思辨における倫理/プロトタイプver.1

予稿: 規約また共通了解について意味論的な整合性を度外視した場合、数学/論理学/物理学の三者は、その規約が必ず維持される論理空間系、つまりそれぞれの論理規約がただ論行者の了解によってのみ支持/適用される思辨的な領域における、規約に反しないかぎりのあらゆる立論を完全のものとし、ヒューム的な、つまり論行者に支配しえない偶然性のために論理的必然性が担保されず、ただ信念による妥当性のみによって理論の好悪を判定せざるをえないような不完全性を、三者の論理空間においては斥ける。独我論的でない立場では思辨としての自己の外部が想定されるが、この、思辨による完全な支配を受けつけない外部、人間が「現実」と呼ぶ類いの物理的また存在論的(他)な拡がりに関しては、三者の論理を整合性を保持したまま適用することは、人間が論理規約の設定/運用をしえないために不可能である。このとき広大な外部はその全容を人間固有の数学/論理学/物理学によって演繹することは、これらによる規約を人間が外部について担保しえないために不可能であり、人間は目下のところ経験、感覚器官のセンシングによる情報を信用し、これを抽象化した法=数学/論理学/物理学が身の回りに整合的/完全的に適用されていることを確認するに留まる。
 このとき、仮に人間原理の枠組みを逸脱するほど遠隔した外部を想像すると、これによって得られる外部、つまり現実像/世界像は、思辨ならびに物理的なアクセスが不可能でありながらも、外部の実態についての確証を得るに数学/論理学/物理学が決定的に働かないとすれば、ある種オカルト的な妥当性しかもたないこの言明を斥けたがる人間の要求/欲求の正体は何ら感情的なものに過ぎず、そうであるならば、人間原理の枠内で機能する言説も、この外側で機能すると見込まれる言説も、ひとえに、論理規約がただ論行者の了解によってのみ支持/適用される思辨の論理空間においては対等に扱われることが望ましい。それは、論理規約が完全に機能する空間に、確証のない、したがって論理的に打倒ではない外部ゆらいの感覚的な情報を特権的に容れていたことへの反省であり、またこれを剝奪することで、結果として人間の経験においてのみ固有に機能する論理の特権をも払拭し、脱人間中心主義的な、より普遍的な論理のありかたについて思辨的な想像を試みることにもなるだろう。本論は、この一連の脱中心化作業ならびに普遍化によって展かれる思辨の視野についての素描である。

1. 論理学/数学/物理学それぞれの体系の独立性
 物理学は史上いつの地点においても自然法則が適用されることを知っているが、論理学的な視点からすればこれは帰納法によって担保されている。帰納法とは、ある限られた範囲で真となることが確かめられた命題が、抽象化によってより広い範囲で真となることを示唆する法であるが、これが正当化される状況は限られている。正しい抽象化をおこなわなければ、得られた命題に対する反証が遅かれ早かれ発見され棄却されてしまうからである。とはいえ裏を返せば、帰納法により得られた命題を棄却するには反証を見つけ出さなければならず、反証が得られないかぎり対象の命題は真として扱われるか、あるいは偽とする手立てがないばかりに、論理学の原則の一つである排中律に従って真とされる。物理学に関しては、ある特有の実験環境において生起した現象について、対象物理量に干渉しうる要素が確証されたのちに定式化され、対象物理量が観測される地点ではどこでもその近似された理論式に沿って現象は生起するものと、すなわち時空間方向に普遍化される。これは「未来は過去に類似する」あるいは「未来は現在に、過去も現在に類似する」という自然の斉一性原理(principle of the uniformity of nature)(*1)による抽象化であるが、しかしこの斉一性原理もまた帰納法によって導出されたものであり、ここに有名な循環論法が見出される。すなわち、物理学は斉一性原理により普遍化されるが、斉一性原理は帰納法により正当化されるものであり、物理学の普遍化作用が帰納によるものであることから、帰納法が正当化されるのは斉一性原理による、というものである。論理学的に言って、循環論法では命題自体について何ら説明がおこなわれないため、この論証は空無と同等に扱われる。つまり、論理学的に言えば物理学は何も語ってはいないのである。こうした物理的論証の空疎性は歴史上「ヒュームの問題」として扱われ、永劫解決されないだろう問題として認知されている。グッドマンは、そもそも帰納法が非合理であるとして存在論的な問題を撤退させ(*2)、ポパーは、よく検証/テストされたものが「妥当」であるに過ぎないとして真偽についての議論を控えた(*3)。
 しかしながら、私の見立てでは、これは問題設定が誤っているために問題を解決できない。というのは、物理学的に真偽を確かめられるべき問題について、まったく無関係な論理学の規約を持ちだしてきてこの吟味に当たっているからに他ならず、ヒュームの問題についての解答不能性は、哲学者──物理学の問題について論理学的な解決を試みようとする者自身によって誤った問題提起により産みだされた奇形児である、と言うよりないのである。
