(假)離散全体論:実証主義的ニヒリズムへ対抗する種族認識論の実践壱

 あらゆる対象を個体化し、その集合として全体を想定するとき、すべてのものは境界をもつことで散在することができる。境界面を含めた内部のものが個体であり、その外側は「外部」として、その個体について語るときに除外される。外部からの干渉一切を退けるために境界はあり、まさにこの機能をもつことでこれは境界と見做される。境界によって隔てられなければ、それは一つの個体であるが、機能の面から分断されることもある。

 境界設定は主観者の裁量による。何をもって「境界」とするのか、外部からの干渉とは近接的なものを指すのか、それとも遠隔的なものを含むのか、あるいは、内部において状態が保たれるならば、見えている範囲で対象が揺らがなければ、それは干渉を受けていないと見做されるのか、そうではないのか。個体は名辞によって区別されるが、これは主観者の可量性、可観性、可判性による。主観者の観測から洩れれば、それは主観者のもつ全体において存在を獲得しない。

 名辞された個体はそれぞれ、主観者の裁量によって「核」をもつ。核とは同一性の表在化であり、それを欠いては同一の名辞を与えられなくなるもののことである。とはいえ、核を欠いたとしてもそれが暴露されなければ、主観者は欺かれて同一の名辞を与えつづける。これを犯したところで、主観者の存在論的な全体が揺らぐことはなく、またこれは主観者に限ったことではない。

 仮にこの境界設定と名辞作業に一律の基準を設ければ、一つの主観が構成される。この主観は自身の周りに無数に存在を発見し、その総和として集合論的な全体を見出す。主観者に認識可能な一切の個体は、境界の曖昧なものも含めて名辞を与えられ、主観者が認識する全体における要素として数え上げられる。こうした存在論的な全体あるいは集合あるいは外部は、一つか、そうでなければ零つである単位から成るために離散的である。

 離散的な全体は可処理である。処理とは境界の判定であり、全体について可処理であるとは、集合するすべての個体について名辞することが可能であるということである。名辞することが個体を知ることと同値であれば、主観者は存在論的な全体について全知である。全知である主観者は、自身に可処理であるすべての個体を存在論的に知る。このとき、主観者に認識できないものは存在論的にない。

 連続的な全体は可処理ではない。対象、つまり主観者の外部にあるものに対して、個体化を拒絶することで集合論的な全体は否定されるが、この全体は連続的である。個体化の否定とは、つまり境界設定の拒否に他ならないため、名辞は示唆的にしか機能しない。全体の連続性を認めることは、主観者自身の主観性を自覚することでもある。

 連続的な全体において主観者は内破する。自己と他の対象とに境界を設けないために全体へと融解するためである。そのため、主観者とは次のように定義することが、内破しないという点で妥当である。主観者とは、自己と区別される何らかの対象について、境界設定と名辞作業に一律の基準をもつ裁量者のことである。

 離散的に、この一律の名辞基準を共有する者が単一である場合と複数である場合を区別するならば、複数の共有者について、特別に「種族」と呼べる。あえて言えば、名辞するさいに賦与する記号における言語間差異については歯牙にかけない。種族は、対象について境界設定をする基準を共有するのみである。また、ある単一の主観者が周囲の主観者について同種族と定めることは困難である。

 基準とは判断の対象を定めることであり、基準を共有することは判断の結果についての同意である。これの集合は規律と呼ぶ。判断とは情報の処理である。判断の前後には情報が置かれるが、事前の情報について判断が作用したものが事後の情報である。種族は何らかの情報について、これを処理する手段を共有する。

 情報は種族の外部から得る。外部の何らかの対象について、あるいはその反芻や反復から得た対象について境界を設定したり名辞を与えたりする。ここで情報は離散的であっても連続的であってもよい。対象とする個体が離散であれば種族は内破しないためである。

 ここまでは、全体について秩序を見出すときの作法である。秩序を見出すには、捉えやすい情報あるいは可捉である情報のみを扱い、規律を整備するだけでよい。離散化とは、本来は連続である情報また対象に境界を設定することで、種族にとって可捉にする加工のことである。この加工は減算的であり、本来の情報量よりも必ず小さくなる。

 種族による減算的な加工を経ない本来の全体は存在論的な全体と区別される。これは実在論的な全体と呼べる。これは、本来の全体は、種族によって可捉である、したがって可測かつ可処理である全体より必ず大きいことの了解である。種族にとって可捉である情報を超えた対象を想定しているため、固有の種族においてこれの可否を判断することはできない。

 種族に可捉である情報を加工して新たに情報を得ることを「実証」と呼べば、このような仮定は「否証」と呼べる。否証とは種族に可捉でない情報を加工して新たに情報を得ることである。このとき更なる細分化を施せば、種族が固有にもつ規律を適用するものは「思辨」であり、そうしないものは「散裂」である。

