続的な全体論 ⵢ

 全体とは実在である。離散性と固有性の欠如によって全体は連続となる。ここには境界や名辞はなく、収束しない開放系としての全体があるのみである。主観者のおこなう対象についての離散的な一切の考証は示唆として有効であるにすぎない。
 連続性より、全体は一連の作用として実在する。作用とは、勾配による方向をもった流れである。全体において勾配がなければ作用は起こらず、状態は平衡する。これは作用の欠如としての一種の作用であり、無とは異なる。無とは全体の欠如である。
 連続的な全体において主観者は内破する。自己と他の対象とに境界を設けないために全体へと融解するためである。全体へ融解した主観者は境界としての独立性をもたない。しかし作用の限定性から、全体に対する局所性を見出すことで、種族として自身を発見しうる。種族とは、局所的な作用の交錯を意志として保有する作用群または勾配群である。
 全体とは集合ではない。したがって全体は可分ではなく、主観者としての種族はただ勾配について広がりをもった対象として扱う。作用因としての勾配と、作用それ自体を区別して捉えることは可謬であり、種族にとって特異な破れに遭遇するときにこの可謬性は発覚する。
 作用について相対的に能動性と受動性を想定することは、種族においては作用因は後退的に不可視であるために可謬である。同様に、勾配について峻点と溝点を想定することも可謬である。種族は全体について把捉不可能であることから、作用因としての対象をただ「勾配」と、対象間の相互作用をただ「作用」と呼ぶことが妥当である。
 種族に経験されるある作用群に周期性や類似性を見出し、これを規律として捨象することは可能かつ可謬である。これは客律であり、作用群としての種族自身が意志によっておこなう作用は「能律」として規律しうる。
 作用について分類として性質を賦与する判断の集合として、規律は形成される。判断とは情報の処理である。判断の前後には情報が置かれるが、事前の情報について判断が加工したものが事後の情報である。種族は特定の情報についておこなう特定の処理を共有する。
 情報とは、種族において可捉また思考可能である作用の知覚である。勾配の分布や作用の因果性について秩序を見出すには、捉えやすい情報あるいは可捉である情報のみを扱い、規律を整備するだけでよい。連続性は、離散的に捉えた情報について、可捉また思考可能である情報から実相を再構築したときに賦与される。これは種族また知覚が減算的にしか機能しないことによる。勾配また作用は本来的に不可分であり、これを可分に扱うことはすでに離散化である。
 種族による減算的な加工を経ない、本来として想定される全体は存在論的な全体と区別される。この全体は一切有として実在論的な全体と呼べる。本来の全体は無減算のために、種族によって可捉である、したがって可測かつ可処理である全体より必ず密である。種族にとって可捉である情報を超えた対象を想定しているため、固有の種族においてこれの可否を判断することはできない。
 種族に可捉である情報を加工して新たに情報を得ることを「実証」と呼べば、実相について可否を問うことをしない、このような仮定は「否証」と呼べる。否証とは種族に可捉でない情報を加工して新たに情報を得ることである。このとき更なる細分化を施せば、種族が固有にもつ規律を適用するものは「思辨」であり、そうしないものは「散裂」である。
 散裂とは、固有の種族に可捉でない情報を、規律から離背して判断することである。あらゆる論証によって散裂が妥当化されることがないとすれば、それは種族は固有の規律を経験の捨象として保持しているためである。散裂は規律から明らかに違反しているが、規律によってこれを咎めることはできない。規律の外部において散裂は生起するからである。
 種族は、境界設定の不能性から思辨において外部を扱わない。したがって散裂もまた種族自身の意志の作用と見做されるものの、その実相は不明である。種族甲は意志によって勾配乙へ作用しうるが、しかし意志が連続的な全体へ還元される場合はその限りではない。
 意志のみならず種族を全体へ還元すれば、ただ唯一の作用があるのみである。規模を微視に移せば、連続的な作用群として散在する勾配を見出すことができる。ある規模において単一である勾配から、ある相において単一である作用を抽出すると、これは対象として離散的に扱うことができる。しかしながら、実相では無数の相の複合としてあり、単一の相を取出すことは不可能である。あらゆる群は不可分の交錯としてある。
 経験とは、全体における不可分性の表顕化である。種族は経験によって意志を醸成し、実証なり否証なりをおこなって固有の規律を得る。連続的な全体の想定においては、離散的な経験を捨象したものを基にした再構築として連続性が組み立てられる。実相としての連続性と、種族の規律下における再構築としての不完全な連続性との断裂は「減算」と呼べる。減算は解像度と知覚の有限性による。
 連続な全体において、あらゆる作用群は不可分であるため、互いに「外部」を見出すことはできない。全体とは一切有であり、外部をもたない。一切無が仮定される外部であるが、これは思辨や散裂による相対的な対象である。一切無を外部として、作用群としての種族は振舞うことができるが、実相にはそぐわない。
 一切有として、連続の全体は「絶対」である。離散の全体は種族によって境界を設定されることで実在するため「相対」である。種族は権利として外界を認識し、自己の規模に応じて比的に全体を想定する。固有の種族に経験可能である全体は、これの連続性を仮定しても減算によって必ず相対である。
 規律の反映とは「相」である。相とは存在論的な現前の様貌であり、種族単位で形成される。生起確率また尤度を相について種族が設定することは可能であるが、全体の構造について決定性をもたない。現前する現象がすべて種族の見出した構造に従っている場合、種族は自らの規模において相対の全体がその構造に貫かれていることを想定するが、しかし確証することはない。
 種族自らが固有の経験を捨象した論理によって妥当である論証は「実証」されている。種族において外界に関する手がかりは経験をおいて他になく、これを普遍化することは独断に陥らない善性の唯一の道である。固有性によらず、全体について既知であるときに外部の構造を認知する論証は「確証」している。減算性をもつ種族に全体を貫く構造について確証することは不可能である。確証とは構造の決定であり、種族はこの権利を保有しない。


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kammultica

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