 真っ先に申し上げることは、歴史上、物理学と完全に分化した哲学における確証が物理学に寄与したことは何もないということである。物理学的な知見は論証によって担保されるものではなく、検証によってそうされる。したがって物理学にとっての「必然性」とは、「同一の検証によって同一の観測がおこなわれること」であり、論理学的証拠が一つとして必要になることはない。
 また、単一の命題ないし複数の命題を抽象化および普遍化する作業は論理学の実効権力下において「帰納法」と呼ばれるが、物理学は論理学的な妥当性、つまり論理学の権勢を拝してこれを適用するのではなく、したがって物理学的な抽象作用について、論理学の文脈においてそうされる「帰納法」という呼称を適用することは不適切である。物理学は基本的な規約によって構造化され、定式化作業はそのばかりに「論理的」であるが、これは「論理学的」であることと区別されなくてはならない。
 そしてまた物理学における自然法則(自然律, law of nature)が現象の近似として捨象的に導出されるのに対し、論理学上の法、無矛盾律(Law of noncontradiction)や排中律(Law of excluded middle)は、これを起点として議論を始めさせる前提であることから、学問上使用する語彙についての意味論的な断絶が見られる。したがって見かけ上同一な語彙を用いて論理学と物理学両者について何ら断わりなしに議論することで無用な紛糾が生起するだろうことは明らかであり、先の問題はこの一例であると見ることができる。
 次いで「法」についての区別に関して言えば、明らかな構造(化)過程の差異が見受けられる。論理学が規約の定義およびその了解から出発し、その適用によって定理を構成するのに対し、物理学は明示的には何も前提を措かず、せいぜい非明示的に、観測量の完全な客観性、すなわち観測者自身の恣意と全く関わらない外部系の存在の仮定を前提するくらいである。したがって起因と成果の観点から両者は体系として区別されるべきであり、それはすなわち、実際の歴史的発生過程についてはいざ知らず、物理学は物理学の、論理学は論理学の、それぞれ固有な規約が与えられれば、両者は独立して自生しうることの証左である。
 以上の事由から、一つの命題が見出される。(これは論理学的に真な命題であり、物理学的に真偽如何されるものではない。)

物理学が帰納するのは物理学が固有に保持する規約によってであり、論理学的な論証が寄与することは何もない。

 誤解を排するために付言するとすれば、物理学の「論理」は物理学に固有のものであり、これは論理学の保有する「論理」とは区別されなければならない。物理学上の命題は上に述べた物理学的な必然性によって真偽が決定され、論理学上の命題は事前に定められた律(Law)に沿うかぎりに真であり、そうでなければ偽である。とはいえ、物理学上の議論について論理学的な区分である「命題」「真」「偽」を流用することは場合によっては適切ではない。命題とは論理学の最小単位であり、物理学の最小単位は(定式化を含む)論証およびその検証であり、これについて特定の名称は定められていない。そしてまた「疑いもなく適用されること」が物理学者にとって信用する基準であり、実世界、すなわち完全な客観視による外部においてそれが実際に機能しているかどうかについては、それが検証不可能なことを知っているために、問題にはならない。論理学において真であるとされる命題が実際的に機能していなければならないことと比較して、これは論理学と訣別される決定的な差異である。加えて言えば、ヒュームの問題を抱える、決定性について不審な外部、つまり論理学的な規約が担保される保証のない対象について論理学的に語るときについては、論理学といえど経験的に「妥当」であるに過ぎない。論理学の真偽が特権的に機能するのは、つまり真偽を人間が判断して覆されないのは、思辨のみにより構成された論理空間においてのことであり、伝統上「神」なる絶対者に規定され、無神論上何者にも(したがって人間にも)規定されない、思辨の外部、実世界、現実、ユニバース等々と呼称される、ただ独断論の否定によって生じる外界について、論理学的に真偽を確定された如何なる命題をも得ることはできず、論理学的であると擬似的に語られているそれらはただ信念や信仰によって妥当であると判断されているに過ぎない。
 ここでまた、同様のことが数学についても言える。つまり、数理は「論理学的」に担保されるものではなく、ただ事前に取り決められた数学に固有の規約が固有の「論理」を生成し、規約に従うかぎりの定理を扱い、規約に悖る定理ならびに論法を退ける。数学上の思辨、つまり数式による立論はただ数式により構成された論理空間においてのみ真偽性が確定され、思辨の外部、ただ独断論の否定によって生じる外界において何も確定した数理を提出することはできず、信念や信仰によって近似が妥当のものであると判断される。
