思辨における倫理/プロトタイプver.2

Abstract

      In this paper, I consider subjectivity in three steps:
             ・Every logic is derived from justification of experience.
             ・Experience lead us to assumption of realistic outside.
             ・How valid our objectivity which we possess in reality.
       When we define some logical principles, there is a space affected by them, e.g. descriptions and thoughts. There are statements and reasoning as their chain; about processes and structures of them, I simply name 'logic' distinguished from Logic as a discipline of philosophy. In the logical space, statements and reasoning not violating the principles are true only by rules. Because physics is one of logic and Logic too, physical reasoning don't need to be guaranteed by Logical reasoning. Consequently, Hume's problem, a criticism of the laws of physics about emptiness of circular reasoning between the principle of uniformity of nature and induction is solved as ill-posed problem.
       About the access thought in phenomenology or correlationism, if we reject the philosophies of access, we discover a one-way communication channel model between real objects and each subject. This channel is sensory organs and sensor devices, and like as Meillassoux discovered in pure perception theory, mutual-information possessed by each subject is always less than or equal to self-information of reality. Human cannot prove existence of external world = realistic outside, only find ontic internal world(generally called 'world' or 'reality') by (re-)integration or (re-)construction of experience. Although assumption about outside is valid only when we face to Hume's brokenness = brokenness of the principle of uniformity of nature, this is because every logic we believe in is just an abstraction of experience.
       Assumption of existing of universes as spacetimes generated by each inflation is called multiverse theory. If we regard each particular ontic space integrated by each particular subject as realistic universe and group possessing same sensor as 'tribus', we can define realistic multiverse as a set of all tribus's realistic universes. Our studies and logics are peculiar in each tribus, so we cannot say that they are universal in realistic space.
       By applying fideism and assumption of outside of experience, we have to be aware of that we justify truthfulness of experience by sharing reason even academic researcher. It is impossible to talk about reality without human tribus own dogma, but useful to consider how subjectivity is formed. Then all discipline prefixed 'speculative' are generated by split, challenge to objectivity. Objectivity is ethics about speculation distinguished from Ethics as a discipline of philosophy.