 散裂とは、固有の種族に可捉でない情報を、規律から離背して判断することである。あらゆる論証によって散裂が妥当化されることがないとすれば、それは種族は固有の規律を経験の捨象として保持しているためである。散裂は規律から明らかに違反しているが、規律によってこれを咎めることはできない。規律の外部において散裂は作用するからである。

 散裂とは能動的な規律である。種族が固有にもつ規律は、外部から受取る情報を捨象した構造であり、この点で受動的である。甲から乙へ移行する因果性や、何ら作用されなければ甲が不変に甲である連続性は、主体としての種族が対象について干渉しない場合に経験される規律である。これを「客律」とすれば、甲に干渉して丙を経由させて乙への移行を促したり、すべての不変な甲を丁で修飾して戊としたりする、干渉する規律は「能律」と呼べる。

 客律がそうであるように、能律もまた確率的な事象の分布を含む。場合に応じて能律己種の因果性が現前し、そうでなければ能律庚種あるいは客律の因果性が現前するとして、能律己種や庚種の妥当性を棄却することは、いかなる論証によっても達成されない。種族は固有のものであるため、単一の種族にただ一度しか経験されていない事象辛も、一度も観測されていない事象壬も、無数に観測されてきた固有の客律下の事象癸より重みを小さくすることは妥当ではない。

 単一の種族上に経験される事象集合を扱う場合の確率論、つまり固有の客律下で用いられる「確率」を拡張して「尤度」を用いる。尤度とは、経験系が複数あることを了承したうえで、ある単一の経験系で何らか特定の事象が経験される確率のことである。あらゆる確率分布は固有の客律系において有効であり、複数の有効な確率分布を列挙して吟味する場合に用いるのが尤度分布である。

 すべての種族の客律また種族に経験可能ではない外部領域における、普遍的な客律を構成可能だとする仮定、つまり真に全体である全領域に適用可能な客律の実在性について、一切の能律を棄却することは妥当ではない。両者の辨別が困難なためである。

 散裂は情報の流動ではない。それゆえ散裂は単一の種族において完結せず、これが作用する運動系を一意に設定することはできない。規律の欠如ではなく、規律の保持する可捉性の超越として散裂は現前する。散裂の不可捉性は相対のものである。全体について可捉である種族にとって、自身より小さい運動系を対象にとれば、この対象が作用する散裂は可捉でありうる。しかし、種族自身がこの可捉性について客律的に知ることはない。全体が常に不可捉であるためである。

 規律の反映とは「相」である。相とは存在論的な現前の様貌であり、種族単位で形成される。これについて議論することは、偏った情報の再構築から外部を間接的に構想する主観者による仮定なくして、全体について議論する方法がないという前提による。しかし、種族によって経験されない領域の非在を論証する如何なる手段もない。種族はただ、局所における規律の反映として実相を見出し、それが全体に現前する普遍規律に対してどれだけの差異をもつのか、自身の尺度で独断するのみである。

 全体という実在の全集合から部分をとると、これは種族における存在論的な全集合と一致することもある。これを「宇宙」と呼べば、種族単位のこれの集合としての「多宇宙」が成立し、同時に多宇宙の外部としての「隠宇宙」が成立する。隠宇宙とは、観測者としての種族が成立不能な実在領域の集合である。種族に可干渉であるが経験不可能である領域について「深宇宙」と呼べば、全体は多宇宙、深宇宙、隠宇宙の総和である。

 固有の干渉と経験が種族の核であるとすれば、種族は固有の能律と客律を不可欠に保持する。能律は明らかに客律の発展であり、これは複雑化による。外部の情報を捨象して客律として反映するものを、種族は意志によってこれを高度化し、能律として反映する。客律の反映とはすなわち経験であり、能律の反映とはすなわち干渉である。

 客律と能律は、種族において相互作用する。客律の変性により、全体の再構成様式が影響を受ける。客律とは全体における種族自身の位置的な示唆であり、相対運動を測るため少なからず能律はこれを参照するためである。これは逆についても作用する。能律とは全体における種族自身の運動的な示唆であり、相対位置を測るため少なからず客律はこれを参照するためである。

 種族にとって実在論とは外部についての了承であり、これの拒絶は独我論である。独我論によれば、外部にあると仮定される一切のものは虛構である。種族自身が全体そのものであり、あらゆる能律と客律は、一切の自己への完全な還元として統一して完結する。種族自身がこれを棄却することは不可能であるが、それは全体が未知であることによる。

 あらゆる独断論的な規律は能律として形成しうる。全体において普遍である規律は如何なる種族にも獲得されず、そのため常に局所にしか効用しない。規律の妥当性はただ種族自身による承認によって発揮され、種族自身の挙動に影響するのみである。

 全体が離散的に可分であるときにのみ種族は実在する。規律によって全体の離散性を承認するときにのみ種族は存在する。

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kammultica

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