 こうして論理学、数学、物理学の独立性および対等性、つまり三者は三者に固有の規約によって自生すること、断わりなしに共通語彙を並べ立てて無用な紛糾を引き起こすのを自粛すること、が認められることと思われる。三者の論理の明らかな類似性、また酷似性は、三者がいずれも外界から及ぼされた感覚知としての経験を基礎としたその抽象であることに由来するためであり、また、論理学定理の数学への流入および数学定理の物理学への流入は表面上のことであってそれぞれ両者の不可分性によるのではなく、その実態は模範を与えられての自律的構造化、すなわち数学また物理学に固有の規約に基づく演繹によりそれぞれの体系に自律的に構造されることに由来するため、三者の独立性が揺らぐことはない。

---------------------------------------------------------------------------------------*1)デイヴィッド・ヒューム 人間本性論 知性について(2011 法政大学出版局 木曾良能訳)
*2)ネルソン・グッドマン 事実・虚構・予言(1987 勁草書房 雨宮民雄訳), クァンタン・メイヤスー 潜勢力と潜在性(2014 現代思想 黒木萬代訳)
*3)カール・ポパー 客観的知識(1974 木鐸社 森博訳)

2. 意識主体は経験という濾過器を通して不完全な外部を再構成する
 実在論によれば、意識、論理学的/数学的/物理学的に何らかの思辨をおこなう主体者から独立に諸物(objects)は存在し、この諸物の集合また形成する総合領域は外界と呼ばれる。諸物の実在を人間が規定することはできず、それが可能であるのは、思辨上想定可能な造物主のみであり、このために諸物の実在について人間は何も断言することはできず、ただ経験に照らしてもっともらしいという信念を保持するのみに留まる。この経験、つまり知覚および知覚の反復また記憶の堆積が主体化したものを100%信じ、より議論を深化させれば自然科学が醸成されるだろうが、直感的な部分を切り出してみれば、ここには主観による対象への命名行為がある。眼球の直径、皮膚上の感覚点の間隔についてはひとまず無視するとして、対象について知覚して、それらが存在空間から個々に、椅子だの林檎だのコンピュータだのと区別して命名するさいには、人間(スケール)固有の観察がおこなわれている。椅子について木片や釘といった構成物の単位で、林檎についてクエン酸、グルコース、ペクチンといった諸成分の単位で、コンピュータについてメモリ、プロセッサ、キーボードといったモジュール単位で、それぞれ数え上げず、椅子、林檎、コンピュータという個物としてそうするのは、対象のもつ機能や流通時に扱う単位がそうであるからである。また、もし日常から乖離した観点からそれらを部品、栄養素、モジュール単位で分割して考えたところで、それは依然として人間に固有の命名が適用されている。そしてまた脳科学によれば、意識とは、神経叢における情報のエコーである。これを人格として一つに統合して命名し、そのような単位として実在することを想定する。実在論とは多分に主観的な世界観であり、主体自身さえも逃れることはできない。ここで主体もまた外界に実在する一つの対象として扱われる、まさにこのことによって実在論的な主観、数え上げ/命名/区分する主体としての意識は客観性を獲得し、規約を主観から切り離すことができる、と信じられる。果たして、この客観性は擬似のものである。
 ヒューム的な破れ、つまり個々に現象という単位で区分され、それらの連結としての時空間に非依存な恒常的随伴(constant conjunvtion)の崩壊を人間が制馭できないこと、この外界についての諸物の存在規定ならびに現象の生起規約の非決定性から、論理学/数学/物理学それぞれが規約を自己定義可能な固有の論理空間、これの外部における如何なる必然性、すなわちある対象が実在し/ある現象が生起し、それがある特定の存在/生起様式が現様に認められる仕方によってそれ以外の仕方ではありえないことを保証することは、三者のいずれにおいても不可能である。論理学において真である命題、数学において有効に機能する定理、物理学において自然界の近似とされる法則、これらはいずれも、ある特定の瞬間に外界において検証され、それが機能することを確かめられるのみであり、あらゆる時空間においてこれが成立することを担保できない。あらゆる命題、数式、物理理論の複合としての思辨も、必然性について誤りなく言及することができるのは、ただ主体が完全な実行支配権をもつ論理空間においてのみである。
 ここで、客観性は明らかに、主観が恣意的に形成した論理空間の内部にしかありえず、現にそのようなものを指して「客観」と呼んでいる。外界に関する如何なる言及も、主体が固有に保持する論理空間においておこなわれ、ここで語られる「外界」とは、主観という濾過器を一度通した外界の情報の再構成なのである。より明快に、三者のうち最も実際的な物理学に関して言おう。