1. 論理学/数学/物理学という経験の捨象である3つの論理体系、それぞれの対等性

 物理学は史上いつの、宇宙空間上どの地点においても自然法則が適用されることを知っているが、論理学的な視点からすればこれは帰納法によって担保されているにすぎない。帰納法とは、ある限られた範囲で真となることが確かめられた命題が、抽象化によってより広い範囲で真となることを示唆する法であるが、これが正当化される状況は限られている。正しい抽象化をおこなわなければ反証がいずれ発見され、当該命題が棄却されてしまうからである。とはいえ裏を返せば、帰納法により得られた命題を棄却するには反証を見つけ出さなければならず、反証が得られないかぎり対象の命題は真として扱われるか、あるいは偽とする手立てがないばかりに、論理学の原則の一つである排中律に従って真とされる。
 帰納法による自然法則の正当化の流れは次のようなものである。何らかの自然法則があり、これは発見当時に確かめられ、現在もなお対象とする物理系について有効な近似を与える。人類が観測を始めて以来、一度として自然法則が変更されたことはなく、それはつまりこの宇宙は不変の規則による秩序をもっているためである。これにより、自然法則は当該宇宙において時空間に亘って有効に機能することが期待される。
 ここに、帰納法による正当化の材料として自然の斉一性原理(principle of the uniformity of nature)(*1)が用いられている。この原理はつまり「未来は過去に類似する」あるいは「未来は現在に、過去も現在に類似する」というものである。原理と呼ばれるのは演繹が不可能なことによるが、それというのは過去に経験した世界と異なる世界をかつて人類が生きたことがなく、また人為的にそうした世界を経験することは人類に不可能なことによる。しかし、少し注意すればこの斉一性原理も帰納法により正当化されていることがわかり、また、帰納法の構造自体も斉一性原理に由来していることが見て取れ、ここに有名な循環論法が見出される。すなわち、自然法則は斉一性原理を用いて帰納法により正当化されるが、この斉一性原理は帰納法的に正当化されたものであり、帰納法もまた斉一性原理によって正当化されているのである。循環論法とは、論理学的には無為のもの、すなわち何事についても語っていない空虛な論証と見做される。ここに、自然法則は論理学的に何物にも担保されず、これを基礎として展開する物理学的論証は空疎のものとなってしまうという問題が浮かび上がる。これは歴史上「ヒュームの問題」として扱われ、永劫解決されないだろう問題として認知されている。これについてグッドマンはそもそも帰納法が非合理であるとして存在論的な問題を撤退させ(*2)、ポパーは良く検証/テストされたものが「妥当」であるに過ぎないとして真偽についての議論を控えた(*3)。真偽の判別のつかないものは慎重に扱うべきである、という態度が大勢である。
 では、物理学自身は自然法則についてどういった正当化をおこなっているのか、物理学において何か人類に新しい自然法則がなされる場合について見てみよう。ある特有の実験環境において生起した現象について、実験者はそれまで知られている定式化によってその現象が現様に生起することができないために、ここに未知の自然法則が働いていることを察知する。彼は測定データについて吟味し、当該実験系にて変動する諸物理量のうち、対象とする現象の生起に関わっている要素を抽出し、その対象物理量についての測定点を増やして実験をおこない、その動向についてより詳細なデータを得る。そして現象というのもまた諸物理量の変動であるから、起因となる物理量の変動量がどのていど結果となる物理量の変動量に寄与するかについて数式を用いて定式化し、これを自然法則の一員に加える。この新規な自然法則は、実際の物理系に対して適用が利くのか、同一の対象物理量を扱う実験者たちによって、完了することのないテスト/験証を永劫に亘って受けつづけ、当該自然法則の示す近似の例外となる現象が観測されるまで有効と、あるいは例外となる現象が観測された以降は実験系の複雑性に応じて部分的に有効とされる。
 ここについて言えることは、物理学において論理学的な正当化をおこなう必要は全くないということである。物理学上有効である論証はテストに耐えうるために有効であり、この「有効である」「妥当である」というのは論理学において「真である」と言うのと全く同等である。よって私はここに、論理学ならびに物理学両者の体系を、真偽決定の観点から区別することの必要性を提示する。ヒュームの問題について見直せば、これは問題設定が誤っているために問題を解決できない。つまりこれの解答不能性は、物理学的な論証は論理学的に妥当でなければならない、という誤認により問題が提起されたことに由来するのである。本章では以降の論述により、論理学の従う論理と、物理学の従う論理が別様であることを詳らかにする。
 真っ先に言えることは、論理学は物理学と同様に経験を捨象して構造された体系であるということである。物理学上の自然法則が神によって授けられた普遍の法則でないように、論理学上の各種規律(law)、排中律や矛盾律や同一律といった規約もまた人間が発見したものであり、実際の世界は秩序ある構造をもち、この構造は論理学上の規律を骨格としている、と普遍に言うことはできない。ある人が同一の人格を保てるのも、万物が因果律に従っていることも、ただ経験からしてそうだというだけであり、森羅万象がある特定の論理学規則に貫かれているように思われるものの、実際にその規則が機能している如何なる証拠を発見することも人間にはできない。
 人間はただ、自ら定めた規則上で、規則に従うことを取り決めた対象が、論理空間においてどのように運動するか、を記号ないし論証をもって記述するだけである。論理学の論理空間において真である言明の大半が実際の世界においてもその通りに観察されることは、論理学が経験の捨象として上手く機能していることを示し、穿って言えば、まさに観察されることによって実際の世界ではその対象、その現象様式が真とされることも論理規則による。実際の世界において現象しないものは、論理学的に見て真ではなく、真でないからには偽とされるが、ふつうは偽であると判断するには材料が足りないために真偽決定は留保される。実際の世界から概念を引用してきて、それを論理学の論理空間上で扱うさいには、扱い者自身の知識によって真偽が判断されるものの、一度判断してそれを覆さなければ、論理空間上では規律に従って、命題の連なりとしての論証に組み上げられ、正しく規律にのっとって組み上げられた論証もまた論理学的に真となる。
 しかしながら、論理学の論理空間上で真となる一切の命題および論証が実際の様式と合致するのは、規則によりそうなるのではなく、不断の合致の発見を通して規則が予想されるだけである。ヒューム流に言えば、すべての合致は全くの偶然であり、人間に証拠を発見することが不可能なことから、何物にも担保されない。論理学の規則は人間が定めたものであるから、人間が「これを機能させる」と言えば、まさにその宣言によって一切の真偽性は担保され、論理空間は規律通りに運営されるという意味で清潔に保たれる。しかし実際の世界を運営するのは人間ではなく、また運営者の有無は不明であり人間に確かめることはできない。仮に「検証が済んだ」として、更なる外部の非在を証明することはできず、無限後退に陥るためである。
 以上より、論理学は経験の捨象であり、不断の捨象作用により実際の世界における一貫した規律が機能していることを予想できたとして、それが実際に機能していることを論理学的に確証することは人間に不可能である、ということが言える。これは、視点を変えればつまり「自然法則が論理学的に空疎である」という非難の不当性の本質に当たる。これを述べたい者は自然法則の検証の不徹底性、また実際の世界との埋めようのない距たりをあげつらいたいのだろうが、論理学自身に目を移してみれば、論理学的に真である論証といえど実際の世界について何も定めて言うことはできず、繰り返して言えば物理学自身も論理学的に妥当な論証を必要としていない。自然の斉一性原理は、また自然法則も、根本的には経験の捨象である。このことから、規律(law)/原理(principle)という出発点が異なるために、その論証形態は別様であるが、論理学と物理学は互いに経験の捨象であり、互いに互いが、自身の規則に従っていないばかりに一方的に却下することができないことから、両者は対等であるらしいことがわかる。この対等性こそ、論理学の従う論理と、物理学の従う論理が別様であることの証左である。実際のところ、論理とは論理学の専有物ではなく、それぞれの体系が固有にもつものである。一連の論述を踏まえて言えば、論理とは、論理原則として定めた規則が機能することを宣言し、それが維持される空間(記述ないし思考)において論証を組み立てる過程、また空間を維持する構造のことを指す。論理学における論理や、物理学における論理は、これの一例にすぎないのである。(付言すれば、「law」という一語の使われ方を見ればわかるとおり、語用に関する意味論的にも両者の断裂は明らかである。物理学では目的として、論理学では出発地として、それぞれ使用されている)
 論述は省くが、これは数学についても同様である。数理もまた経験の捨象であることから、実際の世界について、ヒュームの偶然性から逃れて、定まったことを言えず、数学に固有の論理原則の適用を宣言した論理空間において論証が真に機能するのみである。そしてまた数学的な論証が一方的に論理学また物理学の論証を却下できないことから、三者はそれぞれ対等にある。
 三者の対等性、またそれに伴う独立性については、歴史的な成立過程を全く度外視してのことである。ここでは、固有の論理をもつ体系は、固有の論理原則を定めれば、自律的に自生し、自らの論理空間を論証により拡張することができる、ことを了承する。論理空間の拡張とは、それぞれの体系により様式が異なる。定理や法則のリストを編むことが主であり、論理学であればまた場当たり的に議論することもこれに当たる。言い換えれば、歴史的な成立過程の度外視とはつまり、固有の論理原則さえ与えれば、現様の論理学/数学/物理学それぞれの論理体系を自生させることができる、ということの了承である。歴史を顧みれば、数学において新規において発見された定理がそのまま物理学へ流用された例など枚挙に暇がないが、これは物理学の論理原則上に矛盾しないためにそうできたのであるから、物理学の論理空間において独自に発見し、それを自身に適用することは全く可能なのである。これは、仮に他力によりその定理を発見したとして、それが物理学の論理空間上で正しく適用できるのは、数学の権威によるのではなく、物理学の論理原則上何も問題が発生しない、ということでもある。
 本章を要約しよう。

・論理とは、論理原則として定めた規則が機能することを宣言し、それが維持される空間(記述ないし思考)において論証を組み立てる過程、また空間を維持する構造のことを指す。
・論理学や数学や物理学といった体系は固有の論理原則から自律的に自生可能であり、固有の論理をもつ。
・経験を捨象して構造されたそれぞれの体系は、実際の世界を貫く法則を想定するのみであり、それを確証することはできないために対等で、何れも他方より優位に立つことはない。
・ヒュームの問題は、対等性を犯して、つまり論理学が物理学に対して優性のものであるという誤った前提から提起されている。

---------------------------------------------------------------------------------------*1)デイヴィッド・ヒューム 人間本性論 知性について(2011 法政大学出版局 木曾良能訳)
*2)ネルソン・グッドマン 事実・虚構・予言(1987 勁草書房 雨宮民雄訳), クァンタン・メイヤスー 潜勢力と潜在性(2014 現代思想 黒木萬代訳)
*3)カール・ポパー 客観的知識(1974 木鐸社 森博訳)


2. 主観者は経験を通して外部を(再)統合/(再)構築する
 前章において、論理学/数学/物理学は、どれも経験の捨象であるために互いに対等であることを記述した。しかしながら、捨象の対象については「実際の世界」と言うのみで多分に不明瞭であった。本章はこれについて検討する。