 物理学はある特定の物理系について、初期条件としていくつかの物理量を用意し、体系において既知であるすべての自然法則に対してこれを代入し、時間変化や空間遷移について計算する。この物理系は自然の時空間の一部を切り出したものとして想定されるが、これが実際と一致するかについて物理学者が確証を得ることはできない。ヒューム的な破れを度外視したとしても、人間固有のスケールにおいて現象として顕在化しない何らかの物理量/自然法則がここに存在/機能していること、そのすべてを列挙することは不可能であるからである。電磁界や質量によって物質はポテンシャルエネルギーをもち、それが運動や相互作用によって顕在化することでこれを観測量に含めることができるが、完全に潜在的にエネルギーをもち且つこれが決して顕在化しない場合、観測者がこれを発見することはできず、これを無視した近似をおこなった場合、人間に観測される外界の様式と近似して再構成される外界とは一致するものの、実在論的に想定される外部、つまり主体の意識や経験と独立してあるとされる外界とは必ずしも一致せず、言い方を変えれば、一致していることを物理学が確かめることはできない。それというのはひとえに、主観が自ら保有/支配する論理空間において生成した擬似の客観が、濾過により外界を抽象して得た経験を基に擬似の外界を再構成していることによる。
 そしてまたこれは経験の捨象として構造される論理学/数学にも同様であり、したがって、実在論的に想定される外界、また人間が「現実」と呼ぶ類いの物理的また存在論的な拡がりは、主体には不完全に再構成され、その不完全な系においては人間が規約を支配/統制しえるために必然性について確定したことを述べられるが、完全に保たれた外部について何ら確定したことを誤りなく述べることはできない。
 付言しておくべきは、ヒュームの破れについてであろうか。これはいかにも抽象的な想定であり、文脈によって解釈される強度にはばらつきがある。単にこれを、物理学また帰納法の妥当性を担保している自然の斉一性原理が破綻することとして、これは実際的にはどのような作用を指すだろうか。
 一つには、科学定数や自然法則の時空間変化が挙げられる。物理学においては、対象とする物理系の物理量を自然法則の定式へ代入することで演算がおこなわれるが、物理系によって個別に用意される変数の他に、あらゆる時空間に普遍に適用される一定値が科学定数として調べられており、また、ある物理量についてその何乗を、どの物理量に加算するのか乗算するのかは自然法則として定式化されている通りであり、これもあらゆる時空間において普遍に適用されることが想定されている。ここで、この時空間普遍性が破れることをもってヒューム的な破れとするのが一つである。しかしながら、これについては一時的な驚愕こそ物理学界隈を席捲するだろうものの、そうであるならと、物理学者は科学定数や自然法則に時空間変化項を付け加えることをもってこの破れを修復してしまうだろう。時空間への普遍性こそ喪われてしまったものの、自然界は元々そのような性質を有しており、これまで顕在化しなかったばかりに、我々がそれに気づかなかっただけである、と納得することは、およそ間違いない。
 上記のような、現行の体系が修復可能な破れを相対的に弱いものとすれば、強い破れとは一体どのように作用するものだろうか。これにはおよそ二種類あり、一つは、物理学が体系として維持されなくなるほど、場当たり的に、それこそ賽子が振られるような感覚で現象の生起様式が決定されるようになる場合である。ここでこの偶然性は、現在の量子論の分野で見られるような、普遍的な確率分布をしないことに注意する必要がある。ポアソン分布やガウス分布が現象の抽象として機能しうるかぎりは、物理学者の面目は躍如としているだろう。したがって、新規な現象の観測に対して物理学者の分析ならびに理解が追いつかなくなることで修復が不可能となること、これが強い破れの第一である。そしてまた第二であるが、これは物理学者の肉体が存続不可能になるほどの断裂が起こることである。生物の発生確率がおそろしく低い、この宇宙において、ついに人間をも淘汰されるのである。そうなってしまえば二度と体系化はおこなえず、そのために破れたあとの自然界について記述されることはない。
 結局のところ、ヒューム的な破れというのも、観察主体と完全な外界との接触面での作用のことであり、主観的な考察にすぎない。それはつまり、物理学の描像は経験から再構成された固有の論理空間におけるものだからであり、この論理空間は主観によって形成されることによる。外部に何か対象がある、というのは意識主体の内部に再構成された外部に何か対象がある、ということと等しく、また、そうして語られるかぎり、それは論理学的/数学的/物理学的に誤りなく必然的にある。