 実在論によれば、論理学/数学/物理学それぞれの論理空間を構築する主体者またその意識から独立に諸物(objects)は存在し、この諸物の集合、またこの集合がもつ空間的な拡がりは外界と呼ばれる。実在論的な外界、あるいはそれと同一視されがちな実際の世界、現実について、人間は経験の捨象からここに普遍の規則が作用していることを期待するものの、その実態について確定して知ることはできない。人間の棲まう宇宙は、余剰次元を除いて、空間の3次元と時間の1次元の4次元時空間とされるが、「次元」という観念は人間が作りだしたものであり、論理学/数学/物理学それぞれにおいて定義するこの観念にしたがって外界が構造されていたとしても、確証されることはない。また、この確証不可能性は構造についてだけではなく、実在じたいについてもそうである。実在とは、仮に諸物が存在するとして、何らかの主体に認識されることで存在するのではなく、それ自身で存在すること、その存在様式を指す。実在とは絶対的に諸物が存在することであり、相対的に存在する場合は単に「存在が認識される」「存在論的に存在する」と言う。認識されることで諸物は相対的に存在し、認識されることなく実在は絶対的に存在するのである。独我論を退けて言えば、諸物はそれ自身で、つまり絶対的に存在し、人間は経験を通して相対的にそれらの存在を知るだけであり、絶対的に諸物が実在することを確証することはできない。
 ここで経験とは、人間にとっては感覚知覚された情報の堆積、またこれを抽象的に解釈した諸学問知のことである。まさに現在感じられる感覚刺戟と、経験とを足し合わせて、人間は外界の状態を想像するが、このとき情報の(再)統合/(再)構築(*4)がおこなわれている。(再)統合/(再)構築により想像される外界は、実在論的な外界と必ずしも一致しない。そのため、主観としての人間自身の内部において擬似の外界の見出されるという意味で、これを内界と呼ぶ。人間はこの内界を現実として認識しており、一般的には実在論的な外界と同一視している。一般的な信念によれば内界と外界は一致している、あるいは部分的に一致していると考えられているのである。しかし外界の実在様式について何ら確証できないため、内界における相対的な存在の集合は、感覚器官が虛偽を働かないものと信用すれば、明らかに、外界における実在の集合の部分集合である。外界における諸物の実在について確証しうるのは想像上の造物主だけであるが、しかしそうであるならば、内界における諸物の存在について人間は確証しうる。感覚する情報が自身において(再)統合/(再)構築された総和が内界であり、このなかで連続性をもって存在する諸物は、存在論的に明らかに存在する。断っておくことには、ここで、諸物の集合から諸要素を取りだすことはしない。諸物について、それがどこから単体として数え上げられるのか、名辞か、原子レベルの構成要素か、というのは個人の主観により全く異なる。この点から、人間にとって一般的な内界というのは、まさに知覚された情報の総和であり、何となれば全人類、全時代にわたって総和をとることも厭わない。単位について分けて見ることはせず、ただ諸物の集合と述べるに留まり、まさにそうすることによって内界の一般性を保つ。
 さて、内界、つまり感覚情報を(再)統合/(再)構築して想像される外界においては、自然法則や因果律が明らかに成立する。これは主観的にそう見えるもので、主観とはつまり感覚刺戟の堆積により構成された記憶ならびに経験、またそれに伴って発現する意識のことである。実在論的な外界についてはいざ知らず、内界では、人間が観測可能な範囲ではひとまず、諸法則は時空間にわたって普遍的に機能している。なぜこれが機能しているかについては、外界の創世者のみが知るところであり、主観者としての人間はただ、現象の規則性や類似性について察知して定式化し、生活に役立てるのみである。論理学/数学/物理学といった経験を捨象した知識は外界について何も確定して言うことはできないが、その言説の妥当性を主観者に提示する。これらの知識に基づいて内界の次の状態を予想することが有効であり、この予想に基づいて行動したり何か物を作ったりすることができる。そのために主観者の信用を受け、信用を受けられない言説は棄却される。学問知が真理と等しいとされるのは内界と外界とがぴったり符合する場合のみであり、仮に、外界と比較して内界が小さければ、主観者について特殊に有効な知識、という地位に学問知は留まる。
 内界が外界の部分集合である、という事実は、経験しうるかぎりが世界そのものである、という主観的な比重の強い信念からは無視される。これが顕在化するのは、ただヒューム的な破れに人間が遭遇した場合のみである。
 ヒューム的な破れとは、つまり斉一性原理の破綻である。検証する手段がないばかりに無条件に信用しているこの原理は、本来、いつ例外に遭遇しても不思議ではない。これが破綻しないかぎり有効に機能する、という註釈を論理学/数学/物理学いずれの論理空間においても付けておくべきなのであるが、史上一度として破綻が生じていないために、学問者はこれを怠りがちである。
 この破綻は曖昧な想定であり、文脈によって解釈される強度にはばらつきがある。これが実際的にどのような作用を指すか、強弱について二つほど例示する。
 一つには、諸法則の時空間依存性が挙げられる。自然法則や因果律は時空間に普遍のものとして扱われているが、局所的な時間あるいは空間において例外が発見されることで破れが顕在化するのである。これについては、論理原則を変更せずに対処できる、つまりそのような例外を含めて定式化をおこない、この破れを補修することができるために、弱い破れである。物理学においては時空間依存項を科学定数や自然法則に付加してやるか、アドホックに局所時空間における定式化をおこなえばよく、論理学と数学についてもおおよそ同等の対処でよい。
 強い破れについてはおよそ二種類ある。一つは、論理原則を変更しなければ破れを補修できない場合である。破れが顕在化する以前と以後、両方を記述しうる普遍式を構築したくば、それまで組み上げたすべての論理について、根本原則の変更により生じた矛盾や乖離について註釈を加えなければならない。例えば、あらゆる現象の生起様式が確率的に決定されるような(局所)時空間の存在は、ことにこの確率が、ポアソン分布やガウス分布といった、定まった平均値を示すようなものでなかったとき、論理体系を危殆に晒すことになる。場当たり的に現象が生起することになる、つまり現象の予想が不可能になったとき、もはや現状の論理体系は有効ではなく、まさに有効性のみによって存続している論理体系はここに不要となるからである。こうした場合、論理体系を存続させたい者は速やかに原則を改訂し、現象の予測としてではなく、歴史学的な堆積として論理学/数学/物理学を位置づけることを要求することをもって対処したものとする。
 もう一つの強い破れでは、もはや主観者に破れを修復することはできない。それは、この破れによって主観者自身が存続しえなくなるためである。諸法則として内界に秩序が見出されるのは、他ならず(再)統合/(再)構築をおこなう主体が存在することによる。破れによってこの主体が淘汰された後の内界はいかなる論理によっても体系化されえない。
 結局のところ、ヒューム的な破れとは、観察主体と実在論的な外界との接触面での作用のことであり、主観的な考察にすぎない。主観者が気づかなかっただけで外界はもともとそうだったのである、という発見は、外界の確証不可能性に由来し、その顕在化のことである。論理学/数学/物理学という経験の捨象を破綻させるのは、経験をおいて他ならない。すべての論理空間は主観によって形成される。外部に何か対象がある、というのは、内界、意識主体の内部に(再)統合/(再)構築された外部に何か対象がある、ということと等しい。この(再)統合/(再)構築された空間こそ存在論的空間であり、まさに主観者が認識することによって存在する一切の存在物の集合がこれを形成する。この存在物は感覚刺戟によってのみ認識されるものではなく、主観者が想像可能なものはすべて存在可能である。ただ経験のみによって(再)統合/(再)構築された内界と並列に、想像により認識されたイデアルな存在物は存在する。また穿って言えば、経験によって(再)統合/(再)構築された存在物と、そうでない存在物とを区別することは困難である。科学的に実証しえないものが存在しないことを確かめることはできず、内界の一般性が総和によって成り立つ以上、個人の信条によって特定の論理体系に認められないものを排斥することは許されない。
 ここに、実在論的に絶対的に実在する諸物に対して、存在論的に存在する諸物を区別する。存在論的空間は主観者が認識し、まさにこの認識によって相対的な存在を獲得する諸物の集合である。主観者にとっての外界、存在論的空間は、それが完全に経験に由来し、絶対的な実在と相対的な存在とを中継する感覚器官においていかなる虛偽を経験が付加されないときにのみ、実在論的な外界の部分集合である。外部に実在しないものを主観者が認識することは可能である。これを存在論的空間の要素として数え上げると、実在論的空間との差分が現れる。実際には、実在論的空間と存在論的空間とを比較することはできず、主観者は後者しか知りえない。そしてまた、前者は別様にも定義可能である。次章において客観性を検討し、これにより主観性を浮き彫りにすることを試みる。

---------------------------------------------------------------------------------------*4) '再'に括弧がつくのは、諸物が実在して、それ由来の情報を人間が知覚しているのであればそれは「再統合/再構築」に違いないが、それが確証されない以上は、単に情報だけがあり、それを自身で「統合/構築」しているに過ぎないからである。


3. 真に客観性を獲得することについての想定、物理学的マルチバースと実在論的マルチバース
 物理学者は屡々「理想的に」という枕詞を用いる。これは変数が多いために煩雑きわまりない外部の、現実の物理系に対して、熱力学的考察であれば熱力学に、電磁気学的考察であれば電磁気学に、それぞれ関わるパラメータのみを抽き出し、また計算を簡単にするために、スケールに合わせて小数点特定桁以下を切り捨てる作業をも場合によりおこなう。この近似が成り立つのであれば、言い換えれば、このような近似を用いた論証が扱い者にとって有意であるかぎり、この「理想的な」議論は実用的であり、また妥当である。実用的であり、妥当である多くの議論は測定データに基づく。特定の物理系について得られた測定データが強く示唆するところを汲みとり、実際の現象の構造を理解することで、構造についての説明を反証するデータが得られないかぎり、この議論は有効なものと見做される。
 宇宙という自然環境において、自己を知り外部の構造を推測しうる知性とは稀有の存在である。ドレイクの方程式によれば、太陽系を含むこの銀河系に存在し人類とコンタクトする可能性のある地球外文明の数は十種であり、これは2000億から4000億と推定されている恒星数と比較して、破格に少ない。そしてまた現代天文学の標準理論(FLRWモデル)に含まれるインフレーション理論によれば、生命が存在しうる宇宙が生成されうるのは確率による(*5)。インフレーションの生起様式に従って科学定数値が決定される。とくに真空エネルギー値Λや重力定数値Gは星形成の有無に関わり、この具合により、塵より大きな集合物が生成されうるかが定まる。他にも、分子結合が維持される温度状態や電磁気状態など、複雑性の獲得は多数の状態に依存する。これら科学定数諸値の微妙な調整によるため、インフレーションによって発生する宇宙には必ずしも生命が発生しえない可能性があるのである。こうしたインフレーション様式の選別を免れ、また恒星から絶妙な距離に置かれた地球環境様式、この両者の下に発生した知性、人間は、その存在じたい極めて恵まれており、これを産んだ環境は、まさに設計者によって構成されたと考えたくなるほど精緻であることから、見事な調律、Fine-Tuningと称される。
 「なぜ無ではなく何かがあるのか?」という問いに答えた宗教は史上いくつもあり、多くは「造物主が設計したためである」と提示する。物理学的な知識を得て唯物主義に改宗した者は、世界の様式について理由を知りたがることは愚かであり、ただどのようにして世界があるのか、という疑問を解消しつづけることが正しい帰依の作法だと信じるが、それでもこの見事な調律を目の当たりにすれば「なぜ世界はここまで絶妙に保たれているのか?」という疑問を呈さずにはいられない。一歩誤れば選民意識に転じかねないこの興奮を冷ます回答に、人間原理(anthropic principle)という思考様式がある。これによれば「そのような世界しか観測可能ではないからだ」というひと言で片が付く。知性の発生確率のおそろしく低い環境にありながら我々があり、他の無数の、知性の発生不可能な環境に我々がないのは、そうした環境は知性が発生しえないために、知性には観測不可能だからである。物理学とは、理想的に、認識主体なき客観により自然の姿そのものを捉える論証をおこなう体系であるが、観察対象に取りうる諸物が、そもそも全体から偏って選ばれていれば、学問者が均等に対象を選択しているつもりでも、出来上がる体系は偏ったものとなるのである。