3. 真に客観性を獲得することについての想定 -物理学的マルチバースと実在論的マルチバース-
 物理学者は屡々「理想的に」という枕詞を用いる。これは煩雑きわまりない外部の、現実の物理系に対して、熱力学的考察であれば熱力学に、電磁気学的考察であれば電磁気学に、それぞれ関わるパラメータのみを抽き出し、また計算を簡単にするために、スケールに合わせて小数点第何位以下を切りおとす作業をも場合によりおこなう。この近似が成り立つのであれば、言い換えれば、このような近似を用いた考察が扱い者にとって有意であるかぎり、この「理想的な」議論は実用的であり、また妥当である。しかしながら、実在論的に想定される外界と、この近似された描像と一致することはなく、また、物理理論は抽象化に当たって大なり小なり必ず近似を含むため、観察主体としての物理学者に再構成される外界が実在論的に想定される外界と一致することはない(*4)。ここで、物理学的な外界像と実在論のそれとは、如何にして不一致であるのだろうか。
 物理学によれば、主体である人間を構成する肉体と、あるいは、肉体を構成する諸原子および諸素粒子と、相互に干渉を起こすものしか存在論の俎上にはのぼらない。例えば聾者は音信号を捉えられないため、これを除いた情報から自身のうちに外界を再構成する。とはいえ、物質の振動を触覚から感知することは可能であるため、知識としてこれによる信号伝達が人間社会でおこなわれていることを知れば、この構造について想像することは容易である。物理学者はこれと全く同じ仕組みによって放射線や磁場について知り、外界の再構成に用いる。放射線や磁場を感知する感覚器官を人間は遺伝的に具えていないがセンサでこれを補い、外部物理系の挙動を窺い知る。しかしながらここで、センサ、つまり拡張された感覚器に捉えられないもの、つまり何ら物質と相互作用を起こさないものは、物理学的な存在論上にはありえない。クォークやニュートリノといった素粒子は直接に観測できないものの、他の物質と反応した痕跡を捉えることで、かろうじて間接的にこれらの存在を確証することができる。だが、間接的にも観察者に観測可能な物質と干渉しないもの、標準理論ならびに何らかの物理理論を構成するさいに必要とならないものは、物理学的な存在論上にはありえない。まさにこの、人間固有のスケールにおいて観察も想定も不可能な対象の欠如によって、物理学的に再構成される外界と、実在論的に想定される外界とは一致しない。とはいえ、では経験可能な、したがって知覚可能なものは何でも物理学的に知りうるのかといえばそうではない。人間の存在する宇宙、ビッグバンより138億年が経過していると見込まれるこのユニバースは、現状最も遠方から到達している光子より138億光年の半径をもつと考えられる。しかしこの外端、ユニバースと外部の境界の状態について確定的に考察することは不可能である。もとより物理学に固有の論理空間の外部について確定的に述べることはできないが、しかしこの論理空間において再構成することすら不可能なのである。というのは、相対論によれば何物も光速度を超えることはできず、そのために当該ユニバースの円周へ到達することは不可能であるために直接観察することは叶わないし、円周の外部が無であるとすれば何らかの反射波を捉えることもできず、我々の身辺にある真空は僅かに基底エネルギーΛをもつが、これと等しいと考えられる根拠を提示することもできない。こうした人間固有のスケール、観測可能領域の制限の外部について物理学的に何も知りうることはないこと、またこの自覚は人間原理(anthropic principle)と呼ばれている。これは例えば、ドレイクの方程式によれば人間のある銀河系に存在し人類とコンタクトする可能性のある地球外文明の数が自身の計算によって10となったこと、そもそもビッグバンにより人間が生存可能な、したがって物質が凝集した状態が保たれるユニバースの生成可能性がおそろしく低いこと、等々について、納得のゆく説明を提示する。すなわち、人間のような知的生命体が生存すること、そのような環境条件は宇宙においてきわめて稀な、特異なことであり、この生存は出来過ぎているため、何か造物主による創造など何らかの意図を感じてしまうが、それというのは主体がそこにあるために、そのような宇宙しか観測可能ではないからである。つまり、主体が存在しない領域は観測不可能であるために記述されえず、特異性は記述にしか表れない。
 こうして、物理学および物理学的な記述は二つの原因から主観的であることがわかる。一つは実在論的に想定される外界との齟齬より、もう一つは観測可能領域の制限からである。ここで、この主観が如何にして主観的であるかを考察するため、両者の観点から想定されうる客観について記述してゆこう。
 後者の観点より客観化された存在論領域は物理学的なマルチバースである(*5)。人間の存在するような宇宙、つまり単一のビッグバンに生じる拡がりを単一の(uni)という意味でユニバースとしたとき、これがメタ空間(*6)には複数存在するが、このある種三次元メタ空間上に数え上げられる一群のユニバースの集合を、多数の(multi)という意味でマルチバースと物理学では呼ぶ。これは、現様の、したがって人間の存在するユニバースとは異なるユニバースが発生しうるというビッグバンのシミュレーションの要請に応えた宇宙の描像であり、すべてのユニバースは同一の科学法則の下に存立し、真空エネルギーΛなど科学定数値に差異があるものと見込まれる。これによれば、先に想定した138億光年という半径、すなわち視覚上の地平(visual horizon)の外側に事象の地平(event horizon)が想定されることになり、これはユニバース空間を包含するメタ空間の円周と一致する(*7 ?)。個々のユニバースは、視覚上の地平を見るかぎり相互に干渉していることは確かめられないが、ビッグバンより拡散した粒子の最高到達半径、すなわち粒子の地平(particle horizon)については現状検証不可能である。ともすると粒子の地平は視覚上の地平と一致し、その場合ビッグバンより経過した年数はおよそ138億年となるが、これを確証することは人間原理からして不可能である。
(図の挿入?地平およびメタ空間)
物理学的マルチバースとは、つまり、人間原理によって観測可能なユニバースの外側においても科学法則が適用される空間、メタ空間が存在した場合の物理学的な世界像であり、主観的な観測領域を逸脱して普遍化をおこなうために、主観を弱化あるいは排除し、より客観に漸近している。ここで更なる普遍化/客観化をおこなうとすれば現様の、したがって人間の存在するユニバースとは異なる様式で適用される科学法則を想定することである。それはつまりヒューム的な破れが適用されることに等しい。破れの強度はいずれでもよく、現様の人間固有の物理学の様式から体系化可能なユニバースも、体系化不可能なユニバースも、どちらも許容しうる。しかしながら、これは反証不可能性からマルチバース理論が批判されているように(*8)形而上学的な性質が甚だ強く、物理理論として扱えるかどうかは疑問であり、思辨による考察をおこなうのみに永劫留まろう。
 もう一方、前者の、実在論的な外界と物理学的な外界との断層への着目からは実在論的なマルチバースの想定によって客観化がおこなわれる。これは実在論的な外界、すなわち認識主体を含むあらゆる実在物を包含する実在論的な空間、これが認識主体に固有なものとして、この固有の存在空間についてユニバースという単位を与え、複数の認識主体を想定し、それぞれの認識主体が固有にもつ実在論的空間を多数含むという意味でのマルチバースを実在論的マルチバースと呼称し、この実在を想定することをもって客観化をおこなうのである。ここで、認識主体は個々の人間ではない(*9)ことに注意が要る。主体は一箇の情報処理系として抽象化され、これによれば外界から何らかの情報を得て、あるいはそれなしで、外界を主体自身のうちに再構成する。このとき、概ね同等である情報受信器(人間における感覚器、生物学的なヒトにおいての諸感覚器官)ならびに情報処理系(人間における知性や理性、生物学的なヒトにおいての脳)を所有し、これによって自身のうち外界を再構成される一群を仮に種族(Tribus)と呼称すれば、個々の種族は概ね同一の実在論的な空間をもつことになる。この、種族に固有の実在論的空間、ユニバースはほとんどの場合、存在論的空間と等しい。ここで存在論的空間とは物理学的に実証されるもの及びそうでないものの両者、すなわち固有の種族において想定可能であるあらゆる諸物が存在するとしたとき、この諸物の集合また形成する総合領域を指してそう言う。ここについて、数学/論理学/物理学といった、種族に固有な経験を抽象した理論は、固有の論理空間の外部について何ら確定したことを述べることはできず、また他に有効な手段は信念や信仰をおいてないため、正当性/妥当性を種族によって議論することはできても、その実際的な成否、つまり実在の可否を確証することは種族において不可能であるため、存在論的に存在を想定される諸物を如何なる篩いにもかけられないばかりに、実在論的にもそれらの実在を想定するよりないのである。
(図の挿入?地平およびメタ実在論的空間)
実在論的マルチバースとは、すなわち人間以外の認識主体を想定し、それら種族が固有にもつ実在論的空間の集合としてメタ実在論的空間、外部として想定される実在論的空間の更なる外部を想定する世界像であり、複数の主観を想定することにより客観化を図っている。当然ながら検証は不可能であり、また個々の実在論的空間は相互に接触不可能である。というのは、もし二つの実在論的空間が接触すれば、たちまち互いに独自に吸収が始まるからである。このとき接触した二つの実在論的空間が完全に統合されることは、一方が他方を部分集合として完全に取り込むことはありえるが、相互においてはありえない。個々の種族は固有の情報受信器ならびに情報処理系をもつために独立しているからであり、相手がメタ実在論的空間から得ている情報のすべてを自身でも得ることができ、それを処理することができるとすれば、その両者は同一の種族であることを意味する。