 こうした人間原理による謙虛より、逆説的な仮説が生じうる。それはつまり、知性が発生しうる宇宙がそもそも少数だとすれば、多数派である宇宙が同時に存在しても何らおかしいことはなく、仮に世界が、単一のインフレーションによって生起したこの宇宙より広いとすれば、同時に複数の宇宙が存在することはじゅうぶん可能である、というものである。これはマルチバース理論と呼ばれ、単一の(uni-)ユニバースに対して、これが複数(multi-)あることを仮定する。これまで「宇宙」と呼んできたのは、単一のインフレーションによって生起したユニバースであり、この集合としてマルチバースがあり、このマルチバースこそが真の物理学的な世界像であるとする立場である。
 認識主体なき客観による自然の描画を目標に掲げる物理学としては、より主体の偏った視座から離れ、普遍に漸近するという意味で、この理論は望ましいものであるが、ある重大な問題がある。それは、マルチバース理論には反証可能性(unfalsifiability)が無いことである。
 ある固有のユニバースに棲まう者は、他のユニバースの存在の可否について、また内部状態について何も知ることはない。ユニバースの内部空間に対して、複数のユニバースが置かれる、インフレーション理論上は全くの無であると考えられる空間をメタ空間(metaspace)と呼ぶが、ここで泡状に無数に生起していると考えられるユニバース群のうち、泡どうしが衝突を起こしていれば、その両者の内部における観測者はマイクロ波背景放射(CMB)から衝突を検知し、他のユニバースの存在を確証できる(*6)ものの、それは衝突している幾つかのユニバースの存在を検知するのみであり、もし一つとして衝突を起こしていなければ、それは自然において単一のユニバースしか存在しない状態と、観測上は変わらない。つまり、他のユニバースが存在することは検証可能であっても、存在しないことは検証不可能なのである。これは、物理学史上、他に類を見ない性質の仮説であり、それはむしろ古代ギリシアにおけるデモクリトスの原子論やアリストテレスの宇宙論のように多分に思辨的、つまり検証を必要としない議論なのであることから、科学理論として認めがたいという向きがあるのである。
 しかしながら、観測者の生活に役に立つ、したがって実用的で妥当であることだけが学問に要請されることではないとすれば、マルチバースによる一連の視座の転換は、よりすぐれた客観性を獲得しうるという点で耳目をひく。単なる仮説であり、しかもその妥当性が永劫示されないのだとしても、そもそも主観者自身が全知となることは、主観者自身に可知であるところのものが実在のすべてである、という信念の下以外にはありえない。したがって、外部のすべてを確証することはできない、実在論的空間の外延を確定することはできない、とする謙虛な実在論者は、このマルチバース的な視座の転回を実在論上でおこなうことで、より主観者の偏見を抑えた認識の視座に立ちうる。以降の論述において、物理学的なマルチバースと実在論的なマルチバースを区別する。
 実在論におけるユニバースとは、すなわち単一の主観者が保有する存在論的空間の根源とされる、実在論的空間のことである。これはつまり、主観者の情報処理系が自身を経由して主観者に経験を与える経験作用において、まさに感覚器と接触する情報源としての実在の集合である。主観者は固有の感覚器ならびに固有の情報処理系をもつため、外部にあるすべての実在と接触することは難しい。この接触可能な実在群のすべてを外部そのものだとする仮定は偏っているのであり、まさにこの偏りによって実在論的なユニバースが一つの集合を形成するのである。
 転回を果たすべく、ここで主観性による偏りを自覚し、他のユニバースの実在を仮定する。いまや主観者は人間に限られず複数あり、それぞれ固有の感覚器と固有の情報処理系をもつために、実在論的ユニバースとの固有の接触面をもち、主体において固有の存在論的空間を構成する。物理学的マルチバースにおけるメタ空間に対応する、単一の主観者における外部、実在論的な外界は、いくつかの泡によって区画が見られるようになる。この泡の一つ一つが、特定の主観者における実在論的ユニバースである。これらは、例えば同一の物理学的ユニバースに存在するとされる主観者、人間からして火星人やイルカのようなものは、部分的に同一の実在と接触面をもつために、人間のもつ実在論的ユニバースと、それらのもつ実在論的ユニバースは衝突しているものと考えられる。翻って、同一の物理学的ユニバースに存在していないような主観者や、そもそも如何なる手段をもってしても交信不可能な主観者については、実在も存在も確証することはできないが、実在論的ユニバースの衝突が生じている可能性はある。
 ここで、同一の感覚器および情報処理系を保有する一群の主観者を種族Tribusと呼ぶことにすれば、同一の種族に属する主観者は存在論的空間を共有し、同等の接触平面をもつ。前章に述べたことを汎化させれば、存在論的空間とは、ある種族が認識し、まさにこの認識によって相対的な存在を獲得する諸物の集合である。ある種族において経験するヒューム的破れは、その種族のもつ実在論的ユニバースの変質ならびに拡張に他ならない。種族の主体に昇る情報は、感覚器と実在論的ユニバースとの接触面から吸いあげられるが、この接触面の様相が変化するのであり、アナロジー的に言えば、接触角度や浸透圧の変位、内伏していた実在の接触平面への浮上、感覚器または接触平面の硬質化や軟質化、実在論的平面の沸騰、等々が生じたために、吸いあげられる情報が変成するのである。しかしながら、それは必ずしも実在論的空間の変成を意味しない。ある種族の接触する実在対象は実在論的空間のうちの限られた個数のものだけであり、それは他のある種族が接触しているものかもしれなければ、そうでない可能性もある。主観的に、したがって天動説的には、実在が流動するのに諸感覚器は翻弄され、ヒューム破れは種族にとって厄災としか見られない。しかしこの主観性を排して、実在論的空間において種族自身が航海しているように考えると、変質するのが実在論的接触面ではないことが頷ける。後者は経験にはまるで合致しないが、経験は所詮主観によるものであるから、実在論的空間について何も確証することはない。実在論的空間の実際の様式と必ずしも一致しないし、それどころか懸け離れていることも否定できない。
 ここで、諸種族の固有にもつ個々のユニバースすべてを要素にとる集合、つまり実在論的マルチバースは、実在論的空間、すなわちすべての実在を要素にもつ集合の部分集合であることに注意する。すべての種族のすべてのユニバースの総和をとったところで、それが実在論的空間の全体と外延を一致するとは限らないということである。
 これを物理学へ逆輸入すれば、諸自然法則が支配しえない空間は存在しない、という物理学の立場を崩すことも可能である。見出されている自然法則は、つまり人間に見出すことのできる自然法則の総和は、自然の全体において機能している諸自然法則の総和と、必ずしも一致しない。これにより、人間に知りうる自然法則に支配されうる(メタ)空間の全体としての物理学的マルチバースは、更に半径を拡げた外部、自然法則による支配を補完する全体(omni-)の空間として物理学的オムニバースが見出される。これは文脈により無限集合として扱われるが、本論では単なる集合である。ある種族において概念化可能な集合に無限延長という属性を与えたところで、それを部分集合にとる集合について言及することにはならない。いかなる種族も自身の存在論的空間を逸脱することはできないため、概念的な拡張は自身の空間内で必ず収束するためである。また、ここで実在論的オムニバースとは実在論的空間全体のことである。実在論的空間とはすべての実在を要素とする集合だからである。
 本章でおこなった一連の客観化作用によって見出されるマルチバース、またオムニバースは、単一種族による外部認識の偏見を浮き彫りにする。史上「イドラ」と呼称されてきた、種族に固有な偏見は、完全に排することは叶わずとも、その権勢を弱めることは充分可能であると信じる。本章の考察のすべては、論理学/数学/物理学いずれの文脈からしても妥当とは言いがたいものであるが、しかし反証不可能性からして、いずれによっても棄却されることはない。
 経験の捨象であるそれらの知識が妥当とするものと、外部の真の様相とがどれだけ合致しているかについて、単一の種族には判断しえない。我々のなすべきことは、どこまでが人間固有の論理で、どこからが、この固有の論理から逸脱や抽象を図ったものかの峻別をおこなうことである。人間種族にとって妥当な議論を取りあげてそうでないものを棄却すべき場ではその通りに為し、自由に発想することが許される場においては、人間固有の論理から逸脱するからという理由で、まさにこの理由のみによって、むやみに言表を排斥しないようにすることが肝腎である。とすれば、外部についての思考する際の倫理について、他ならぬ学問自身の手によって論理を構築することも、まんざら無為とも言いがたい。

---------------------------------------------------------------------------------------*5)Luke A. Barnes The Fine-Tuning of the Universe for Intelligent Life(5. The Multiverse)(2012 arxiv)
*6)George F.R. Ellis, Jean-Philippe Uzan Causal Structure in cosmology (2014 arxiv)


4. 妥当性について -学問的であることの倫理性-
 前章において適用した客観化作用は、外部についての考察を無限後退に陥らない形でおこなうための論証様式であり、その形体は背理的な演繹法であった。経験の捨象である既知の学問知識から出発し、学問的に反証不可能な言明により演繹をおこなう法である。これは一般的な物理学のもつ自明性、すなわち理論云々は抜きにして現象が突きつけられたとき、その現象は必ず物理学的に定式化できるのだ、という無根拠な期待を抱くことが、まさに前提となるべき現象が手元にあらわれないため、これに欠いている。
 物理学に限らず学問における客観性とは、誰にとってもその知識を有意に扱えること、つまり人間種族において実用的であり、妥当であることにある。実用的であるとは、その知識を用いなければ不可能また困難であった事柄をあまり労せず為せるようになりうることであり、妥当であるとは、理性的である多くの人がその論証によって納得しうることである。
 この知識は、他種族において有効である必要はまるでなく、ただ人間に読解可能な言語で、ただ人間が生活するときに有用であればよい。このとき、一つの種族として閉じたコミュニティの外部、種族一般について有効な知識についての検討は、人間種族自身の内輪で議論して到達することは難しい。それぞれの種族が自前の学問的知識をもちより、その積集合をとることが最も簡易であるし、それが、互いに接触可能な種族における知識という偏ったカテゴリのものであったとしても、前者よりは信用がおけるものと考えられる。
 ある種族において正しい、つまり妥当とされる学問的知識は、優先選択によって採択された要素から成る。理性的な人々の間で自明でないとされる言明を基礎において演繹作業をおこなう独断論的な論証はなるべく斥けるべきであり、そうすると必然的に、万人が具えている感覚器官の情報、および意識に浮上しうる経験のすべてを信用し、これを基礎とする論証がもっとも受け容れやすく、また自明であると信じられる。
 メイヤスーが主著(*7)において洞察したところによれば、旧くは特定の宗教によってなされていた、神学的な統制を受けた独断論が風化してみると、ここには本質的な信仰主義(fidéiste)が生じる。形而上学的な絶対者または外部について言及するあらゆる言明は、それが外部について何ら定めて言うことができないために、少なからず独断論的な性質を帯びている。独断論的な言明は、それを信用する理性を共有する者たちの間で信じられる。ここで、神学的な統制、つまりある理性を共有した人々のもつ、その理性の源泉が崩れてみると、理性の共有単位は、それまでの学派やセクトから、それより小さな集団、果ては個人へと細分される。ある特定の宗教によらない理性をもつ人々は、まさにそのために理性を宗教化(enreligement)されている。つまり、それまで宗教単位でおこなっていた独断論的作業を個人や小さな集団の理性自身によっておこなっているのであり、この点で「宗教」とは独断論的作業を合理化(rationalisation)する作用のことである。