 以上のようなに二つの客観化作用により二つのマルチバースが想定される。ここで物理学的マルチバースは実在論的マルチバースの部分であるように一見して思われるかもしれないが、それは全くの誤解である。種族、また主体の発生不可能な物理学的ユニバースは、如何なる実在論的ユニバースにも実在しえないためである。また、これは逆についてもそうであり、すなわち、ある種族において想定可能な諸物/実在物がどの物理的ユニバースにも存在しない、ということは頻発する。この非在は、単一物理学的ユニバースに留まる種族にも、物理学的マルチバースを往来可能とする種族にも検証は不可能である。というのは列挙不可能性により、ある主体にとっての物理学的ユニバース集合、物理学的マルチバースが存在するすべてのユニバース群と一致することを確かめられないことによる。
 本章では長遠な記述により客観化作業をおこなってきたが、しかし完全な客観、すなわち誤りのないという意味で完全な世界像は、もう一つのピースを嵌めなければ完成しない。最後のピース、それは、実在論的外部は、あらゆる種族の実在論的空間によっても想定されえない諸物を含む、ということを了解することである。

ある主体において想定されるすべての諸物ならびにあらゆる種族において想定されるすべての諸物、そして如何なる諸物によっても想定されえないが実在する諸物、このすべてを含む実在論的空間こそ、主体の主観によらない完全な世界像である。

 あらゆる認識論的な問題は多数の種族の実在を想定すべきであり、まさにこのことによって、人間に固有な論理によらない、客観化された視座に立つことが可能となり、そして普遍的な論理を発見する。この論理は、数学/論理学/物理学に固有な論理の抽象の、更なる抽象である。種族に固有の経験によって第一に抽象され、続いて種族の主観性を排除することで第二に抽象される。
 本章の一連の考察は数学/論理学/物理学いずれの論理からしても真とも妥当とも言いがたいものであるが、それはただ検証不能性と、外部について何も確定的なことを述べられないという閉鎖性による。人間に固有の経験の外部について、人間に固有の経験の抽象である如何なる理論も、正しく議論をおこなうことはできない。

---------------------------------------------------------------------------------------*4)一致することを確かめられない、というのが正しい。しかし、それは実在論の優位性を認めてのことである。物理論の優位を認めると、物理論に構成可能な描像が外界と一致する。両者の対等をを認めると、検証をおこなうことも、一致を見ることも不可能となる。
*5)物理学では単にマルチバースと呼ぶ。下節において実在論的マルチバース導入のために、本論ではこう区別する。
*6)メタ空間(metaspace): 宇宙空間(space)が泡としてメタ空間の内部に点在する、という意味でユニバース空間spaceを物理的に包含する上位概念。
*7)George F.R. Ellis, Jean-Philippe Uzan Causal Structure in cosmology (2014 arxiv)
*8)Luke A. Barnes The Fine-Tuning of the Universe for Intelligent Life(5. The Multiverse)(2012 arxiv)
*9)勿論、このように想定することも可能である。すなわち、個々人において想定される実在論空間が固有のものであるという仮定であり、それによれば、意味論的に別のものを指して同一の記号を用いて言語相互伝達することが強調される。しかし種族(後述)による断裂はこれと比較にならないほど強い。
*10)しいて区別するならば、存在論的空間をまず想定して、それから種族固有のその空間の外部を想定して実在論的空間が浮上するため、存在論的空間の方が相対的に主観性が強い。

4. 論理的妥当性について、学問的であることの倫理性