 ここから踏み込んで言えば、合理化の主体としての理性は、恣意化された経験に他ならない。論理学/数学/物理学いずれの学問も経験の捨象であり、自身に経験される事柄について、普遍的であると思われる知識を信じる。しかし外部について何も確定して述べることはできないため、学問的知識のみを信用することも、一種の信仰に他ならない。ここで共有されている理性は「経験されうる事柄のみを信用する」というものであり、そうでないものをただ「経験されない」という理由で棄却すること、両極のいずれも独断論的な性質を具えている。経験を信じ、その捨象によって得られた知識が自身の生活を豊かにするとして、それが経験を信仰しなければならないことにはならない。この独断論的な言説に服従することを選択している時点で、学問者も一人の信仰者であり、学問とは現代において支配的な神学である、と言うことも充分可能である。宗教が独断論的な知識の合理化作用であるとすれば、その合理化によって産みだされた箴言を編んだ体系こそが神学だからである。
 ある個人が属する種族とは、人間一般あるいはホモ・サピエンス一般を必ずしも指さない。共通した感覚器と情報処理系を有するものどうしが種族として集約されるが、理性、つまり特定類の言説への信仰心は、情報処理系の一部として機能しうる。これにより生物学的な分類からさらに分断されて種族は成立しうるかもしれない。また、これは逆も然りである。個々人の理性による差異など、種族の内輪で肥大のものと映るだけで、他の実在論的に断裂した種族を鑑みれば微々たるものであるとすれば、イルカや火星人など、同一の物理学的ユニバースに属する者は皆一つの種族として還元可能かもしれない。同一の物理組成をもてば、実在論的な接触面はほとんど同一だろうと考えられ、我々の種族が触れうる実在の集合が、実在の全体集合と較べてずっと小さかった場合、断裂はむしろ実在論的空間において起こっているものと見做せるためである。種族とは主観的に分類するものではなく、いくつかの種族を見出して、それを分類するものである。しかし実在論的な視座に個々の種族が立つことはできないため、正しく分類されることはないのである。
 ここで、本論ではいくつかの不可能性について扱ってきたが、思考不可能であることについて、それがただ思考不可能であるという理由で議論を閉じることは簡単である。しかし、もし、その議論が如何にして思考不可能であるのか、どのような視座にあればその思考不可能性は解消されうるのか、という議論に価値を与えうるのならば、それが論理的な構造をもちうるかどうかというのは、充分に学究の対象となりうるものと考える。外部について言及する一切の思考が、理性の作用なしに真とされえないとすれば、ここに、ある思考について、それがどのような根拠をもち、どのような動機をもって真とされうるのか、またそれの優先選択をおこなう辨別機構は理性においてどのように形成されうるのか、ということについて議論をおこなう倫理の想定がなされる。
 これはちょうど、第一章において論理学と論理とを区別したような仕方で見出されるのであり、人間が形成する倫理一般について議論をおこなう倫理学とは区別される。論理学/数学/物理学といった経験の捨象であるあらゆる論理は、あらかじめ定められた論理原則にのっとって論証をおこなうことを誓った理性らにより、自身に固有の論理空間をもつ。これらの論理はさらに、扱う対象についての取り決めについて同意することで、複数の人間において論理空間を共有されるようになる。しかし、何も外部について定めて言うことはできないため、何らか特定の動機を得ないことには、確定した言明をおこなうことはできない。ここで、論理原則に従っているすべての言明を合理化する傾向こそが倫理であり、各々の論理はそれぞれに固有の倫理を保有する。保有の形式は様々であり、どちらかが他方に従属する形も、監査機関として他方を設置する形も、一体として融合する形もありうる。第一章において、あらゆる論理体系は同一の論理原則をもつことで、再現性をもって自律的に自生しうると述べたが、倫理の共有がおこなわれなければ、それぞれは偏った体系として再現されうることを、ここに注意しておきたい。
 ある種族、またある理性が、自身の経験的な知識また存在論的な想像に基づいておこなう一連の記述、また記述様式について、単に思考を辨別するという意味で「思辨」と呼ぶことにする。思辨はそれ自身で真となったり正当化されることはなく、必ず何らかの主観者によってそうされる。倫理によって選別また抽出された経験についての捨象から仮説としての思辨がいくつも形成され、それを論理原則の下に成否を判断することにより、あらゆる学問的知識は醸成されている。ここで学問的知識とは、特定の論理による選別を受け採択された思辨の群に他ならない。主観者の感情によって表出し、倫理と論理による二段階の審査をパスした思辨が、ある種族、ある理性において知識として堆積するのである。
 ある思辨について真偽性また正当性を賦与するものが、それ自身では不確定である特定の理性によるものだとすれば、もはや制約は何もない。とすれば、経験されるもの以外を認めないとする学問側の態度も、自由に改変される余地がある。しかしながら、迂闊な改変は無用な体系の断裂を招きうるため、体系自身については触れずに、独自の体系を新たに産みだしてゆくことが要請される。本流の学問体系との区別のため、「思辨-」という接頭辞を諸学問名前につけることとすれば、分派した「思辨○○学」は、「基となる学問上の知識から出発し、思辨的な演繹過程を経て、当該学問の論理原則また定理によって棄却されない結論を導く」という性質を帯びる。思辨的な演繹過程とは、経験による証拠の提出を一切必要としない、ただ思辨の記述によるものである。前提と結論さえ、基となる学問において妥当である言明であれば、その倫理様式また論理様式は、基となる学問の名に接頭辞をつけて名乗ってよいとする。
 思辨-を冠する、分派によって誕生する一切の学問は、客観性への挑戦を動機とする。実用性、妥当性は、特定の種族また理性によって構成されるものであり、思辨による学問はこの外部を想定し、経験と不可能性の狭間で論理構築を試みるのである。前章にておこなったユニバース/マルチバースについての検討により、すでに思辨物理学は実践されている。マルチバースとは、物理学上のインフレーション理論を基礎とし、反証不可能である思辨的な考察を経て、マルチバースという物理学的な構造をもつ宇宙の一形式を提示しているからである。

---------------------------------------------------------------------------------------*7)カンタン・メイヤスー 有限性の後で 偶然性の必然性についての試論(2016 人文書院 千葉雅也、大橋完太郎、星野太=訳)

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