 例えば、物理学上に理論として編まれる一連の演繹過程は客観的である。これはしかし誰の目に見てもその理論が妥当である、つまり式群が正しく規約どおりに計算された結果その特定の法則式に到達したか、という無謬性よりは実際的に自然界へその理論が有効に近似として機能するだろうか、という再現性に重きを置かれる。これは多数の個人が同一の環境で同一の操作をしたときの実験系の挙動が同一であることよりも、人間の手を介さない仕方でそのような操作がおこなわれたとき、すなわち自然が同一の初期条件下で自発的に同一の運動行程をなぞることが想定される。認識主体を取り除いたときにも同一の反応が起こらなくてはならず、これこそが物理学における客観性であり、ポパー的に言えば認識主体なき客観である。ここで、ヒューム的破れ、すなわち斉一性原理の破綻を想定して議論することはない。史上かつて人間はこの破れを経験していないという防災意識の欠如も勿論だが、一度の発見が未来永劫に機能するというこの原理を前提にして物理学的演繹は成されるため、現状の物理学様式は、仮にヒューム的破れを経験すれば、そしてまたそれが強度的に修復可能な断裂だったならば、一度挫折したのちに破れを許容する演繹体制を構築して、再た理論を産むようになるだろう。余計な仮定を増やしてはならないという演繹作業時の有名な指針の通りに物理学は斉一性原理を不壊のものと見做しているのであり、現状の演繹様式が論理学的に完全であるかといえばそうではなく、外界の物理的様式を解明したいなどという動機如何についてはさておき、物理学はただ再現性という名の客観性をもつ理論を有効に機能するものとして承認するだけである。
 ここで、物理学にかぎらず、学問における客観性とは明らかに、人間種族主観において妥当であり、また時に実用的であることであり、学問とはそうした人類知の堆積である。前章に見た、より普遍化された客観性は、この観点で逸脱している。学問知はただ人間の経験する範囲で、経験に即す形で運用されるべきであり、観測不可能/検証不可能な領域について学問的に考察することは、人間主観によって妥当性を見出すことができないために上項に違反しているためである。
 とはいえ、人間主観からして妥当性の薄い、思辨的な前章の議論は、オカルト的な蜚語、あるいは無神経な形而上学とは区別されるべきだと私は考える。物理学におけるマルチバース理論を仮に思辨物理学の理論だとすれば、この理論は物理学的発見、すなわち異なる真空エネルギーΛをもつ宇宙(ユニバース)の生起可能性を出発点としており、かつ物理学的に妥当な過程を踏む。すなわちインフレーション理論によるそれぞれのユニバースの発生を、また既知である量子論や高エネルギー物理学理論などから存立を、それぞれシミュレートする。つまり前提とする客観性をわずかばかり変形させて演繹作業に当たっているわけであるが、しかしそもそも客観性について明文化された規則は見当たらないことから、この了解は習慣から形成された不文律であると考えることもできる。問題があるとすれば、人間の存在する宇宙が数あるユニバースのうちの一つに過ぎないことを検証する手立てがないために妥当性について判別ができず、それにより実用的でないことである。とはいえ実用的でないとはつまり、この理論を用いて何も確定した演繹をおこなうことができないということである。思い返せば、論理学/数学/物理学は、自己に固有の論理空間、すなわち規約を自己定義し、その了解が必然的に機能する領域でしか何も真であることは言えず、外部にこれを適用するさいは場当たり的に妥当であることを確かめるに過ぎなかった。思辨物理学は、物理学という一つの論理空間において妥当性を検証できないばかりに、何も確定的なことを言えないが、しかしここで思辨物理学について、思辨物理学に必然性が与えられる固有の論理空間を想定すれば、この領域ならば思弁物理学的な理論を妥当なものと仮定し、これを用いて論理的に演繹作業をおこなうことができる。
 こうして、学問的な基礎と演繹過程をもち、ただ種族主観によって検証不可能であるばかりに学問的に妥当ではない学問、ならびにそれがもつ固有の論理空間について「思辨○○学」と呼称することにすれば、この思辨の学問は二段階の客観化がなされている。一段階目は種族主観に観測/検証可能な範囲で広い領域に適用可能であるという抽象性の獲得であり、二段階目は種族主観の観測/検証可能領域外部への適用性の獲得である。この二段階目における主観自身による妥当性の担保は、ただ主観自身が規約を了承することによるが、それは一段階目においても同様である。ただ生活上にこの学問知を援用できるか否かが両者の境界である、と言うこともできる。
 こうした面で、思辨的な学問は、まずは倫理の学問として扱われるべきであると考える。思辨的学問における妥当性、また論理的妥当性は、主体自身の了解に基づくものであり、一歩誤れば信念や信仰へ還元されかねない。これはひとえに、自然界や実社会での実践というフィードバックを得られないために起こることであり、フィードバックは専ら思辨的学問自身の自己批判による。とはいえここで、何を思辨的学問理論とし、個人の信念や信仰と区別するのかが、多数の支持者の獲得によってなされるとすれば、思辨的学問は失敗に終わる。種族主観性の撤廃こそが思辨的学問の目的であり出立点だからであり、個人間にドクサとして機能することを求めてはいないためである。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

kammultica

コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。